▼ 参,


 ※ ※ ※


――あっと言う間。
この言葉が一番しっくりくる。
命はただ、息を呑み、見守ることでその一瞬を過ごした。
事務所付きの祓い屋になることは、命が術師になると決心してからずっと夢見ていたことだ。
個人でやっていけるのは本当に高位の術師だけで、そんな存在は両手の指で数えられるほどに少ない。
伝手を頼って、能力を磨いて、這いのぼって、命のような者は段々と上へあがっていくしかない。経験を積むしかない。
自分の力をコントロールできない。これは、命の致命的な欠点で、弱点だ。命は何度、この欠点のせいで事務所に拒否されたか知れない。
悔しかった。己を制御できない自分も、受け入れてくれない社会にも、幾度も腹を立てた。そして、自己嫌悪に陥るのだ。なんて、小さな人間なのかと。
苦しく、辛い日々だった。周回する思考は暗く淀んで、明るい未来なんて思い浮かびもしなかった。
その日々から、命を引き摺り出してくれたのが――柘榴だった。
憧れていた鴻上柘榴に拾ってもらったことが、命にとっては唯一の誇りと自慢だった。
命を必要としてくれる人。そして、生きる意味をくれる人――。
本当は、これからもいつもの柘榴で居てくれればいいと思っていた。
命が仕事をして、柘榴は事務所でのほほんと座っていてくれれば、いいと……。
いつから、見失っていたのだろうか。
進まない時間に、焦っていたのは、命だけではないことに、気づかなかった――。

邪魅が花柳こころの身体から、悲痛な声をあげて飛び出した。
一瞬すぎて、命も柘榴が一体何をしたのかわからない。
息を呑む間に、すべての行為は済んでしまっていた。
『小僧の前だからって張り切ってるな……まったく、普段からこれくらい実力を出していれば、六月一日(うりわり)の者どもなどに負けはしないだろうに』
「柘榴さん、何を……?」
『法具で増幅された言霊を、直接ヤツの体内(なか)に送り込んだ。少女の身体にはなんの影響もない。しかし、体内のヤツには効果覿面だろうな』
柘榴が、苦しみ、罵詈雑言をまき散らす邪魅に近づいたまでは、理解できた。しかし、それからはまるで覚えていない。そう、思い出せない。
『柘榴が、言霊を行使した間、全員の心を閉じた。聞いてはならん。さっきのを聞いたら――精神(こころ)がやられるぞ』
「そうなんだ……」
一度でいいから、柘榴が術――言霊を使っている所を見てみたい。
残念そうな表情で呟いた命に、立葵は可笑しそうに笑う。
『そう残念がることもない。今からは、聞いても害はない術を使うぞ』
「――!」
金木犀の香りが漂う中、柘榴は悠然と佇む。風が吹き、髪をさらって、爽やかな緑を思わせる音が響いた。
邪魅は、醜悪な姿を晒している。
餓鬼に似た姿だが、身体中から無数の手が生え、始終落ち着きなく蠢いている。濁った膜が張った狐のような瞳は、泥のような茶色をして自在に視線を彷徨わせている。顎の付け根辺りまで裂けた凶悪な口からは、ぎざぎざの歯が覗き、長く赤黒い舌は醜く膨らんで腹まで伸びて垂れていた。床から一メートルほど浮き、幽体の身体は透けている。
誰もが姿を見れば顔を嫌悪に歪めるだろう姿は、柘榴に絶えず呪いの言葉を吐き続けていた。
『下賤な人間が――! 混じった血の下種が――! この――この――! 鴻上家の呪われた一族めがァッ――!』
「どうして、僕の本名知ってるのかは……まぁ、君は結構お年寄りのようだし? 僕の先祖に何かされたのかな。でも、これはやりすぎでしょう。花柳さんの身体欲しいからって、事故を誘発して。この学校に入ってからは、鬼門と霊道の宝庫だと知って邪気を集め、生徒を何人か自殺に追い込んで生気を奪って、それでも飽き足りずに術師の霊力まで狙って、教頭操って僕たちを呼んだ――よくキレる頭をお持ちで、なによりです。考えたよねぇ……自殺なら、学校側も公にしたくないから、ひっそりと片づけられる。親族も大事にしたくないから、口を噤む――解体業者以外死人がいないなんて、“よく言ったもんだよね”」
『ぐう……ううっ……!』
邪魅は言葉もなく唸る。柘榴が言ったことが、すべて事実だったのだろう。
「最初から、変な気配だな〜とは思ってたんだけど。授業中に近づいてみたら結構な死臭纏わりつかせてるし……釈迦戸くんの報告で、確信したよ」
邪魅の顔が悔しさに歪んで、醜悪な顔が更に皺くちゃになった。
命はゆっくりと対峙する柘榴と邪魅を避けて、遠回りに廊下を移動する。足音を立てずに滑るように脚を動かし、花柳の身体まで辿りついた。
「……やっぱり、死んでる、んだよね?」
『魂がないな。先に成仏したか、黄泉路の途中か――魂を食われる苦痛の憂き目に遭わなかっただけ、この子は幸せだ……』
「……っ」
冷たい花柳の身体は、まったく生きた感触がしなかった。上半身を抱え上げても、ぐにゃりとゴムのように撓(しな)るだけ――。
花柳こころの魂は、とっくに、この世のものではなかった。
冷え切った体が、それを物語る。所詮、命の見ていた動く花柳は、邪魅が与えた仮初めのものだったのだ……。
『浄化して、弔ってやるのが最善だ。それは、あとで考えればよかろう』
死人は蘇らない。理がそれを許さない。命は冷たい花柳の体を抱き締めた。
しかし、それよりも命はさっきの柘榴の様子が気になって仕方ない。
邪魅に罵られ、呪われた一族だと言われた時の柘榴の顔……。
石のように強張り、感情の読み取れない顔――でも、命には、悲しそうな顔に見えた。
「……立葵さん、さっきの――呪われた一族って……なんのこと、ですか?」
『お前……聞いてないようで聞いてんだな。――俺の口からは言えない。柘榴に直接聞いてくれ』
はぐらかされた――。命は物質を保護する札を花柳の体に貼りながら、不満そうに唸った。
花柳のことはもう、仕方ないことだと割り切るしかない。苦痛を感じず逝けたことだけが救いで、命には安らかな黄泉路を祈るしかできることはない。
せめて、腐敗させずに体は荼毘にふしてやりたい。札の効き目は一日が限界だが、これがある限りは傷つくこともない。
命は柘榴の様子を窺うように、そっと視線を彼に注いだ。

