▼ 近いようで遠いアイツ 1/1 side服部全蔵
「…ったく、損な役回りだなァ、元カレってのは」
しんと静まり返った邸内で、そんなことを独りごちた。この一週間、隣にはずっとうるさいヤツがいたもんだから、余計にこの屋敷が広く静かに感じる。この日々が仮初めだということは、最初からわかりきっていた。それでも、俺はアイツを傍においておきたかった。今にも壊れそうなアイツを、俺は放っておくことができなかったんだ。なのに、何でわざわざあのバカに会わせちまったんだろうな。あの侍がここに来るだろうということはわかっていた。予想通りやってきたあのバカを、最初は門前払いするつもりだった。もう、誰にもアイツを渡さねェ。…そう思っていたのに。
『何の用だ』
『…いるんだろ、ここに』
『さァな。いたところで、テメーには関係のねェことだ』
『……それはお前が決めることじゃねェだろ』
『アイツが会いたくないっつってたら、どーする』
そん時の、あのバカの顔ときたら。俯いていた顔を上げて、心底哀しそうな表情をするその顔ときたら。俺はもうそれ以上何も言えなくなってしまった。俺だけが、アイツを護ってやれると思っていた。俺だけが、アイツを愛してやれると思っていた。俺にしかできないことだと、思っていたのに。気が付けば『呼んでくるから、待ってろ』なんて言葉を言い放っていた。
アイツに声をかけ、門前で話す二人の会話を、柱にもたれ盗み聞きしていた。盗み聞きといっちゃ聞こえは悪ィが、気になるに決まってんだろ。アイツが何を言うのか、ヤローがどう出るのか。この時の俺は、もう邪なことなんか考えちゃいなかったさ。ただ、早くなまえの笑顔が見たい。それしか考えちゃいなかった。
『もう何も、考えたくない…』
なんて言いやがるから、俺の理性は飛びかけたものの、やっぱりダメだった。俺がアイツの泣き顔に堪らなく興奮するのは事実だが、泣き顔なら何だっていいわけじゃない。はらはらとあのバカ侍を思って流す涙なんか見たって、少しも嬉しくなんかねェ。そんなアイツを抱けるワケねェだろう。俺は、アイツを幸せにしたかったんだ。願わくば、俺の手で。…それなのにこのままコイツを抱いちまったら、幸せになんかしてやれねェんだ。そんなんじゃ、何も意味がねェんだ。
『…ありがとう。私、お前と付き合えて、よかった』
知らないうちにどんどん強さを手にしていたアイツに、どうやらもう俺の手は必要ねェらしい。その証拠に、随分と上手に笑えるようになったもんだ。出会った頃はあんなに危なっかしくて、儚げで、少しでも突けばすぐに壊れてしまいそうな女だった。それでもそんな弱さを表に出すこともなく、気丈に振る舞い続けるアイツを、俺は放って置けなかったんだ。でも、もうその必要はねェらしい。
『俺も、愛した女がお前でよかったよ』
不本意だがあのバカに任せておけば、アイツはまた笑えるようになるだろう。むしろもうあのバカの隣でしか、アイツは幸せになれねェんだろう。
なァ、なまえ。団子ばっか食ってねェで、毎食ちゃんと飯を食えよ。酒ばっか飲むなよ。言いたいことや思ったことはちゃんと言えよ。ギリギリまで溜め込まねェで、ちゃんと泣きたい時は泣けよ。あのバカなら、きっと受け止めてくれるだろうから。
気が強くって口も悪けりゃ、飯もまともに作れねェ。仕事はサボってばかり、暇さえあればゲームに酒に、一見すりゃお前さんはどうしようもねェ女だ。…だけどな、本当は優しくて、誰よりも周りを大切にしている仲間思いの人情に厚いヤツだって、俺はわかってる。きっと周りの連中もお前さんをよくわかっているはずだ。だから、安心してもたれればいい。
「…何が愛した女、だよ。…まだ現在進行形だっつーの」
はぁっとため息をついたものの、思いの外気分は悪くない。俺は自分の手でアイツを幸せにしたかった。だけどもう、そんなことはどうでもいい。それが誰の腕の中だろうと、もうどうでもいい。アイツが幸せだと笑えるなら、それでいいんだ。
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