『神話の国を支える神候補生の起源は、三人の姉妹にあるという。神話時代には、地上の人間も楽園と呼ばれる神話都市も交流があった。それが途絶えたのは遥か昔、神話時代後期のことだったという。その頃、空中都市は滅びの危機に瀕していた。それは地上の穢れた空気と血筋を受け入れてしまった所為だと感じた都市の民たちは、半ば強制的に都市に住むことを許されていた地上民を追い出し、門を閉じた。しかし、それでも滅び――都市の落下と少子化は止まらない。そこで選ばれたのは、三人の姉妹だったという。一人は賢く、一人は強い神通力を持ち、一人は穏やかで強靭だった。三人は己から進んで世界樹の下に赴き、すべてを枯渇させてしまった神の為に身を捧げた。すると、世界樹から根が伸びて三人を包み、穏やかな眠りに招き入れたという――』

 ヴィレイは分厚く黴臭い、一冊の古ぼけた書物を閉じた。眼球の奥に鈍痛が蟠っている。目頭を揉んで、ひとつ溜め息を吐いた。
 余り興味が持てなかった空中都市贔屓の歴史書だったが、シャヘルを拾ったことで読む気になった。ほぼ半分はいかに空中都市が素晴らしい場所かを延々と述べたくだらないものであり、ヴィレイが興味を持てたのは三姉妹の項目と今の神候補生の成り立ちについてだけだった。
 三姉妹は、両性であったという。不思議なことに、三姉妹は満月の時だけ男性の身体になり、その他はずっと女性であったらしい。とても興味深い神話に、ヴィレイの好奇心は刺激された。どうして、両性であったのか――それは、今の神候補生にも受け継がれているのか?
 シャヘルの身体をまじまじと見たことはない。シャヘルの背中、純白の片羽根のつけ根辺りに捺されたむごい焼印は消すときにとっくりと眺めたけれど、それ以外は何故か神々しく、侵してはならないような気がして、慌てて目を逸らした。
 シャヘルは、書物で学んだことしか知識にないようだった。
 閉鎖的な空中都市で試験管の中で産まれ、その時から神候補生となるべく拷問のような実験を繰り返され、知識ばかりを詰め込まれた子どもは、頭でっかちな印象を受ける。純粋でいて、なんでも知っている。しかし、その意味や暗に伝えたいものには疎い。真っ直ぐに何でも信じてしまう時もあれば、卑屈になって笑う時もある。
 歪なイメージは益々強くなっていくのに、ヴィレイはシャヘルのそんな歪さに愛しさを感じた。無邪気でいて達観したような、純粋でいて妖艶なシャヘルにどんどん興味を示している心に呆れてしまう。
 シャヘルと日々を過ごす内に、益々彼に溺れてしまっている。
 己の身分の不安定さ、危うさを自覚しているヴィレイは、他人に深く干渉することを嫌っている。昔痛い目を見てから、更に人嫌いに拍車がかかった。一人でいるほうが気が楽で、なによりも自由だ。好きな研究に没頭しれいられる環境は、ヴィレイにはとても都合のいいものだった。
 ヴィレイは政治になど興味もない。ましてや自分の父親が国王という自覚も薄いので、正直巷の噂は煩わしいことこの上ない。ヴィレイは一度だって王座につきたいなどと思ったこともないし、異母兄である王子を殺そうなどと思ったこともなかった。ヴィレイが本当に反逆の道に走れば、一瞬で王政を覆すことが出来る自信はある。この国の体制は脆弱で、落とそうと思えばとても簡単なことなのだ。
 それをしないのは、ひとえにこの鳥かごの中にいる限り、研究の自由と衣食住が保障されるからだ。この身分に甘んじていれば、ずっとこの先も、シャヘルに贅沢をさせてあげられるだろう。
「驚いたな……」
 他人に心を傾けるなんて、自分らしくないとヴィレイは弱く呟いた。ヴィレイが心を奪われるのは錬金術の神秘にだけだと、これまで思っていたのに。
 娼婦を抱いた時も、フェメールとその母親を助けた時だって、こんな気持ちになったことはない。
 ヴィレイの胸の奥底から湧き上がってくる感情は、シャヘルにとっては迷惑なもの甚だしいだろう。
 彼はまだ自分の生きる理由だって見出していないのに、こんな男の恋情に構っている暇なんてないはずだ。これからが、シャヘルの人生なのだ。作られた人生ではなく、これからを己で見つけるために――。
 ヴィレイはそっと、シャヘルへの狂おしい感情を心底へと抑え込んだ。
いつか、シャヘルの意思でヴィレイの元に居たいと思ってくれる時が来たら、伝えたいと……。
 薄暗くなった塔の研究室で、ヴィレイは密やかに吐息した。
 もうすぐ陽が暮れる。
 今夜も、この内に渦巻く劣情に苛まれるのだ。
 睡眠不足を訴える頭を休める為に、ヴィレイは漸く重い腰をあげた。
 シャヘルはもう寝ただろうか? シャヘルには毎晩自分の寝室ではなくヴィレイの寝室で寝ろと言ってあるので、今頃は深い眠りの底にあるはずだ。
 幼いシャヘルの寝顔を眺めながら今夜は眠ろう――ヴィレイは浮き立つ心を持て余しながら寝室へと歩を進めた。

