▼ 片目の男と液晶の中のアイツ 1/2
『ぬしが最近感じておる違和感の正体じゃ』
いつにもまして真剣な表情の月詠の言葉が頭から離れてくれない。…早く真実を知りたい。そう思いながら吉原を飛び出してきたはずなのに、私の足取りは重たく気持ちが晴れない。…真実を知るのが怖い。そうどこかで思っている自分がいる。このモヤモヤとした心の霧がなくなるなら、もちろんそれに越したことはない。だけど、なぜか心のどこかでそれを知りたくないと拒絶している。理由はわからないけど、とにかく私は柄にもなく怯えているのだ。なぜこんな気持ちになるのだろうか、見当もつかない。
「…」
河川敷に差し掛かった時、私の足はとうとう歩みを止めてしまった。…もう少し気持ちを落ち着かせてから向かおう。そう思い直して、私は川でも見て落ち着こうと河川敷を降りたところで、こちらに背を向けて川を見ている一人の人物を捉えた。
「…お邪魔しまーす」
先客にそう声をかけても、特に返事をすることなく川の方へと向き直っている。すん、と鼻を鳴らせば僅かに届く煙の香。よく見れば片手に煙管をこさえている。笠で顔こそ見えないが、小柄で細身の女。月詠もそうだが、最近の女は煙管を吸ってるやつが多いな。そんなにストレスでも溜まってんのか?なんて思いながらその女の後方に腰を下ろした私はふぅ、っとため息をついた。
「フン」
「…えっ」
不意に聞こえてきた鼻で笑うような声。だがそれは女のものではなく、聞き間違えでなければどう考えても男のそれだった。私は俯きかけていた顔をバッとあげてその女、…いや、男を見つめた。ゆっくり振り返ったその男は私を捉えるなりくっと口角を上げた。左目は眼帯で隠されていて、私を捉えた右目は随分と闇の深い冷たい瞳をしている。思わず私は息を飲んだ。…何、こいつ男だったのかよ。何で女物の着物着てんだ。つーか何だよこいつの目は。….私は蛇に睨まれた蛙の如く、その男から視線を逸らすことができない。
「…あのバカにできた大切なモンがどんなモンか見にきてやったってのに」
「…え?」
「壊すまでもなく、もう壊れてやがったとはな」
まるで私を知っているような口ぶりに私は思わず首をかしげる。その男の低い声が耳に反響した。え、誰?こんなやつ知らねーけど。ていうかあのバカって?…だけど確かに初めて会うやつとは思えない。なぜかその男を知っているような気がした。雰囲気?声?…わからない。何となく直感的にではあるがその声を聞けばどこか懐かしさを感じ、そんなに悪いやつじゃないかも、なんて思ってしまった。
「おにーさんが何のこと言ってんのか見当もつかないけど。…確かに私壊れてるのかも」
「…」
「今ね、私すげー知りたいことがあるの。本当に本当に知りたいはずなんだけど」
「…」
「どっかでさ、それを知るのが怖いって思ってるんだよね」
こんな見ず知らずの怪しげな男に何言ってんだ…なんて思いながら、どこか親近感の湧くその男についついそんなことを吐き出してしまった。私の言葉に何を言うわけでもなく、煙管を咥えて前を向き直ったその男の背中を見つめながら、また独り言のように語りかける。
「何か周りの人間の雰囲気も変だし、私の体調もおかしいし、毎日毎日変な夢見るしさ」
「……夢?」
「そ。毎回同じ夢。私雨ん中立ち止まってんの。寒くて寒くてたまんねーのに、少しも動けなくってさ。だけどそうこうしてるうちに誰かが私に手を差し伸べてくれんの。その途端身体が自由になるんだけどさ」
「…へェ」
「昨日は違った」
そこで言葉を止めた私を少しだけその男が振り返った。愛想は悪いがなんだかんだ聞いてくれているそいつにへらっと笑って見せれば、またフンと鼻を鳴らして前を向き直った。
「顔も見えないし声も聞き取れない。誰かもわからないそいつが、…泣いてたの」
「…」
「それがすっごい悲しくってさ。誰かもわかんねーのに、変だよね」
「真実を知れば、その夢のヤローに会えるんじゃねェか」
「…」
「だが、お前さんは知りてェはずのヤローを知るのが怖ェ。…そんなとこか」
「…ん、そう。怖いっていうか、…なんか上手く言えないんだけど、知らない方がいい?ていうの?何かわかんないけどそんな気持ちになる」
「…蛇に噛まれて朽ち縄に怖じる、ってな」
「へ?」
ふぅ、と細い煙を吐き出しながらそう呟いた男に、私はまた首を傾げた。へび、…え?何?
「私そういう難しい言葉よくわかんねーんだけど」
「一度嫌な目に遭うと、次からはそれを必要以上に怖がっちまうことの例えだ。テメーが覚えてなくとも、テメーの魂がそいつを覚えてるんだろうよ。これ以上テメー自身を傷つけたくねェと潜在意識が真実を知ることを拒絶してる。ただそれだけのことだ」
「…?」
「どうせ壊れかけの魂なんだ、今更いくら傷付こうがどうってことあるめェよ」
そう一言呟いて、こちらを振り返りゆっくりと私の横を通り過ぎるその男を視界に感じながら、私はその言葉の意味を理解しようと必死だった。一度嫌な目に遭うと、それを必要以上に怖がる?…それじゃあまるで私はあの夢の中のやつに何かされたみたいな言い方じゃねーか。だけどそんな風には感じなかった。些かの愛しさこそ感じたが、憎しみの気持ちなど、少しも。…というか、何だ?こいつまるで私だけでなく、その夢のやつのことさえも知っているようなその口ぶり。…この男は、一体。思わずオイ!と声をあげて振り返った。
「……アレ、いない。…何だったんだ、アイツは」
一人になった河川敷でそう独りごちた。何から何まで不可思議なやつだったが、私の心にあったモヤがなぜか一瞬で消え去っていた。壊れかけの魂、なんて随分と失礼な表現だったが、確かに否定はできない。ここのところ私は私自身がよくわからなかった。とてつもない喪失感が日々私の心を侵食していた。今更何を知ったって驚きも傷つきもしない。この気持ちをずっとこさえるくらいなら、やはり真実を知りたい。
「…よし」
先ほどまでの重い足取りは何処へやら、勢いよくその場を駆け出し、随分と軽くなった気持ちを胸に私は地図に書かれたカラクリ堂とやらへ急いだ。
…恐れることなど、何もありはしない。
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