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銀時の言葉を待たずに、私は戸に手を添えて、銀時がもたれていたと思われる場所に、コツンと額を当てた。
「その相談に乗る代わりに、先に聞いていただきたいことがあるんです」
「……おー」
少し間があって、銀時の返事を受けた私は、戸に額を当てたまま、ふぅと深呼吸をして瞳を閉じた。
「最近、小説を呼んだんです。その、…恋物語の」
「…」
「主人公の女性が、恋をするお話なんですけど」
私は小さく、それでもはっきりとした声で言葉を繋げた。先ほどまで頬を流れていた雫を拭い、思い出していた。あの日のことを。
「その主人公、今まであまりいい恋愛をしてこなかったみたいで。もう恋なんてしない、なんて決心していたはずでした。…それでも」
戸越しにいる彼の表情はわからない。自分でも何を言っているんだろうと思ってる。でも、言わずにはいられない。聞いて欲しかった。
「ある日、運命的な出会いをするんです。運命的、何て言っても出会い方はそんな大それたものなんかじゃなくって。それでも、その主人公はその男性に、いつの間にか好意を抱いていました」
「…」
「優しい笑顔が素敵な男性でした。まだ数回しか顔を合わせていないのに、目が合うだけで胸が高鳴って。笑顔を向けられるだけで顔が火照って。きっと、…一目惚れをしてしまったんでしょうね」
ファミレスで向けられた笑顔。飲み屋に行かないかと誘われたこと。失態のせいであまり覚えていない居酒屋でのこと。私は何度も思い出していたその情景を、瞼の裏に浮かべた。
「…せっかく、恋ができるかも、なんて思っていたのに。…彼との別れ際、その主人公は彼に抱かれることを望んだんです。なぜ、そんなことをしたのか、わかりません。ただ彼と一緒にいたかった純粋な気持ちからなのか、はたまたそうして彼の心を繋ぎ止めていたかったズルい気持ちからなのか。今となっては、…わかりません」
銀時は相槌を打つこともなく、何か言葉をかけることもなく、黙って私の言葉を聞いてくれていた。私は彼と過ごした日々をまた瞼の裏に浮かべる。
「それから、その主人公は何度も彼に抱かれました。本当はこのままじゃダメなんだという気持ちもあったはず。それでもその主人公は、彼の腕の中にいることを選んだ。気持ちを伝えられるほど、自信も勇気もなければ、その腕を離せるほど、強くなんかなくって」
「…」
「それでも、その主人公は幸せだったんです。自分のものにならなくてもいい、一時だけでも愛してもらえるなら。どんどん素直さからかけ離れて、自分の気持ちを満たすためにズルくいることを選んだんです。でも、そんなの続くわけないですよね。本当は何度も願った。私だけの彼でいてくれたら、私を愛してくれたら。そんな愚かな願いがきっと、彼に伝わってしまったのかもしれません」
いつの間にか、私の瞳からは一筋、また一筋と涙が溢れていた。言葉にすると、何でもないこと。それでも私はあの日々を本当に大切に思っていた。このままずっと続けば、と思っていた。鼻をすすりながら、言葉を続けた。
「…彼は離れて行きました。主人公は例え酷い言葉を吐かれようと、酷いことをされようと、平気だった。でも、本当は、心の底は、全然平気なんかじゃなかった。離れた後も、何度も彼に会いたくて。何度も気持を伝えたくて。そんなことも出来なかった自分が情けなくて。傷つく勇気も、泣きつく勇気も私にはなかった。彼がいたこの部屋も、冷蔵庫にたくさん溜まってしまった洋菓子も。もしかしたら、また会いにきてくれるかもしれないと…そう、期待して…」
「…」
私は涙を流し嗚咽を吐きながら、両手を戸に当てて、額を押し付けた。ポタポタと絶えずこぼれる雫が、コンクリートの玄関を濡らす。震える手を介して、カタカタと戸が揺れる音がした。
「…花、萎れてなんか、いませんよ。だって、ずっとあなたは優しくしてくれていたから。…あなたの愛をちゃんといただいていたからっ……、だから…っ」
戸から離れずっと鼻をすすって、私は震える声を絞り出した。…たくさん悲しい思いもした。辛いと思うこともあった。それでも私は本当に幸せだった。彼に出会えたこと。彼と過ごした日々。彼の優しい笑顔。温かい腕。私の全てだった。だから、…私は。
「…ずっと、会いたかった。銀時さん、…あなたに会いたかった。…開けても、いいですか、銀時さんっ…」
その瞬間、勢いよく開かれた戸。私を見下ろすように立っていた彼は、私が大好きだったとても柔らかい笑顔を浮かべて。困ったように、眉を下げていた。
「…んなこと泣きながら言われて、断れるわけねェだろーが」
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