▼ 壱,



「可哀想だなぁ……本当に、ブラック会社じゃねえか、ここ」
「……あなたに言われたくない、です」
「あぁ? 俺は自分の仕事くらい自分でこなすぜ? どっかの所長とは違ってな。って、前にもこの会話しなかったか?」
事の顛末を聞いた天神天照(あまがみてんしょう)は、憐れみの表情で首を振った。
コーヒーメーカーから芳しい香りが漂う。上品な香りはこの探偵事務所には珍しく、ちゃんとしたレギュラーコーヒーだった。
事務所に、釈迦戸命(しゃかどいぶき)の姿はない。寂しい室内をぐるりと見渡して、天照はゆっくりと紫煙を吐き出した。
「で、今度はあの坊や、どこまで買い出し行ったって?」
「買い出しじゃなく、お墓参りです」

邪魅(じゃみ)の始末は済んだ。元凶は消え、邪気は散り、浅葉(せんよう)高校の旧校舎は少しずつ、陰鬱な雰囲気が薄れていた。
しかし――面倒な後始末が残っている。
生徒が授業を受ける新校舎には、邪魅が誘き寄せたモノたちのせいで沢山の霊障が起こり、敏感な生徒は体調を崩している。邪魅が消えてもこの存在たちや邪気は、完全には綺麗になったりしない。術師の手で浄化されるまでは、影響を与え続け、悪しきモノを呼び寄せる。
旧校舎を完全に祓い、新校舎にも夥しく蔓延る霊道を塞ぎ、浄化を終えるまで、この学校に平穏は訪れない。
柘榴は邪気の浄化と関係者の記憶の消去、命は霊道・鬼門を塞ぐ――二手に分かれて行う作業は、当初の予想通り、長期になってしまった。
二人が潜入してから約一か月。長い月日をかけて、やっと浅葉高校からの依頼は終了した。

「相変わらず、便利な特技だよな、お前の霊道を自在に操る力」
あらましを聞いた天照がしみじみと呟く。柘榴(ざくろ)は苦笑でそれに答えた。
「しかしまぁ……助かったぜ。長期で行けるヤツが居なくてな。あそこは、前から再三依頼が来てたんだ」
「あれだけ霊やら邪気やら集まりまくったら、そりゃあ泣きつかれてもおかしくないですよ。近くの病院とも、霊道繋がっちゃってましたし……僕には便利な場でしたけど」
霊感が鈍い普通の生徒でさえ、負の感情を溜め込んでしまうほど、邪気の濃度は凄まじかった。
始終邪気や浮幽霊が頭部に纏わりついていれば、いくら存在を認識できないとはいえ、僅かながら影響を受けてしまうだろう。
知らない内に負の感情に支配され、楽しい思考を奪われ、段々と自殺に誘い込まれる――邪魅の、その他幽霊、妖怪たちの犠牲に、何人の生徒がなったのか。
学校側は口を噤み、依頼節である教頭も言いたくない様子だった。
鮮やかな緑に囲まれた美しい外観とは違って、内部は醜い現実が溢れている。
一か月生徒として生活していた命も、あの学校はやはりあまり楽しそうではなかったと言う。陰鬱で、淀んだ、若者の思考が渦巻く場所。
長期に渡って汚された場所には、後遺症のようにそういった悪影響が起きる。
「胸糞わりぃな……何度見ても、若いヤツらが犠牲になるのは、慣れねぇ」
紫煙で輪っかを作り、吐き出す。強烈な臭いが辺りに漂い、天井近くで霧散した。
天照は柘榴の浮かない顔を一瞥して、面倒そうに鼻を鳴らした。
「鬱陶しい顔だな。まだなんかあんのか」
天照の鋭い視線に、柘榴は曖昧な声で呟いた。
「いえ……命くんが……」
「あの小僧が、どうした?」
「僕を恨んでないかな〜って……色々お願いしちゃってるし……」
柘榴の吊り上がった目が情けなく歪む。ソファに姿勢正しく座った膝の上、握り拳を強く握りしめた。

柘榴が一番懸念していたのは、命がこのまま事務所にいてくれるのかどうかだった。
自分が辛くないように、柘榴は命にすべてを押し付けた。
この仕事の中心は命だと、勝手に決めて、すべてを背負わせた。
怠け者で、無精者で、薄情者。こんな最低な上司に、いつまで彼はついてきてくれるのだろうか?
命が帰ってきたら、すぐにでも暇を告げられるのでは――そう考えては、沈んでいく。
「……お前ってさ、見た目は男前の癖して考えはとことん女々しいよな。そんで、最低な大人だよ」
一刀両断。まさに切れ味最高の名刀でぶった切られたような清々しさで、柘榴の発言は全否定された。
痛い言葉に、ぐっと柘榴は言葉を詰まらせる。
「心霊的な分野では天才的でも、人間関係になるとマジで破綻してんな。いつか、しっぺ返し来るぞ?」
「怖いこと言わないで下さいよ……これでも僕、悩んでるんです真剣に!」
「お前のそれは悩んでるんじゃない。自分が痛い目見ないようにしたいだけだ」
「ううっ……」
「心配しなくても、小僧はお前のこと大好きだと思うぜ? 尊敬しまくりだろ。たとえ仕事押し付けてトンズラするようなブラック事務所の所長でもな」
天照の前に置かれた灰皿には、いつの間にか吸殻の山が形成されている。以前よりも早いペースで事務所が煙で真っ白になっている。
副流煙がどれほど人体に悪影響を及ぼすか、天照は知っているだろうに平気で煙草を吹かし続ける。
柘榴は涙目になって噎せた。
「ホントかなぁ……僕よりも、立(たち)葵(あおい)とか尊敬しちゃってそうだ」
「あんな高飛車な式まだ使役してるなんて、お前って心広いね〜」
「いや、僕の式の中で立葵さんが一番最強ですからね?」
事実、邪魅との戦闘の時は素晴らしい働きだった。
確実に命を守り、柘榴の力を制御する助けをしてくれた。
天照の手がようやくコーヒーの入ったカップに伸びる。一口飲んで顔をしかめ、机に用意されていた砂糖を続けざまに五杯投入している。
柘榴の顔が引き攣った。
「コーヒーは嫌いだよ、苦い。ここはオレンジジュースもないのか、しけてんなー……。まぁ、あのピンク狼の能力は認めてやるよ。お前の暴走を抑え、同時に術を使う間いい感じの力の状態をキープ――それと併せて、完璧な防御の術式。組み込んだヤツの実力がわかるってもんだ」
柘榴の力のバランスの完璧さは、すべて立葵の優秀さの上に成り立っている。天照には隠し事はできないのは分かっているが、ここまで見抜かれているとは予想外だ。
「僕の観察眼(せんりがん)、形無しじゃないですか」
「俺のはそんな生易しいもんじゃねぇ。種は秘密だけどな」
彼女にはいつまで経っても敵わない。柘榴は諦観した吐息を吐いた。
何年経っても変わらない天照は、ミルクと砂糖まみれのコーヒーを啜り、紫煙を飲み込む。
もくもくと、ブラインド越しの空は曇り空で、雨の気配はないがうら寒い色をしている。もう季節は冬を思わせ、底冷えする冷たさがすぐそこまで来ているようだった。
十一月の初め、木枯らしの強い日だった。

「信用は呆気なく崩れる。悪印象はなかなか崩れない。一度失ったものは、取り戻すのは難しい。――それを胆に銘じていれば、あの小僧はお前の傍に居てくれるだろうよ」
「信用、ですか……」
「受け入れる。これはかなり善なる行為だ。それをしてもらった人間は、簡単にその受け入れてくれた相手を裏切ったりしない」
天照の視線は遠い場所へ固定されていて、何か昔の追想に耽っているらしい。言葉の一つ一つが重く、経験に満ちた声音だった。
柘榴は曖昧に頷く。
命に対して、そんな大層な行為をした覚えはない。
ただ、自分の元へ他人が近づいてくれるのが嬉しくて、手放すのは嫌だと――思っただけ。
独りは寂しい。命を迎え入れた時の柘榴は、それを痛いほどに感じていた。
「ああもう、面倒なヤツらだな。それでもパートナーか。相手の状態くらいちゃんと把握しろ、ボケ」
思考に没頭しだした柘榴に捨て台詞のように吐き捨てて、天照はおもむろにソファから立ち上がった。脇に置いていたコートから茶封筒を取り出し、柘榴に放り投げる。ばさっと重い音を響かせ、机の上に落ちた封筒からは、かなりの枚数の福沢諭吉が覗いていた。
「報酬だよ、受け取れ貧乏事務所め。また面倒な依頼があったら、持ってきてやるよ」
「要らないです! 遠慮します!」
「そう喜ぶな。――じゃあな」
紅く塗られた爪が眩しい右手を振って、天照は室内一杯の紫煙を残して風のように去っていった。
硝子交換の費用がないせいで風通しのよくなったドアを呆然と眺め、柘榴は急に静かになった事務所で独り呟く。
「――仕事、もらいに行くかぁ……」
それに呼応するように、スーツの懐に入れた式――立葵の札が温かくなった。


