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一向に引き退る気配のない全蔵に折れた私は、仕方なしに吉原の外れにある馴染みの小さな居酒屋に足を運んだ。古びたカウンターに並び、日本酒を呷る。
「最近どーなの。相変わらずバイトで食いつないでんの」
「まァな。ピザの配達に明け暮れてるよ」
「あんた程の腕のある忍びも、このご時世じゃ使い道もないってワケか」
「摩利支天なんて呼ばれてたってのに聞いて呆れるぜ」
摩利支天ね、随分懐かしい呼び名だこと。全蔵はその呼び名に恥じぬほどの手練れであることは十二分に知っている。その男の腕の立つ場がないとなると、何とも寂しい気持ちになってしまうのは、心底この男の腕に惚れ込んでいる私の本音だ。恋愛感情を抜きにすれば、この男へのそういった信頼はとてつもなく厚いのだから。
「お前さんの方はどうなんだ、もうジャンプ侍とやることヤったのか」
何とも下世話な質問に、ブッと日本酒を吹き出してしまった。仮にも昔の恋人に向ける質問でないことは確かなのに、当の本人は気にする様子もない。
「ヤってねーし、仮にヤったとしてもお前にだけは絶対言わねー!猿飛にチクりそーだし」
「はァ?ヤってねェの?俺とは散々ヤりまくっ…」
「テメーが猿だっただけだろーが!!!」
あごヒゲを摩りながらニヤりと微笑む全蔵は、何だか誇らしげな顔をしている。ジト目で睨みつけると、全蔵はそんな表情のままお猪口を口に運んだ。
「へぇ、まだヤってねーんだ、へぇ」
「何でお前嬉しそうなの?キモいんだけど」
「だって、お前のあんな声やこんな顔、アイツは知らねェってことだろ?…この優越感悪くないねェ」
「はっ…!おま…、なっ!!!」
全蔵の言葉にみるみる顔が熱くなる。そんな涼しい顔で何つーこと言ってのけるんだ、この男は。
「ベッドん中じゃ随分可愛い声出すからな、たまんねェよ」
「ニヤニヤしてんじゃねェ!!!つーかお前どんだけ昔の話引っ張るつもりなんだよ!」
「俺ァ昨日のことのように思い出すぜ、お前さんの惚けた甘い…」
「やめろ、忘れろ!お前そんなんだから、いつまで経っても新しい女できねーんだろ!!いい加減前向いて生きろ!」
オトコっつーのは何でどいつもこいつも、過去のことをほじくり返してくるのだろうか。ピッと中指を立てると、全蔵は(無駄に)切なげに遠くを見据えた。
「女だったら、誰だっていいワケじゃねェんだ。欲しいモン一つ手に入りゃ十分なんだよ」
「……、あっそ」
全蔵は私の言葉に、柔らかく笑うとポンと頭に手を置いた。何とも言い難い表情に、私はその手を振り払うことができなかった。お猪口に残った酒をぐいっと呷って、立ち上がる全蔵につられて私も腰を上げた。居酒屋から私の家までの道を、少しだけ距離をとって並んで歩く。
「珍しいじゃん、本当に一杯だけ」
「ちょいとお前さんの顔を拝みたかっただけだからな」
「そーやってすぐ暇つぶしに使うのやめてくんない」
先ほどまでのテンションはどこへやら、口数の少なくなった全蔵に若干の居心地の悪さを感じて、私も無意識に口を噤む。少しだけ前を歩く全蔵の表情は少しも見えなくて、視線を空へと逃す。こちらを覗いた闇からは、雲こそ覗けど月どころか星一つすら拝むことはできなかった。長屋の前に着いた全蔵は、足を止めて振り返る。少しだけ口角が上がっているから、機嫌が悪いとかそういったワケではなさそうだ。
「じゃーな、なまえ」
「気をつけて帰れよ、全蔵」
ひらりと手を振る私を見ても、全蔵は一向に私に背を向けようとはしない。「何?」と首を傾げた私に、全蔵は自嘲するように小さく笑った。
「…全部、やり直せりゃいいのにな」
「…え?」
「初めて会った日から、全部。やり直せりゃいいのに」
「…何、」
「そうすりゃ、お前さんを泣かせることも、悲しませることも、…しねェのに」
酷く小さな声だった。消え入りそうな、心の声みたいに。本当に私に向けられたものなのか、疑いたくなるほど、小さくて切なげな声だった。全蔵を見つめたまま動けない私にもう一度「おやすみ」と声をかけた全蔵は、そのまま吉原の町へと消えて行った。
全蔵が見えなくなってからも、私はその場から一歩も足を動かすことができなかった。
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