夢の在処

艶やかな風が私の髪を弄んで去って行く。
夕暮れ時。それも陽の落ちる寸前。
全ての色が混濁する事なく澄んで混ざり合い,薄く薄く張った硝子のような緊張感を内包し
圧倒されるような時間はあっとうい間に過ぎ去り、気付けば夜の帳が落ちていた。
灯りもつけずにバルコニーでぼんやりと何時間いた事だろう。

「いくら初夏とはいえ、風邪を引くよ」

ふわりと背中に温もりを感じた。そっと肩に触れる。
上着をそっとかけてくれた人物を見やると柔和な親しみやすい笑顔を浮かべた男性がいて。

「先生……」
「この時間になっても灯りがついてないから、様子を見に来たんだ」
「ありがとうございます。でも、いりませんから」

キュッと唇を引き締めて上着を突き返す。
灯りがついていないだけならば上着は持ってくる必要はない。私が外にいるのをわかっていたのだ。
その為にわざわざ持って来たのだと解っていても、それを受け入れられない。
まだ、先生の優しさを受け入れるわけにはいかないのだ。
困った顔の先生に良心が痛まなかったわけではなかったのだけれど。

「今日もまた、夕食をほとんど食べなかったんだって?」
「満腹です。あれで」

受け入れられないけれど心配はかけたくない。それは本望ではない。
だから、何時も困る。どう対応していいのか。
右も左も解らないような赤子のような有様にかあと熱が宿り、余計に解らなくなる。
人と接するというのがどれほど難しいか。今になって痛感させられる。
いや、それとも言葉を選ぶという事か。
普段はあまりにも普通に行っている事ができない。
それは陸にあがった魚が酸素を上手く取り入れない事と同じようなものではないか、と思う。
押しては引く感情と理性に窒息してしまいそうだ。

「無理はしちゃいけないよ?」

眉をハの字に下げ心配げに伸ばされた手を思わず振り払った。
乾いた音をした時にはハッとしても指先に伝わるジンとした感触に背筋が凍った。

「嫌われたものだね、俺も。お義父さんと呼んでくれないのもそのせい?」

哀愁を帯びた音色が私を責め立てる。先生にそんなつもりがないのはわかっているけれど。
もどかしさは焦燥を生み、やがて激しい自己嫌悪と罪悪感が伴う。
ごめんなさい、と小さな謝罪と共に先生の横を駆け抜けていってしまった。
謝罪も聞こえなかったかもしれない。
けれど、これ以上先生と同じ空間にいるのが耐えられない。
豪奢で煌びやかな装飾が施された居間に抜ける。
輝くシャンデリア。美しく磨かれた大理石の床。
贅を尽くした西洋風の豪邸を初めて見た時、目が眩んだのを今でも覚えている。
同時に憂鬱な気持ちになったのも。
この場所に私の求めているものはない。そう思うと息苦しくて、辛くて、そのままの勢いで外に飛び出した。
闇が浸食してしまいそうな道を駆けて行く。
自分自身の荒い息づかいが妙に頭に響く。
帰りたい。
ただその一心だけが私の足を動かす。
現実で生きるより記憶の中で生きるほうが楽でしょう?
甘い囁きが私の理性を蝕む。
もういっそ夢に浸ってしまえたら。
ぱたりと足を止める。
ひっそりと潜む古く大きな屋敷。
その前に立つ。
最後に見た時のと何一つ変わらないというのに、違う。
時間の流れを感じさせないほどゆったりとした空気が好きだった。
いつだって静かにあったけれど
そこから僅かに滲みでる優しく穏やかな人の息使いを感じさせる所が落ち着いた。
なのに今は息を殺し、時間を殺している。
あぁ、と溜め息を零しそうになった。
この屋敷は私自身だ。
固く扉を閉ざしている。
嘲笑じみた笑みを浮かべてから、こっそりと裏口にまわった。
表玄関はぴったりと門を閉じていたけど抜け道ぐらい知っている。
こっそりと忍び込んだ家の中はひっそりとして、何もなかった。
引っ越したのだから当然といえば当然なのだが、その事実は心を重くさせる。
おまけに薄暗い室内はそれだけで不安をかき立てさせられた。
僅かな光さえも届かないその様はまるで鬱蒼と大樹覆い茂り光閉ざされた深い森のよう。