 ※ ※ ※


浅葉高校最寄りの駅から二駅行った所に、大規模な霊園がある。
ずらりと等間隔で墓石が並ぶ中、ある真新しい墓の前に、命は呆然とした様子で立っていた。
手にはお供えとして購入した花束が握られたままだ。墓花としては派手で、花束としては寂しいものだった。
墓前には、色々な花束、お菓子、写真、雑貨、手紙が溢れかえって、まるで一つの部屋のようだ。元気で活発な、女の子の部屋――。
季節は秋から冬に移ろうとしている。木枯らしがコートの隙間から入り込み、命の体から体温を奪っていく。氷のように冷たくなった命の体は、石の如く動かない。
陽は傾きかけている。もう夕方に近い時間で、命は約二時間、ここで立ったまま、ぼうっとしていた。

花柳(はなやぎ)こころの死は、自殺として処理された。
旧校舎の四階の教室から飛び降り、打ち所が悪く死に至った。そう、死亡診断書には書かれているはずだ。
花柳の両親は突然の出来事に茫然自失となっており、葬儀全般はこころの姉が取り仕切っていると聞いた。
彼女のいない浅葉は、まるで火が消えたように暗く感じた。
たとえそれが偽りの花柳こころだったとしても、確かに彼女は学校内に存在し、生徒や教師と関わっていた。
友達思いで優しく、元気で、明るい、面倒見のいい生徒だった――そう葬儀の時に言ったのは、目を真っ赤に腫らした教頭だった。
花柳のクラスメート、親友だった百田栞(ももたしおり)、別のクラスの生徒、そして後輩や、授業を担当していた教師など、花柳の交流は広かった。
そしてその全員が花柳こころの死を嘆き、悲しんでいる。
命は複雑な気持ちでその一連の出来事を見送り、淡々と後始末を進めた。
命から、なにも言うことはない。もう、なにを言っても遅いのだ。花柳こころはすでに消え、命が出会ったのはニセモノの花柳こころだった。
本当の、花柳こころはどんな性格だったのか? 命は考え、そしてやめた。
たとえ本物と出会っていたのだとしても、親交を深めることなどしないのだろう。
心を動かされることは、ない。仕事なのだと、言い聞かせながら、命は依頼を淡々と、事務的にこなしてきた。
今までも、これからも、それは変わらない。
実際は感情に流されそうになっていても、痛むなにかが悲鳴をあげても、命は自分を騙して仕事をする。
どうせ、今頃は浅葉高校の人間全員から命――高崎息吹(たかさきいぶき)の記憶は消えている。
柘榴の式――天竺葵(てんじくあおい)が、主の命じるままに記憶を消してくれたのだ。
綺麗さっぱり記憶が消えた人々は、ただ花柳の死を悲しみ、一人の人間のことなど思い出さない。
百田栞も、一連の霊障の記憶を柘榴が消していたので、受験のストレスで入院したことになっていた。命のことも、勿論、覚えていない。
「この仕事がこんなに辛いなんて、知らなかった」
これまで命が扱ってきた仕事は、下級霊や下級妖怪の退治、撃退だった
大抵はお札をチラつかせただけで逃げる小物ばかりで、大物など相手にしたことはない。
人を乗っ取ったり、変化したり、操ったり――そんな老獪なモノとは直接遭遇したことなど、なかった。
命はちっぽけな存在で、子どもで、愚かだった。
少し術が使えるというだけで、強い気でいた。
そこら辺にいる低級と、同じ思考だったのかも知れない。
後悔してから気付く――。昔から、変わらない命の欠点だった。
「でも――それでも……」
目標ができた。足もとにも及ばないけれど、追いつきたい目標が、再認識できた。
命の感情は支離滅裂で、色んな出来事が一気に押し寄せたせいでごちゃごちゃとしている。しかし、この思いだけはしっかりと認識していた。

