▼ 壱,



突風が吹く。窓硝子(ガラス)が粉々に吹っ飛び、教室の中はまるで戦場の如き様相を呈している。机や椅子は端々に飛ばされ横倒しになり、弾けた硝子片があちこちに霧散して、足の踏み場もない。じゃり、と靴底が鋭利な破片を踏み砕く。底の厚い靴で良かった。上履きで来ていたら、確実に怪我をしていただろう。
妖気を含んだ突風が再び命を襲う。髪が千々に乱れ、視界が何度も黒く翳る。
さっきの突風で、カラーコンタクトは既にどこかへ飛んでしまっていた。命(いぶき)の本来の瞳の色が、露見している。じっと前方を睨む瞳は、漆黒で、虹彩だけが金色に輝いている。なんとも言えない、不思議な色をしていた。
辛うじて窓枠に残っていた硝子が、重力に耐えきれず床に落下して盛大な音を響かせた。
「……これは、なんてものが憑いてるんだ……」
命は呆然と呟く。
ここが旧校舎で良かった。外の人間は、誰もこの騒動に気づかないだろう。派手な音を多少立てたとしても、命が張り巡らせた結界によってすべての物音は外へは届くことはない。
旧校舎は、完全に命のテリトリーと化していた。
目の前、傲然とこちらに力を見せつける存在を、命は睨みつける。初めて出会う大物だ。こんな力の大きいモノと、対峙することは今までなかった。
三つ編みを逆立て王冠のように戴き、目は邪悪な紅(あか)に染まっている。爛々と輝く鋭い眼光は、もとの生徒とは似ても似つかない。邪気を集め、それを妖気に変え、周囲に強烈な圧迫感を振り撒いている。生徒の着ている制服のスカートがふわりと妖気に膨らんだ。唇からは、微かに呻き声が漏れている。
「百田(ももた)……」
命はその生徒の名前を呟く。
クラス委員で、真面目で、優しく、いつも笑顔を絶やさない彼女は、クラスの人気者だったそうだ。
呼んだところで、応えてくれるわけもない。心は完全に闇色で、自我などとっくに憑いたモノに呑み込まれている。今の彼女は、目の前の標的(ターゲット)――霊力の塊のような命の存在を屠(ほふ)りたいと、それだけを欲しているはずだ。
「この気配に気づかないなんて、これじゃ、柘榴(ざくろ)さんに呆れられてもしょうがない、か……」
自嘲の笑みを唇に刻んで、命は札を構える。邪気を浄め、憑依を解除させる呪(しゅ)を込めた札は、命のオリジナルである。
霊気を高め、集中し、ひたと目の前の百田へと視線を固定する。中心に巣食う病巣のような黒い影を透かし見、雑念を払う。しん、と耳の奥が静まる感覚。身内が引き締まり、ぐんと緊張が増す。この感覚は嫌いじゃない。最近ではご無沙汰すぎて、忘れてしまいそうだった。
百田の身体を侵す影に向かって、命は静かな動作で札を投げた。ぐんぐん、札は相手に飛んでいく。勢いは衰えず、寧ろ浄化の炎の塊となった札は速度をあげていく。
しかし――渾身の一投は呆気なく躱され、命は驚愕に目を瞠った。百田の身体は命の束縛呪札で拘束されている。指一本動かせるはずがないのに、彼女は華麗に躱してみせた。
セーラー服の広い襟、スカートが優美な動作につられて踊る。
命は情けなく呟いた。
「ありえない……」
『ありえない? ありえないだって? 小僧、余り調子に乗るなよ……私をこんなちゃちな結界で閉じ込めたつもりなのかい?』
しわがれた声が百田の唇から洩れる。それは彼女の声ではなく、憑いたモノが発した声だ。命は小さく舌打ちする。やはり、命一人の結界では、歯がたたない。
決して、命一人でなんとかできるなんて、驕り高ぶっているわけではなかった。柘榴に、来て欲しいと、何度思ったか知れない。命のような若輩が一人で立ち向かうには、目の前の存在は余りにも歳を重ね、老獪(ろうかい)なモノだった。こんな存在と対峙するには、命は経験が絶対的に足りなかった。
『どれだけ雑念を払おうと、お前の心の中は透けているよ。寂しい、心細い、誰かに助けて欲しい……くっくっくっ……! それでよく術師などと名乗れたもんだ。己がどれだけ未熟か、もう少し自覚した方が身のためだよ、小僧』
本当に、その通りだ。芯の通らないことばかりしているから、こういう事態に陥る。
ぐらりと命の精神が揺らぐ。その隙を、見逃すような敵ではない。容易く束縛呪札を焼き切り、命めがけて猛然と襲い掛かる。
「……――っ!」
間に合わない――! 命は素人のように、思わず目を瞑る。頭では躱さなくては、と叫んでいるのに、身体は恐怖に震えて竦んだまま、動かない。
見開かれ、獲物を捕らえた歓喜で輝く紅(あか)い双眸が、目の前に迫る。憑依されているだけの、百田の体を傷つけることはできない。命は、観念して体の力を抜いて、その瞬間を待った。
――しかし、その時はいつまでも訪れなかった。
「あ、悪霊、た、たいさぁーん!」
ひどく間の抜けた声が教室内に響き、命の頭上に砂のような粉っぽいものが降り注ぐ。その声は高く上擦って、まるで少女のような声で――。
その声に我に返り、命はとっさに顔を庇って横へと跳躍した。頭を振れば、ばらばらと白い砂のような粉末が床に散った。制服も白く粉っぽいものに覆われている。唇に着いたそれを無意識に舐め、命は顔を顰(しか)めた。