「私の、部屋は……」

見たって何もないのは解っているのに。知っているのに。名残惜し気に、後ろ髪が引かれるかのように。
何もなくなった部屋を見つめていたのだから。
それでも確認したいと思うのは未だに幻想を抱いている故か。
家具がなくなってもわかる部屋の配置。どこに何があったのか。誰が使っていたか。 
そんな他愛もなく大切な思い出に心馳せつつ、昔の自分の部屋へ足は向かう。
そしてやはり閉じた時間に絶望するのだ。
障子を開け放つと月明かりが注ぎこみぼんやりとだが畳を照らす。
私の部屋から見える庭は美しく整えられていて、あの頃から微塵も差異がない。
あえて言うならば咲く花がかわったくらいか。
ずるずると障子によりかかって落ちていく。
なんで。なんて事は、わかりきっているのに。

「戻りたい……」

それでもそう願うことはいけない事なのか。
茶道の名門だった我が黒月家もそれはかつての話。今は没落の道を辿っている。
金の為。お家の為。
お母様は再婚なされた。
私の家庭教師と。 
そもそも先生は毅琉叔父様が紹介してくれた人で、商家の当主である。
叔父様は茶道の才能といのがないからとかなんとかで
早々に茶道から縁を切って世界に羽ばたくような仕事を個人で立ち上げた人だ。
……おそらく、そういう道の才能はあったのだろう。
亡くなったお父様の代わりに当主を継いだ叔父様は世界を知っているからか
女である私にも積極的に勉学を身につけさせようとして女学校に通わせてくれた。
おまけに女学校では習わない、男のするような事まで知る必要がこれからの時代きっとあるだろと
色々な世界を知っている商人である先生を個人的に家庭教師として招いたのだ。
先生は、人もよくて優しくて、明るくて話しやすい。人見知りしがちな私でも気さくに接してくれた。
だから私も先生の事を慕っていた。
けれど……。
時代の流れのせいで家はどんどん貧しくなっていった。
栄華を保っていた時代を知っているから生活が苦しくなかったと言えば嘘になる。
そんな中だ。
再婚を決めたのは。
先生は、お母様を好いていた。
お母様はそれを知っていて、利用しようしたのだ。
先生がもうすでに亡くなっているとはいえ皇族と結婚をしたと共に私達とは反対の道を辿っている飴谷家。 
財力はあるのだと思う。
伴侶を亡くしたという同じ境遇同士、心が通じあい先生が好きになったのだとお母様は仰っていたが
そんな事ないのはわかっている。
お父様が亡くなってもう何年も経つ。
子供じゃないのだから再婚に反対はなかったが、それはお母様が好きな相手ならば、という話。
先生は騙されている。いや、それとも気がついているのだろうか。
どちらにせよ、そんな事情の結婚でこんな家に住むのは気が進まない。
けれど、文句も言えなかったのだ。
それはお母様を困らせるだけだから。私は受け入れなければならない。
子どものように駄々をこねるわけにはいかない。
お母様だって、私達のためにこんな選択を。

「……いらない、のに」

けれど、そんな偽りみたいな家族は欲しくなかった。偽造な幸せぐらいなら、いらない。
苦しかったけれど、私は穏やかで凪いだ湖面のようなあの生活で幸せだった。
世の人はこういうものだと言うだろう。
そんな事、わかっている。わかっているのだ。そういう世の中だ。
それが常識で私だっていずれそうなるのだろう。
それが虚しいと思う、なんて。

「やっぱりここにいたんだ、百合」

畳が軋んだ音にはっと振り返った。

「お兄、様……」

いつからいたのだろうか。
思わず身構えるが兄は何も言わずに私の横を通り縁側に腰かけた。
思いがけずお兄様に縋り付きたくなる衝動に襲われて、目を閉じた。
お兄様は何も言わないからただ沈黙が二人の間におちる。
お兄様は私が何か言わないと何も言う気がないのに気付く。けれどどこから、どう話して良いのかわからない。
自分の中でも纏まっていないのだから。
でも、まず。

「……ごめんなさい」
「何が?」
「お兄様に手間をかけさせました、し……。心配、かけた、でしょう、し……」
「百合はお義父さんが嫌い?」

首を横にふる。

「じゃあ飴谷家が嫌い?」

義理の姉も、兄も。先生だってみんないい人だ。出入りしている商人の皆様だって。

「じゃあ、お母様の再婚が嫌だった?」
「我が儘だって、わかっているんです」
「でも納得できない?」

頷くと、少し困ったような笑みを零した。
ここで怒らないのがお兄様の側が安心する理由なのだと思う。
例え考えが違うとも、それを否定しないで聞き入れてくれるから、話やすい。
手招きをされて隣に座ると頭をゆっくりと撫でる。優しくて、大きな手。
ふ、と息を吐いてお兄様にもたれかかる。