一段と強い木枯らしが吹く。
命の手は凍えきり、薄手のコートでは凍死しそうだ。
花束を、墓前の隅っこに悴んだ手でそっと、手向ける。薄く感じる色彩の中で、花柳の墓前に供えられた花束たちが、鮮烈な色彩を命の網膜に焼きつける。
花柳こころに対する感情は、未だにどんなものなのか、命にはわからない。憎んでいるのか、ただ怒っているのか――。
可哀想だと、思うだけなのかも知れない。身体を好きに使われた挙句、死因は闇に葬られる。
それでも、命は花柳がなぜか笑っているような気がした。
あの笑顔は、邪魅が作ったものとは違うと、どこかで感じていた。あの笑顔だけは……花柳こころ自身の笑顔だったと。
いつか黄泉路――もしくは、あの世で出会えたなら、いい友達になれるかも知れない。
『――ありがとう、またね』
空耳かと思ったが、命の耳元で柔らかい声が囁く。
なんの礼なのか、相手は言わない。しかし、気持ちはその一言で十分命に届いた。
「こちらこそ、ありがとう――また……」
命は心がふっと軽くなった気がして、寒空を見上げて微笑んだ。

自分の居場所を守ること。
柘榴に頼らなくても仕事をこなせるようになること。
――柘榴のそばに、少しでも近づくこと。
信頼されているというなら、もっと、信頼させ、信用もさせてやる。命は変な使命感のようにそう決意した。

「命く〜ん!」
墓の列を器用に避けながら、柘榴が命のもとへと走り寄ってくる。
白い息を吐き、手を大きく振っている柘榴は、どこをどう見ても体の大きい子供だった。
「柘榴さん?」
「遅いから待ちくたびれちゃって……僕ばっかり天照さんに怒られてもうウンザリだよ」
ふて腐れたように頬を膨らませて言う柘榴に、命は苦笑を漏らした。
「待ちくたびれたからって、二駅も離れた墓地に来るなんて、柘榴さんらしくないですよ? 寒いの嫌いでしょう」
「うん……まぁ、正直体固まっちゃって今すぐ温泉に入りたい所だけど……その前に、釈迦戸くん」
「はい?」
もったいぶってこほん、と一つ咳をして、柘榴は命に大きめの茶封筒を差し出した。
「じゃーん☆ お仕事だよ〜」
「――え?」
差し出された封筒には、命がいつもお世話になっている問屋のマークが捺してある。命の目が見開かれた。
「これ、って……」
「いやぁ、問屋のおじさんがいい依頼回してくれてさー! 今度はマンションで起きる怪現象を霊現象か見極めてくれ、だってさ〜」
「……」
「それで報酬がこれだよ! すんごいでしょう?」
「……柘榴さんが、取ってきてくれたんですか?」
「そうだよ? 久々に行ったから緊張しちゃった」
柘榴のあっけらかんとした表情が目に眩しい。
命は未だに現実味のない目の前の茶封筒に、恐る恐る手を伸ばした。感触がある。
だだっ広い霊園で、二人の男が、向かい合って無言で見つめ合う――端から見れば、かなり異様な光景だった。
頭一つ分高い柘榴の顔を見上げて、命はどんな顔をすればいいのか分からずに微妙な顔で固まった。
今回の件で、少しは仕事をしてくれる気になったのだろうか?
しかし、柘榴は自分で宣言していたではないか――人間、そう簡単に性格は矯正されたりしないと。
これからも、命が鴻上(こうがみ)探偵事務所のすべてを取り仕切ることを、柘榴が決定づけたのだ。
「……柘榴さん、一つ聞きますけど」
「うん? なんだい」
「この依頼……誰がこのマンションまで行くんですか?」
「え――それは、勿論……」
命の予感は的中する。柘榴の言い出すことに関しては、ほぼ百パーセントの的中率だという自信がある。他の予感はまったく当たらないのに。
柘榴は当然だというように、にっこり笑って言った。

「命くん、よろしくね!」

柘榴の言葉と同時に、耳元に呆れた様子の立葵の声が囁いた。
「まぁ、若い内は――」
「苦労しとくもんだって? 大人の言い分も程々にしてくれませんか……本気で――呪いますよ?」
「……」
「……」
柘榴と立葵の表情が、音を立てて凍りつく。背筋に得体の知れない恐怖が這いのぼり、二人は同時に身震いした。
命の声は鋼のように硬質で、何者も寄せ付けないほどに冷酷だった。
そして、その時の命の表情は――雪女よりも冷たく、怖ろしかったと二人は後に囁きあった。






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