ずきり、背中の痛みでシャヘルは飛び起きた。断続的に痛むそこは今はない筈の感覚を訴える。疼痛と針のような痛みを繰り返すために、浅い眠りばかりのシャヘルは睡眠不足だった。
「シャヘル?」
「すいません……マスター、起こしてしまいましたか?」
「いや、大丈夫だよ」
 見下ろした先には、美貌を心配そうに歪めたシャヘルの主人がいる。
ふかふかのベッドは未だに慣れない。鉄製や、藁のごわごわした寝床でしか寝たことがなかったシャヘルには、この豪奢な場所で寝ている事実が恐ろしくてならない。果たしてこれは現実なのか? それとも、自分は未だにあの空中の地獄で、爬虫類のような目をした博士に、数々の実験≠施されているのだろうか――。
「また昔の夢か、シャヘル」
 主人は気がつけばシャヘルの腰に腕を回し、こちらを真剣な目で見つめている。漆黒の瞳は爛々とシャヘルの知らない感情を浮かべていて、思わず恐怖で固まった。
シャヘルの知っている人間の感情は、侮蔑、怒り――負の感情ばかりで、主人はそのどれもシャヘルに向けはしなかった。シャヘルの知らない感情ばかりを見せる。最近、やっと主人が浮かべる笑顔が「愛しさ」から来るものだと学んだ。
 それは、シャヘルにはまったく理解できない感情だった。


