Ichika -carré- | ナノ


▼ 寝顔と涙と俺とアイツ 1/3



通い慣れた長屋の前、俺は一人壁に背をもたれながら、こちらを覗く漆黒の夜空を見上げていた。カタンと音を立ててその長屋から出てきたヤローは入れというように顎をしゃくってみせた。


「薬飲んで寝てるから。…俺ァ朝になったら戻る」

「…おう」


そう一言残して隣の屋根に飛び移ったヤローを見届ければ、俺は小さく深呼吸をして部屋へと足を踏み入れた。

あれから俺がヤローに頼んだこと、それは「最後にアイツのツラ拝ませてくれ」とそれだけだった。それもアイツの寝顔。それだけで俺は十分だった。俺を忘れたアイツの向ける瞳に、俺はきっと耐えられない。また逃げ出しちまう。…それじゃあまりにも俺自身が惨めで情けない。せめて寝顔でいいから、最後にこの目に焼き付けておきたかった。「最後」なんて言葉にまたヤローは俺を小突いたが、それ以上何も言うことなく俺の頼みを聞き入れた。

部屋に入ればむせ返るほど鼻いっぱいに広がるなまえの匂いに頭がクラクラとする。好きだったはずのなまえの匂いが俺を容赦なく追い詰めて、息苦しい。俺が撒いた種だと言うのに、俺もつくづく勝手なヤローだと痛感した。戸を引いて最後に訪れた時と何も変わらない和室を見渡せば、いつもの場所に敷かれた布団で眠るなまえの姿。いつも通り持ってきた手土産の団子を台所に置いて、暗闇の中ゆっくりと眠るなまえの元へと近寄った。


「…なまえ」


傍に座り込み思わず名前を呼びかけても、瞳は閉じられたまま規則正しく呼吸を繰り返すだけで何も返事はない。普段は釣り上がっていることが多い眉毛が情けなく下がっていて思わずふっと笑みが溢れる。…人の気も知らねェで気持ちよさそーに寝てらァ。掛け布団にしっかり仕舞われた細い腕を引っ張り出して静かに手を握れば、感じる暖かい体温に喉の奥に何かつっかえるような感覚に陥った。


「なまえ」


もう一度、今度は先ほどよりはっきりと少し大きめの声でそう呼びかけても当たり前だが返事はない。握った手のひらを指で撫でながら、ただ黙ってその寝顔を見つめた。

初めてこいつに会った時、そーいやこいつ鼻ほじってやがったなァ。女のくせに少しも飾ることなく男顔負けの口の悪さがどうにも腹立たしくて。そのくせ随分綺麗な顔してやがるから、すんげー気になっちまってさァ。今思えば初めて会った時からこいつに惚れちまってたのかもしんねェな。

白い肌、真っ直ぐな瞳、少し高めで無駄にデカイ声。自身の内の弱さも見せることなく身体の芯から通った真っ直ぐな心。沢山のモンを背負ってる筈なのに、少しもそれを苦だと思っていない不器用さ。いつしかテメーの人生と重ねてた。これだけは曲げちゃならねェことがある、それでも護りてェモンがある。上手く生きられもしねェくせに、気が付けば大切なモンばっか増えていってた。

気付けば俺の中で俺がなまえを護らなきゃいけねェと、そんな気持ちが生まれてた。地雷亜のときに言った言葉は少しも嘘じゃない。

『お前が俺の手ェとって歩けるよーになるまで、いなくなったりしねェから、安心しろよ』

なまえが月詠やこの吉原を護りてェ気持ちがあるように、俺は、俺だけは何があってもなまえを護り抜くと決めていた。その魂も心も身体も、何もかも。それなのに俺は少しもなまえの心に気付いてやれなかった。テメーの気持ちばかりを押し付けて、よく見りゃすぐに気付けることだったってのに、なまえの愛の深さに気付くことができなかった。


「…なァ、なまえ」


ぎゅっと手のひらを握ってもそれが返ってくることはない。…最後の別れの挨拶にしちゃ随分と冷めてやがる、なんて自身が選んだことだというのに心の中で小さく悪態をついた。




prev / next
bookmark

[ back to main ]
[ back to top ]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -