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授業終了の鐘が鳴り終わると同時に、わたしは屋上へと向かった。頑張れと言ってくれた仁王くんの顔が浮かんで、階段を上がる足に力が籠もる。
お昼休み、久しぶりに一人で食べたお弁当は味がしなかった。ポケットに入れてある携帯は一度も振動しなかった。蓮二くんが居ないだけで、わたしの世界は180度変わってしまうんだと、苦笑した。
ギィ、と古い扉を開けて屋上へと足を踏み入れる。少しだけ涼しさの感じられる風が肌をさらっていく。一歩一歩足を出して、わたしは立ち止まった。あの時のように、フェンスに手を添えて。
校舎から生徒たちが出て来るのを遠目に、蓮二くんを待つ。どきどきと波立つ胸に手を当てて目を瞑った。同時に、扉の開く音が屋上に響いた。
「……なまえ?」
風にさらわれて届いた声がわたしを安堵させる。振り返った先に居たのは、蓮二くん。
『…よかっ、た』
来てくれて。もしかしたら来ないかもしれないと、思った。そう言うと、蓮二くんは困ったように眉を寄せて手に持った封筒を前に出した。
「こんなものを貰って、来ない筈がないだろう」
それは、わたしが出した手紙。宛名もなければ差出人の名前もない、ただ「放課後に、屋上で待っています。」とだけ書かれた、手紙。
『よくわたしってわかったね』
「筆跡を見ればわかる。…何か、用か?」
するりと下ろされた腕と、冷たさを孕んだ言葉に少しだけ挫けそうになる。だけど、逃げちゃいけない。内容や名前を書かなかったのは、伝えたい事がありすぎたというのもあったけど…わたしだとわかって欲しいっていう願望でもあった。
でも本当は、自分の口から伝えたかったから。
『…まず、先に謝りたいの』
「…っ、そんな事なら気にしていない」
『違うの!違うんだよ、蓮二くん』
「なまえ…?」
一歩足を下げた蓮二くんにわたしは声を張り上げた。うっすらと目を開く蓮二くんは少しばかり驚いているように見える。
『確かに、あの時間違えて蓮二くんの靴箱に手紙を入れた』
「……」
『違うんだって言えなかった自分が居たの。言い出せなくて、逃げて、…蓮二くんを傷つけた』
仁王くんに言われたように、本当の事を言えばよかったって、今になって後悔した。
『…わたし、わたしね、一年生の頃から真田くんが好きだったの』
「……っ、」
『…好き、だった。……だけどね、今はすごく、蓮二くんが、愛しいの』
「――…」
『…好きだよ、蓮二くん。好きなの。苦しくなるくらい、好きなんだって、気づいたの』
ごめんね、好きだよ。ポロポロと剥がれ落ちていく気持ちが涙と言葉になって溢れてくる。だめなのに、まだちゃんと伝えてないのに。そう思っても、口からは好きの二文字しか出てこない。ああわたし、好きしか言葉知らなかったのかな。
『…っ、いつの、まにか、蓮二くんと、食べるお昼が楽しみで、キス、も、いやじゃなかった、の』
「……もう、いい」
『好きが、変わってっちゃう、気がしてっ、怖くて、だけど、惹かれてる自分も、居て、でもっ、手紙を思い出したら、遊び、だったのかな、とか、思って、』
「…もういいんだ、なまえ」
『れん、じ、く…っ』
ふわりと、身体を包み込まれた。強く、強く、逃がさないように抱き寄せる蓮二くんの背中に腕を回して、わたしはまた泣いた。
「…本当は」
『れんじ、くん…?』
「本当は、チャンスだと思った」
ぽつり、耳元で話し出す蓮二くんの表情はわからない。
「手紙の差出人の名前を見た時、ああこれはきっと弦一郎に宛てた手紙なのだとすぐにわかった」
『……れ、ん』
「…弦一郎に渡そう思えば、渡せた筈だ。だが、これを逃せばもうチャンスはないと思ったんだ」
すまない。そう言って、一際強くわたしを抱く腕。痛いくらいに締め付けられるのは、きっと身体じゃない。
「お前が断れないのを良い事に、俺はお前の気持ちを無視して自分の気持ちを優先させた。たとえ違う男を見ていても…と。…最低だな、俺は」
嘲笑うように蓮二くんは小さく笑った。…そんな事言わないで。蓮二くんは最低なんかじゃない。悪くなんかないんだよ。ぎゅう、とわたしは縋るように蓮二くんに抱き着いた。
「…ずっと、」
『…?』
「俺は、お前が欲しかったんだ」
ソッと離された身体。するりと髪を撫でる手と、小さく笑みを浮かべた蓮二くんの顔。見上げた先にあった綺麗な唇が、言葉を描く。
「ずっと、好きだった」
『…っ、』
「好きだよ」
流れる涙を優しく拭って額に柔らかな唇を落とす。愛おしそうに目を細めながら、わたしの身体を抱く蓮二くんが、わたしは誰よりも愛おしく思った。
「…許して欲しいとは思わない。ただ、」
『蓮二くん』
「…なまえ」
ゆっくりと身体を離してわたしのより幾分大きい彼の手を取る。そしてそれを頬へくっ付けた。
「!」
『わたしは最初から、怒ってなんかないよ。だから、許す事もない』
「だが、」
『わたしは、…わたしは、蓮二くんが居てくれたらそれだけでいいんだよ?』
ただ、それだけでいいの。へらりと笑うわたしに、蓮二くんは目を見開いてから、「敵わないな…」と呟いた。
「…ありがとう、なまえ」
眉を下げて困ったように、それでいて嬉しそうに微笑む蓮二くんの頬へ、今度はわたしから口づけた。
『好きだよ』
ずっと抱いていた気持ちを、小さな言葉にして。
サァ…とわたしたちをなぞっていく夏の風が、密かに祝福してくれた気がした。
...fin.