シャヘルという名前も、主人がつけてくれたものだ。
どこかの神話に出てくる神の名前だという。神の代用品となるべく育てられた自分には、よく似合う名前だと思った。結局、最終試験までは残ったものの、代用品となるには失格の片羽根≠ナあった為に、地上に落とされた。その他は平凡で、歴代の代用品と比べるのも馬鹿馬鹿しいとさえ言われた。自分でもそう思う。何が出来るのか自分でも分からないのに、それ以上を求めてくる博士と空中都市の人々に憎しみさえ抱いた。それを顔に出したりはしない。何か感情を垣間見せてしまえば、シャヘルはここにはいなかっただろう。あのゴミ溜めに真っ逆さまに落とされて、全身を粉々にして死んでいただろう。
奴隷として競りに出された時、主人に出会った。ヴィレイと名乗った彼はすべてが漆黒で、シャヘルにも理解できるほど高貴な雰囲気を漂わせていた。
その彼がこの国では稀少な錬金術師であり、国王の御落胤であり、王城内では知らない者はいない変人だという噂は、ここに通いでやってくる雑用係の女性に聞いた。
主人はあまり自分のことは語りたがらない。なんでも聞いていいよ、とシャヘルに言う割には、彼の身の上を訊ねると黙ってしまう。それ以来、聞くのは妙に憚られて、シャヘルはもっぱら主人の仕事――錬金術について尋ねるようになった。
『書物で読みましたが、金を作れるというのは本当ですか』
『うーん、作れるのは作れるけど、余計な労力がかかるし結構高い材料を使うから、普通に金を買ったほうが早いと思うよ』
 奴隷に過ぎないシャヘルに、ヴィレイは何でも教えてくれた。
地上に落とされ、彷徨していたシャヘルは人買いに捕らわれ、奴隷市場に売られた。その時に背中に大きな焼印を捺されている。それは一生奴隷だという消えない証で、二度と平民には戻れないという現実だった。
しかし、ヴィレイはそんなシャヘルの焼印を綺麗さっぱり消してしまった。方法はまったくわからない。俯せに寝ているように言われたあと、あっという間に終わってしまった。引き攣れるようだった背中の感覚はなくなり、代わりに自由を得た。自由≠ニいう意味は理解していても、シャヘルはそれがどんなものなのか、実感できないでいる。これからも、シャヘルの生き方は変わらない。空の都市でも、地上でも、シャヘルは誰かに使役されるただの道具だった。
なくなったはずの焼印が疼く。痛みを訴えるようになったのは、つい最近だ。ヴィレイがそう――シャヘルに空中都市のことを聞いた時から。
「シャヘル。空の楽園はどんな所? 本当に、君は神様になるための候補生だったの?」
 地上では、空中都市のことを楽園≠ニ呼び、一種の神話の国だと捉えているらしい。
住む者の髪は金色、瞳は碧く透き通り、すべからく美しい貌をしている。魔術と錬金術を難なく操り、神を創り出す方法を知っているのだと。遥か昔に途絶えた神の血筋を復活させ、国を安寧に導く学者の民。たまに落ちてくる背中に羽根が生えた天使は、堕天した神の候補生だという。殆どが美しい金髪と翠の目を持つ為に、観賞用として、性玩具としての需要も高い。
極稀に、シャヘルのような髪と目の色、片羽根の天使が生まれる。片羽根は欠陥品で、シャヘルの銀色の髪も紫の瞳も、すべてが異端だった。
実際は天使などと呼ばれることはなく、ただの「実験体」だ。名前も持たず、番号で管理され、ひたすら知識と神通力を試される。人体実験と薬物実験、神通力を高める実験、色々な苦痛を覚える実験を繰り返し、生き残ったものだけが神の候補生と呼ばれる。
「マスター。神の候補生と大それた名前ですが、それは建前だけです。選ばれる候補生は毎年三人、それぞれ頭脳、神通力、安定を司ります。一年間、三人は大きな樹の根本のカプセルでパイプに繋がれて、ずっと、ずっと――命の削って空中都市を維持する要にされる。昔、初代の神となり、真民に犠牲にされた三姉妹のように」
 一年、絶対に神となった三人の命を維持する為、実験に耐え抜いたものしか使えない。肉体的にも、精神的にも耐え抜けるものでしか、空中都市を浮かせ、意地し、コントロールできないからだ。
 一年命を削られ、神となった天使たちは、残りの少ない余生を神の庭と呼ばれる場所で過ごす。
 そこは何者にも侵されず、侍従たちに囲まれて過ごす楽園だというが、彼らは僅か十日ほどで死んでいくという。シャヘルはその庭の記憶を実験の合間に見せられた。合格すれば、この天国に行けるのだと。神の役目を終えれば、安寧が待っていると――。
 十日の安寧。たった十日の、天国。
 事実を知って、欠陥品だと落とされた時には、シャヘルには最早希望もなにもなかった。
 今までずっと一緒に耐え抜いてきたあの候補生たちは、今頃三人にまで減っているのだろう。三人になった彼らは、神という名の生贄にされて、果敢ない命を散らすのだ。試験管で産まれた時に決まっていた、運命のままに。
 その長い長い話をヴィレイにした。包み隠さず、空中の楽園がどうやって維持されるのか――真民以外の、試験管から産まれた者たちの末路や、道具としか認識されない者たちのことを。地上の方がよほど綺麗だった。人間らしさも、地上の方が歴然だった。
「空中のあそこは、地獄です。人間がいない……機械が歩いているような」
 人前で感情を見せることは地上の野蛮な者たちのすることだ。空中の人間はそうやって地上に住む人間を侮蔑する。都市を闊歩する真民はみな一様に無機質な感情を知らない顔で、他人のことなど無関心にひたすら機械的に暮らし続けている。潔癖すぎる、無機質すぎる国だった。
 シャヘルの話を聞いたヴィレイの表情は、予想外に穏やかだった。
 驚き、目を瞠るシャヘルに対して、ヴィレイは優しく語りかける。「シャヘルは、なにをしたい?」
 自分の意思など持てない環境で育ったシャヘルは、言葉も出てこない。「頭脳」の神候補生として育てられたシャヘルには、知識はあってもそれはただ書物の上だけのものだ。シャヘルにはそれを考え、使用する柔軟さがあったけれど、それはひたすら主人の役に立とうとしたからだった。
 ヴィレイに捨てられてしまえば、シャヘルは今度こそ路頭に迷う。もう一度人買いに捕らわれ、性玩具として売られるのだろう。それくらいしか、華奢で痩せぎすなシャヘルの使い道などない。少し歩いただけで高熱を出し、気温が変わるだけで眩暈を訴える。
 そんな病弱な身体は、一体ヴィレイのために何ができるだろうか。それを考えるだけで怖い。何にも役立たない奴隷など、買った価値もないというのに。
「私はお前を奴隷として買ったわけではないよ。最初は楽園のことを教えてもらう為に買ったんだけれどね」
 楽園の話はもうすべて話した。シャヘルが持つヴィレイの知らない知識もすべて伝えた。それでは、シャヘルの利用価値はもうないではないか。
 「最初は、」と言うならば、ヴィレイは一体今のシャヘルに何を求めているのだろうか?
 わからない。理解した途端、絶望に変わりそうで、シャヘルはヴィレイに深く聞けないでいる。

「ヴィレイ様も困った方よね。女っ気がまったくないんだから。毎日毎日、研究塔に籠ってよくわからない実験ばっかりなさって……」
 シャヘルの昼食を作ってくれる雑用の女性が、溜め息混じりに言った。
 シャヘルに用意された部屋は海に面している。潮の香りがからっと乾いた風に乗せられてやってきて、バルコニーから吹き込んでくる。今日の風は少し砂っぽい。きっと、海のそばにある砂漠から風が来ているのだろう。
 シャヘルはパンに伸ばしていた手を止めて女性を見上げた。
「マスターには、恋人がいらっしゃらない?」
「そう。昔は少しは浮いた話があったらしいんだけど、最近はまったく……心配だわ」
 元奴隷であるはずのシャヘルにも、女性は差別なく接してくれる。それが彼女も元奴隷で、ヴィレイに焼印を消してもらい、自由を得ていた所為だと知ったのは最近のことだ。それ以来、彼女――名前は確かフェメールと言った――と親しく会話できるようになった。
 恩人であるヴィレイの身の周りの世話をすべて任され、王城の近くに小さな家を借りて住んでいるという。こちらも元奴隷の母親と二人暮らしで、気立てもよい、よく気の回る素晴らしい女性だった。
「フェメールは、ダメなの?」
「私なんて、ヴィレイ様に釣り合わないわ。それに、ヴィレイ様は結婚をしない約束で自由を保障されているの……国王様とのお約束なのよ」
「そうなんだ……」
 ヴィレイはかなり不安定な存在だ。国王が一介の娼婦に産ませた子で、産まれた時は殺せという声まで上がったらしい。それを止めたのは父親である国王で、保険のようなものと考えたのだろう。もし、今の王子一人が死ぬことでもあれば世継ぎがいなくなってしまう。
「でもね……噂によれば、王位継承者であらせられる今の王子様はお体が弱いらしくて、妃殿下との間に子どもは絶望的らしいわ。だから、ヴィレイ様はもしかしたら子どもを求められることになるかも知れないわね」
「子ども……」
 今の国王は絶対にヴィレイを王にするつもりはないと宣言している。しかし、このままだと世継ぎが出来ない。それは王族の血筋が薄まってしまう事態になりかねない。王位継承者は他にいるけれど、国王の直系は王子とヴィレイのみ。ともすれば、ヴィレイに子どもだけを望むかも知れないというのだ。なんと身勝手なことだろう。
「そんな事態になれば、王命になるだろうし……いくらヴィレイ様でも、避けられないのではないかしら」
 苦々しい表情で言うフェメールだったが、ヴィレイに女っ気がないことは不満らしい。昼間から薄暗い場所にずっと籠りっきりで、昼食も無視して実験に没頭していては、体に悪いとぼやいている。せめて傍に寄り添う女性でもいれば――という、フェメールの意見にシャヘルは苦笑した。
「シャヘルちゃんが女の子だったらよかったのにねぇ……こんなに可愛いのに、男の子だもんね」
「う、うん……」
 しげしげと、シャヘルを眺めながらフェメールは残念そうだ。シャヘルはその視線に、曖昧な笑顔しか返せない。
 子どもを産むという行為と、その過程で行われることについては、一応知識は持っている。実際に体験することはまったくないと思っていた。しかし、ヴィレイ以外の人間に買われていたならば、否応なしに体験することになったのだろう。骨と皮でできたような、丸みもなにもない痩せぎすな身体なのに、魅力などあるのかと――シャヘルは自分の身体を見下ろして首を傾げた。
 シャヘルは己の身体について、まだひとつ、ヴィレイやフェメールにも言っていないことがある。自分でもよくわかっていなかったし、実際まだ「変化」を自分の意思でしたことがなかったからだ。自分のことなのに、未知の領域で、まったく見当もつかないものだった。
 しかし、これでヴィレイの役に立てるかも知れない。奴隷として買われ、今は何の役にも立てないシャヘルだが、この「変化」を受け入れればヴィレイの役に立てる。
 明日は確か、満月だ――。
 ずっと拒否してきた。怖くて受け入れるのが不安だった。でも、不思議とヴィレイの為だと思えばそれも軽減される。
 シャヘルは潮の香りの風を胸いっぱいに吸い込み、人知れず頷いた。





- 2 -


[*前] | [次#]
ページ:




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -