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「よォ」
見飽きたもっさり前髪の忍者が俺を捉えるなりぴっと片手を上げた。その言葉に何も返さずに、公園のベンチに腰をかけるヤローの前に黙って立ちはだかれば、ヤローは呆れたように短く笑った。
「何だよ、そのツラは。ヒゲぐらい剃ったらどうだ」
先ほどの電話の主はこのイボ痔忍者だった。近くの公園まで出てこいと告げるなり、早々に電話を切ったこの勝手なヤローに文句言うだけの気力が今の俺にはない。だが確かに最後にヒゲを剃ったのはいつだったか。徐に顎をさすれば触れるヒゲに自嘲するように笑った。
「何だよ」
「お前あれから何してんだ。吉原にもこねェで」
「…もうアイツの気持ちはテメーに向いてんだから俺が出る幕はねェだろ」
「まァ、そうだな」
…何しにきたんだよ、こいつ。自慢でもしにきたのか。俺の元に帰ってきたとか何とか、そんなことを言いにわざわざ俺に会いにきたのか。だとすりゃこれ以上話すことなんて何もねェ。俺は黙ってヤローに背を向ければ「待てよ」と不機嫌そうな声が聞こえてその足を止めた。
「…お前、本当にこれでいいのか」
「…」
「なァ」
「いいんじゃねェの」
ヤローに背を向けたまま、そう呟いた俺の声は自分でも驚くほどはっきりとしていた。一拍置いて、は?と声を上げるヤローに向き直って俺はまた嘲笑を浮かべた。
「忘れていることの方が幸せなら、その方がいいんじゃ…」
次の瞬間ヤローは俺に飛びかかり胸ぐらを掴み思い切り俺をぶん殴った。思わず尻餅をついて口元を拭えば、口の中に広がる鈍い鉄の味に俺は無意味に口角を上げた。…あーいてェな、このヤロー。
「アイツがどれだけお前を好きで、その結果こうなっちまったってのに、お前はいつまでそんなこと言ってるつもりなんだ」
「…」
「お前はアイツの何を見てきたんだ?お前の気持ちはそんな程度のもんなのか?もう好きでも何でもなくなっちまったのか!?」
「……だろ、」
「何だ、聞こえ…」
「そんなワケねェだろうが!!!」
立ち上がりヤローの胸ぐらを掴み、よく見えねェ瞳を睨みつければ、同じようにヤローは俺を睨みつけている。好きじゃなくなった?バカ言ってんじゃねェよ。そんなことが出来たら、こんなに胸が苦しいわけがねェ。毎日毎日あんな夢を見るわけがねェ。こんなにも…アイツに触れたいと、思うわけねェだろ。
「だったら逃げるんじゃねェよ。ちゃんと向き合ってやれよ。…お前前に言ってたよな、アイツはテメーにすら弱みを見せねェって。お前本気でそう思ってんのか?」
「…だったら何だよ」
「アイツがな、俺の前で涙を流したのは別れ話をした時だけ、後にも先にもその一度だけだ。アイツはお頭の前ですらそんな姿を見せることはほとんどねェんだ。そういうヤツなんだよ、なまえは。テメーの荷を人に背負わせることはしねェ。テメーが背負って解決するならそれでいいと思うヤツだ。決して弱みは見せねェ、どんなに辛くて苦しくってもそんな姿を他のヤツに見せることはねェ。…そういうヤツだった」
「…」
「だけどな、アイツはお前に出会って変わったんだ。お前は何度アイツの涙を見てきた?何度胸に抱いてアイツを宥めてきた?…お前に出会ってから、アイツは俺の前泣いてたけどな、…全部お前を思ってだ」
激昂する思考が少しずつ冷静さを取り戻して、その言葉の意味を一つ一つ理解していく。確かになまえはよく泣く。地雷亜のときも、付き合うことになったときも、一度別れることになったときも、あの弁当のときなんかも、…そして、この前も。確かになまえは感情的に涙を流すことが多かった。だけどそんなの当たり前だと思っていた。女なんだから涙くらい流すだろうと。…俺と出会って変わった、なんて、そんなこと。
「アイツは確かに強い女だ。だがもうそれは過去形なんだよ。お前に出会って、自分以外の頼れる存在に出会って、アイツは自分の中の弱さを吐き出す術を見つけたんだ。…お前さんになら、それを受け止めてもらえると思ったんだろう。…それでもアイツがわからねェって、弱みを見せねェって言い張るのか。…アイツの手を離そうってのか」
「……」
「なまえはなァ、お前じゃなきゃダメなんだ…」
震える声で俺の肩を掴むヤローに俺は何も言葉を発することが出来なかった。俺はなまえの何もかもを知ったつもりでいた。だけど、何にも知らなかった。アイツの強さも弱さも、何もかも。俺は何一つアイツのことを知らなかった。…俺のこんな心じゃ、知れるわけもなかったんだ。
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