「……塩?」
塩は浄めの効果がある。その証拠に、まともに食らった百田の中に居るモノが、苦痛に悶絶している。顔面を両手で押さえ、数歩後ずさり、低く呻く。恨めしいその声に、命は何者かに窮地を救われたことを悟った。視線の先、荒い息を吐く人物は――。
「だ、大丈夫? 高崎(たかさき)くん……!」
その声の主を認めて、命は驚いて一瞬呆然とした。なぜ、彼女がこんな場所に……。
「花柳(はなやぎ)……なんで……」
ここには、誰もいないことを確認して、百田を誘いだしたつもりだった。誰にも気づかれないように、危害を加えないように……。
それなのに、目の前には事実、花柳こころという少女が――存在している。命のクラスメートであり、百田の親友である、彼女が。
色素の薄い薄茶の瞳を恐怖に揺らし、いつもは柔和な笑みを浮かべる口元を神経質に引き締め、食塩と書かれた大袋を抱えている。
「だって……栞(しおり)が心配だったから、ずっと尾行してたの。そしたら、高崎くんが栞とここに入っていくのが見えたから……。高崎くんの様子も変だったし……」
「……」
素人に、尾行され、あまつさえそれに気づかず、巻き込んでしまった。その事実が命を打ちのめす。探偵助手、完璧に失格である。
『この……この、小娘があ……っ!』
「……きゃあ!」
余りの出来事に、命は敵を目の前にしているというのに、頭を抱えた。
――その間隙を突いて、激昂した敵が無防備な花柳に襲いかかった。妖力によって何倍にも鋭利に頑丈に強化された百田の爪が、恐怖に身体が竦んでいる花柳に振り下ろされる――直前、
「解(かい)!」
命の解呪が先手を打ち、足下に仕掛けていた禁札が発動する。
その札は強烈な霊波を広げ、敵の妖気をいとも簡単に霧散させた。
ざわり、命と花柳の髪さえ、霊波の影響を受けて強く靡く。強烈な青白い光が教室内を照らす。清浄な力を満たした光は、黒く淀んだ邪気を一時的にだが、光の届く範囲まですべて浄化した。
苦痛と怨嗟(えんさ)の絶叫を残して、百田の身体に憑いたまま、老獪なモノは弱まった結界の綻びから逃げていった。
命は眩暈をおぼえて思わず床に倒れこんだ。心臓が痛みを訴えている。四肢に力が入らず、小刻みに震えた。乱れた呼吸が聴覚を支配する。背中に硝子片の感触がしたが、今は構っている余裕はなかった。
「……っ、あー……疲れた……これだけは使いたくなかったのに……」
禁札は、命のとっておきだった。
長い時をかけて、一枚の札に霊力を蓄積させ、十分な量を留めておく。それをいざという時に、一気に解き放つ。長年蓄積された霊力は、大概の悪霊や妖怪の邪気、妖気を霧散させ、弱らせてしまう。発動させるのに大半の気力を持っていかれてしまう為、禁札は命にとって切り札だった。
これで逃げるなり退治されるなりしてくれなければ、絶望的な状況になってしまうだろう。気力を使い果たした術師など、敵ではない。寧ろ容易に襲える食料(エサ)だ。
今回は、浄めの塩のお陰で助かった。あの一撃がなければ、二人とも憑りつかれて奴の餌食にされていたはずだ。
乱れた呼吸のまま、命は呆然と立ったままの花柳を見上げる。
彼女は――さっきまでの緊張した面持ちとは違い、嬉々とした……そう、獲物を見つけた者の目をしていた。
「や、やっぱり……!」
乱れたまま整ってくれない呼吸を持て余している命の頭上から、花柳の興奮した声がする。命は観念したように、唇に苦い微笑を浮かべた。
「高崎くんって、霊媒師とか言うヤツなのね! やっぱり、そうだと思った……」
「……花柳」
百田が心配だと、悄然と言った彼女はどこへ行ったのか。命は切り替えの早い花柳の様子を、憮然とした表情で見上げた。
「この状況で、そんな楽観的だといずれ危ない目に遭うよ……」
「ねえ、他には何が出来るの? 式神とか呼べる? どうしよう! 興奮して今夜眠れないかも!」
「……はあ」
人の話を聞かない人種。他人を自分のペースに巻き込んでしまう天才。出会った当初は、こんな子じゃなかったのに。命は天を仰いだ。
そして、命はこれからの任務、更に、どうやって事の顛末を柘榴に報告するか――それを考えて、意識をこのまま手放したくなった。
「私も協力するわ! 栞をこのまま放っておけないもの。高崎くん、栞を……助けてあげて」
「……」
花柳の表情は、年ごろの女の子とは思えないほど、落ち着いた顔をしていた。
真実を知って、親友が何故変わってしまったのか理解し、納得した顔だった。
命はじっと花柳の顔を見つめて、意志が固いのだと悟り――静かに頷いた。
拒絶しても、こういう性格の人間は必ずついてくると命は経験で知っていた。
「ありがとう……! じゃあ、また明日ね、高崎くん」
塩の大袋をしっかりと胸に抱いたまま、花柳は鮮やかな笑顔を残して去っていった。

「……あーあ、柘榴さんに怒られるな、絶対」

命の絶望した呟きは、金木犀の香りを乗せた爽やかな秋風に掻き消えた。



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