 ※ ※ ※

 満月の夜はいつも身体の内が疼いて仕方なかった。
 最初から男として生まれたシャヘルは、博士から内にもう一つ「性」を秘めているのだと教わった時も、あまり理解できなかった。
 創めの三姉妹もそうだったように、神は二つの「性」を持って空中都市を支えるものなのだという。彼女らは満月の夜に「男」の性に変化したらしい。
「う……っ」
 じわりと下腹部に熱が集まってくる。シャヘルは変化の始まった予兆を感じて、内に恐怖が沸き起こるのを止められなかった。
 どうやれば自分の体を「女」に出来るのかは、教えられなくても何故か知っている。満月を見詰めて、ひたすら祈ればいい。どうしてそれだけで変化してしまうのかはわからない。恐らくそれは、一種の自己暗示なのだとシャヘルは思っている。
 骨ばっていた体のラインが徐々に丸みを帯びてくる。ふっくらとした胸の膨らみを感じた所で、シャヘルの身体は寝台の上に崩れ落ちた。ぐるぐると視界が回る。それでもふらふらとシャヘルは寝台の上にもういちど起き上がった。そして、己の身体を見下ろしてみる。
 痩せぎすな身体は少しだけ肉付きがよくなっている。華奢な体型には似合わない豊満な胸が視界に入り、シャヘルはくすりと笑った。これで、ヴィレイは満足してくれるだろうか? 彼の役に立てることがこんなにも嬉しい。
「シャヘル……?」
 月明かりに照らされた寝室に、困惑したヴィレイの声が響く。
 驚いて寝台の上で振り向いたシャヘルの姿――月光に隅々まで照らされた神秘の肉体が、ヴィレイの視界に飛び込む。驚愕の表情で、ヴィレイはシャヘルの姿を呆然と眺めていた。
 シャヘルはヴィレイに向かって、穏やかな微笑を浮かべた。
「本当に……君は半陰陽だったのか」
「マスター……フェメールが言っていました。最近マスターは女っ気がなさすぎるって。色町にも行かないって……だから、僕はお役に立ちますか?」
「え……」
「子どももこの身体なら産むことが出来るはずです。だから……」
「ちょっと待って、シャヘル」
 ヴィレイの低い声が、シャヘルの言葉を遮る。それはシャヘルが予想していた反応とはまったく違っていて、シャヘルは首を傾げた。ぐるぐる、また視界が回る。
「マスター?」
「シャヘル、君はもしかして……俺の為にその姿に?」
「はい。これなら、マスターも僕で楽しんでもらえるかと」
「……っ」
 ヴィレイが苦しげに唇を噛む。ヴィレイの表情の理由がわからず、シャヘルはひたすら戸惑った顔で首を傾げていた。
 これで、ヴィレイの役に立てる。まだ理解できない感情が、シャヘルの心を占めていた。
 これは強制されてきた今までの人生で、初めてシャヘルが己の為に抱いた感情だった。
 捨てられるのを恐れていた。利用価値のない元奴隷を、どうしてヴィレイはそばに置いているのか、理解出来なかった。でも、シャヘルはそれさえもうどうでもいいと――これからは、己で考え、生きていくことを学ばねばならないのだと、悟った。
 シャヘルは、ヴィレイにならばこの身体を差し出してもいいと……役に立ちたいと心の底から思っていた。
 ヴィレイに何かをしてあげられることが、とてもとても、嬉しいのだ。
「それは……君の本心ではないだろう? こんなことをしなくても、俺は君を追い出したりしない」
「あの、マスター?」
「俺は……君にこんなことをして欲しいんじゃない!」
 悲痛な叫びだった。何かをこらえているような、痛みを感じている顔で、ヴィレイは叫んでいた。
 シャヘルの心も、痛みを訴える。己はしてはいけないことをしてしまったのだろうか? ヴィレイを怒らせてしまったのか?
「マ、スター……」
「ごめん、シャヘル……俺、今夜は君の寝室で寝ることにするよ。頭を冷やしてくる」
 シャヘルは混乱と焦り、恐怖の中でヴィレイが背を向けるのを見ていた。ぐるぐる視界が回り、とても正常な思考が出来ない。吐き気もしてきて、鼓動も速くなる。ヴィレイに謝らなければ――このまま、怒らせたままでは嫌だと思うのに、体も思考も思い通りに動いてくれない。
「マスター……っ」
 シャヘルの意識が真っ白に塗りつぶされる。己の身体が傾いで、寝台から床へと落下していく。
「シャヘル!?」
 ヴィレイの声を聞いたのを最後に、シャヘルの意識は途切れた。


「恐らく……急に体を変化させた為に、精神がついてこなかった影響だろうか」
 意識がふわりと浮上して、最初に耳に飛び込んできたのは、ヴィレイの苦しそうな呟きだった。
 そっと目を開けて、声のした方を向いてみる。ヴィレイが寝台の傍に蹲り、じっと俯いている。その姿はシャヘルの想像していたものとはまったく違っていて、自分の行動は単にヴィレイに迷惑をかけただけなのだと――痛いほどに思い知らされた。
 後腐れのないシャヘル相手ならば、ヴィレイだって気にせずに抱けるのではないかと。子どもだって、作れるのではないかと……。
 すべて、自分が望んだことだ。ヴィレイに喜んで欲しくて――。
「ごめんな……さい……」
「シャヘル……」
 ヴィレイが驚いたようにこちらを見る。シャヘルの目尻から涙が一筋、零れ落ちた。今はひたすらヴィレイに申し訳なくて、自分の所為で悩ませて、苦しませてしまったことがとても悲しかった。
 ヴィレイがシャヘルの華奢な手を握る。そしてその手の甲へ、そっと口づけた。
「謝るのは俺の方だよ、シャヘル。君がこんなに俺のことを考えてくれていたなんて……思わなかったんだ」
 じっと、ヴィレイの黒曜の瞳がシャヘルを見詰めている。ゆらゆらと瞳に揺れる光は、シャヘルにこれまで何度となく向けられてきた色で――もし、これがシャヘルの気持ちと同じものだとしたら――。
「僕は、マスターと共に生きたいです。マスターとずっと一緒にいたいです」
 シャヘルは素直に気持ちを吐き出す。
 無機質な世界で生きてきたシャヘルにとって、「愛しい」という感情はまだ理解できなかったけれど、ヴィレイの傍にずっといたいという気持ちは本物だった。
「シャヘル……!」
 ヴィレイの表情が、泣き笑いのようなくしゃりとしたものに変わる。ぎゅっと握られた手から温かいヴィレイの体温を感じて、シャヘルはふわりと笑った。
「俺はね、シャヘルが男でも女でもどちらでも構わないんだ……ずっとこのまま、一緒に居てくれるなら」
「はい。おそばに置いてください――ずっと」


 数年後――国の王が崩御し、王位継承者だった王子も時を同じくして謎の病でこの世を去った。
 王位継承者をも失った国は、仕方なくヴィレイを正式な国王の御子として認め、彼を王に即位させた。
 それから、ヴィレイは貴族の傀儡となることもなく、賢君として国を治めた。彼の名前は名君として歴史に残り、以後何百年も語り継がれることとなる。
 その王の傍らには、片羽根の少年とも少女ともつかない美しい人がいつまでも寄り添い、王を支えていたという――。






異種間恋愛企画・エキドナ様に提出しました!
ありがとうございました。




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