「選ぶ事は、辛いよね」

どちらにでも、それ相応の犠牲を伴う。損得はその時に己が選ぶもの。
そして、いずれにせよ、その犠牲を払う覚悟が必要なのだ。
お母様は、家のために、生活のために、私達のために。
それらを否定するようで、口にできない。
けれど。

「何かを犠牲にしないと幸せになれない、なんて信じたくないです……。
 夢見がちって、言われるかもしれないけれど。綺麗事だって言われるかもしれないけれど。
 けれど、希望を語る事の、何がいけないのですか!?」

世界は厳しい。世界は優しい。
世界は醜い。世界は美しい。
両方知っている。
だから、人は夢を未来を希望を語るのではないのだろうか。
全てが満ち足りた幸せをゆりかごに揺られる赤ん坊のような無垢な気持ちで祈るのではないか。
そうじゃないと、悲しい。
そうじゃないと、なんのために私達は生きていくのか。

「口にするのは簡単。でも実行にするのが難しくて成功しない事が多いから、口にできなくなる」

現実を知ってずる賢く生きる事が大人になるという事?
全てを悟った顔をして諦める事が大人になるという事?

「それなら、私は、子どものままでいいです……」
「けれど時は確実に僕達を大人にさせていく。その中でどう生きるか。それは楓が決める事。
 みんなに心配かけさる事が百合の望み?」
「違います」

お母様に幸せな結婚をして欲しい。
けれど先生はお母様を愛して下さっていて、それで連れ子がいるのに、歓迎してくれて。
だから先生にもこんな一方通行な愛情の結婚なんてして欲しくなかった。
どうせなら、そう。ちゃんとお母様をおとしてみせてからにしてくれれば私も素直に喜べたのに。

「帰ろう。戦うべき場所はここじゃないでしょ」

頷いてお兄様に続いて立ち上がった。
より深くなった道でもお兄様がいれば不思議と恐くない。
誰かが側にいてくれる。
それは、思うよりもずっと畳重な事なのではないか。
ただ、純粋にそう思う。

飴谷家に戻ってきた時、私が脱走した事を心配していたのであろう、義理の姉である杏様が飛びかかってきた。
結構な勢いだったのでふらついてしまった所を晶様が支えてくれた。

「百合は私達の事、嫌いなの!?だから、出てったの?!」

答えにくい事をいう。
苦笑だけを浮かべてあえてその質問を流した。
杏様は私と反対で、発展していく家の中で生きていた分、気さくで世間擦れしていない。
きっと根が素直なのだろう。

「こら、急に抱きつくな」
「百合の事が心配だったんだもん。お兄ちゃんも心配してたくせに!」
「……杏が百合みたいに大人しい妹だったらどれだけ楽だったか。七夜が羨ましい」
「そうでもないんじゃないかな」

そういえば、お兄様と晶様は幼馴染みだったはず。
幼馴染みが急に兄弟になるといのは複雑なはずなのに二人とも何もいわない。
やっぱり、暴走しすぎているきらいがあると内心、恥ずかしくなった。

「百合も案外お転婆だし」
「あぁ、見かけずによらずそう見たいだな」
「……なんですかそれ。お兄様も余計な事言わないで下さい!」

ニヤニヤとした笑みを浮かべるものだから、思わず反論する。
晶様は冗談好きでからかうのが大好きな性格をしていらっしゃるから
こういう事をしると絶対にからかうに決まっている。

「……百合」

私達の騒ぎで気付いたのだろう。
先生が玄関口に現れた。
やっぱり困ったような、泣きそうな、そんな表情。
商人のくせに、そんな感情むき出しな面持ち。

「……ご心配かけました」
「いや、いいんだ。ちゃんと、戻ってきてくれたし」

壊れ物を扱うような、そんな話し方。そうさせたのは私。
だから、せめてと先生の手を掴む。

「大好きですよ、先生」

お義父様、とまだ呼べなくてごめんなさい。
せめてその代わりに、ちゃんと貴方の事が好きだって伝えよう。
まずはそこから。

「う、ん。俺も好きだよ。血は繋がってなくも、可愛い娘だって思ってる」

たとえ強固な壁があっても、揺らがないだけの思いを持ちたい。
何があろうともこの思いは私だけの思いで、真実だから。
その為に茨の道であろうと迷わず進めるだけの信念を持てたら。
きっと、その時は。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -