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「ていっ!」
「…いてっ!」
ひのやに顔を出すなり、日輪は私の腹に勢いよくグーパンを食らわせてきた。これがまた加減を知らないもんだから、結構痛い。普段だったら文句を言うところだが、今の私にはそんな権利は欠片もない。仕方なくそれを受けて、長椅子に腰をかけた。
「もー、心配かけて。月詠にはもう会ったんでしょうね?」
「昨日会ったよ。百華で宴会して、その後少し話した」
「みんな心配してたんだからね」
もう、と頬を膨らませてすぐに笑ってみせる日輪は、やはりいつ見てもブレることなく本当に太陽のような女だ。いそいそとお茶を持ってくるなり、私の顔をまじまじと見つめてきた。
「あんた、どうしたの、その顔」
「…やっぱりヤバイ?」
「ヤバイどころの話じゃないわよ。女として終わってるよ」
「ちょ、いくら何でも言い過ぎだろ!」
「……やっぱり銀さんと、何かあったのね」
おおよそ見当がついていたというように、日輪は呆れたように眉を上げて、何があったのよ、と付け足した。吉原を飛び出した日のこと、全蔵の元にいたこと、銀時と別れたこと、全蔵とのこと、月詠と話したこと。そして、私が今抱いている不安。漏らすことなく一つ一つ話していけば、日輪は口を挟むことなく時々相槌を打ちながら、最後まで黙って私の話を聞いてくれた。
「…月詠はそう言ってくれたけど、やっぱり何か踏み出せなくて。拒絶されるのが、怖い」
「普段だったらいの一番に男どもの処断に特攻するあんたも、好きな男相手じゃ随分と弱腰ねぇ。可愛いとこあるわね、なまえも」
「……」
嬉しそうに微笑みながら、バシバシと私の肩を叩く日輪は、本当に私の話を聞いていたのだろうか。嬉しがるところもなければ、面白い話をしたつもりはないのだが。ジト目で睨み付けると、日輪はごめんごめん、ともう一度嬉しそうに破顔した。
「そんなに銀さんのことが好き?」
「…何でそーなんだよ!お前ほんと話聞いてた?!」
「だってそうじゃない。もう嫌われたかもしれないって、それが怖くて謝りにいけないんでしょう?冷たくあしらわれるのが怖いんでしょう?あんなに否定していたのに、すっかり惚れちゃったのね」
「……それとこれとは、…いや、まぁ、好きだけどさ…」
「じゃあそうやっていつまでもウジウジしてるつもり?怖いだなんだって、自分がしたことじゃない。何で百華のみんなには頭を下げれて、処罰されてもいいなんて言ったくせに、銀さんには素直に謝れないのよ」
「…」
「冷たくされても、拒絶されてもすがればいいじゃない。それでもダメなら、…またその時考えなさいよ」
ずっとお茶を啜りながら、叱るわけでもない日輪は優しい声でそう微笑んだ。日輪の言うことはわかっているのに、なぜそれを肯定して行動できないのか、それがわからない。自分が頑固であることは自負しているが、銀時を失ってまで護り通すほどの何かはないはずなのに。月詠や全蔵とのことがなくなった今、なぜここまで踏み止まってしまうんだろう。少し考えたところで、私は口を開いた。
「……あんなに、浮気が許せなかったのに」
「え?」
「同じことをしてしまった自分が、もっと許せない」
「…なまえ」
私は全蔵が当時浮気をしたということがわかったとき、どんな言い訳を言われても聞き入れようとはしなかった。それだけ、裏切られたことがショックだった。最近になってそれが浮気じゃなかったと知らされたところで、私の中のトラウマが消えることはなかった。あんなにも大切な日々が一瞬にして、消えてしまった。たった一度の過ちのせいで。それがどんなに辛く悲しいことか、わかっていたはずの私がそれを銀時にしてしまった。考えただけで消えてなくなりたくなる。自分が愛した男を、自分のせいで傷つけてしまった。私のトラウマを背負ってくれると、そう言ってくれたのに。逆に私がトラウマを背負わせてしまうなんて。
「…わかった。あんたがどこまでいっても、臆病で頑固なのはわかったわ。それなら、よりを戻しにいくんじゃなくて、ただ謝りにいけばいいじゃないの」
「…え?」
「許してもらうとかもうそんなのは全部忘れて、ただ謝りなさいよ。振り回したのは事実なんだから、それくらいしたらどうなのさ」
日輪の表情はいつになく真剣だった。それ故その言葉を素直に受け止めて、私は少し俯いた。確かにそうだ。振り回すだけ振り回して、謝ることもせず別れを告げるなんて、人としてどうかと思う。そもそもよりを戻すだなんだって、とてつもなく身勝手な気持ちだ。それより先に、私は謝らなければならない。…心配をかけたことを。
「…そうだね。日輪の言う通りだ」
「女は捨てても、人間は捨てちゃダメ。さ、奥使っていいから、少しその顔どうにかしなさい。そんな顔で謝られたって、苛立ちが増すだけよ」
「……だから、言い過ぎじゃね?」
と、まぁ今の私は言われてもおかしくない顔をしているのは確かだ。言われるがまま素直に化粧台を借りて、普段の顔を作った私は、いってらっしゃい、と優しく笑う日輪に別れを告げて、ひのやを後にした。
このとき私は、わかっていなかった。日輪が私に謝りに行くよう仕向けた本当の意味を。それをすればどうなるか、その行動によって起こるであろう出来事を、きっと日輪は想定していたのだろうと思う。吉原最高位の花魁と呼ばれた女は、今も健在なのかもしれない。そんなことに気付きもしていなかった私は、地上に上がってからも憂鬱な気持ちを吹き飛ばせないでいた。
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