力が内から暴走しそうになった。
柘榴は荒ぶる力が怒っているのを感じる。誇り高い血筋、プライドだけは立派な血族。
邪魅の言葉が引き鉄になった。獣の血が、血管を熱く流れていく。
柘榴は、この感覚が嫌いだった。
理性を持っていかれそうな――本能そのものの力で、捻じ伏せるような。
身体の底から、沸々とわきあがるのは、咆哮だ。人ではない、獣そのものの獰猛な欲求。
しかし、それらを柘榴は深呼吸一つで奥の奥へと――意識しないところへと、追いやった。胸の奥に、命の傍に付き添っているだろう立葵の気配を感じる。
「錢葵(ぜにあおい)――!」
魂に刻まれた言霊を吐き出す。
手ごたえを感じた瞬間、柘榴の傍には紅色の小さな狼が出現した。
視線の端に捉えた命が、驚いて目を見開くのが見えた。柘榴は少しだけ安堵する。
命は、柘榴が考えていたよりも、ずっと強く、ずっと大人だった。
一度にこんな経験をしてしまえば、挫けてしまうと思っていた。若く柔軟な感受性は、いい方向に思考を持って行ってくれたようだ。
命は独り立ちするには若すぎる。最初に得た印象は、若く、未熟だということだった。
柘榴は最初から独りだったが、命は違う。ちゃんと師があり、家族があった。――幸せだったのかは、わからないけれど。
邪魅が言葉にならない悲鳴をあげ、柘榴に突進する。最初にかけた結界は既に無効化され、花柳こころの体の下敷きになっている。全身全霊をかけ、邪魅は柘榴に特攻を仕掛けてくるつもりらしい。――余裕のない輩は、なにをするかわからない。
錢葵は、柘榴の命令を待っている。血気盛んな性格で、今にも柘榴の命令を待たず、邪魅に襲い掛かりそうだ。剥き出した牙が、獰猛な光を発している。
『柘榴! 来るぞ――!』
「錢葵、お願いするよ」
『承知!』
錢葵は柘榴の命令を聞くや否や、水を得た魚のように邪魅へと飛びかかった。錢葵が発した霊力の雷撃が、邪魅の心臓部分を正確に射抜く。紅色の小さな体から、青白い強烈な光が迸り、周囲を眩く照らし出した。
雷撃に射抜かれた瞬間――邪魅が力の限り絶叫した。
耳を塞ぎたくなる、不気味な声だった。
「錢葵は凡てを貫く雷(いかずち)の守護者。悪鬼となりし者の凡てを貫き、滅する事を願う。未来永劫、輪廻転生をも赦さぬ奈落へ射ち落し給え――」
柘榴は再び、魂の底から言霊を放つ。放った言の葉は錢葵へと渡り、力となり、抑止力となる。
邪魅を囲い、束縛し、転生も赦されない六道の彼方へと連れて行く――。

「すごい……」
雷撃の光で照らし出される光景に、命は半ば呆然としていた。
背後の位置にいた時と違って、今は柘榴の正面を見守る場所に花柳の体を抱いて、座っている。お陰で、邪魅の醜い口から吐き出される邪気の影響は受けなかった。
紅色の小さな狼――錢葵の雷撃によって虜となった邪魅は、最早当初のような勢いは皆無だった。命乞いをし、柘榴に必死に慈悲を願っている。見ていて哀れを誘う様子だったが、命は赦して欲しくないと思った。
『当然だな。アイツはもう、何人も人間を犠牲にしている。それは、赦されることじゃない。柘榴も――それほど甘くはないしな』
立葵が自慢そうに鼻を鳴らした。
柘榴の唇が再び開かれる。
「お前の罪は赦されない。錢葵の雷によって、この場で奈落へ落とされる――!」
邪魅に、残酷な死刑宣告がなされた。決して覆らない言霊の命令は、錢葵を紅い死刑執行者に変えた。
錢葵の咆哮と、邪魅の悲痛な絶叫が響く。二匹の影は段々と薄れ、突如現れた巨大な霊道に吸い込まれていった。
命は見たことがなかったが、それは、六道に直接通じる道なのだそうだ
一方通行――式神や、特定の存在のみが行き来できる、黄泉路の先へ通じる道。
この道を開ける者は、滅多にいない。柘榴は、それを顔色一つ変えずやってのけた。命は思わずごくりと生唾を飲み込む。
本当は、凄い人なのだ――。その思いを強くする。命が軽んじていた上司は、本気になれば、最強だった。
溜息を吐いて、柘榴が命を見た。
「命くん、君、なんか僕のハードルを一気にあげてない?」
「え、なんのことですか?」
「僕はね、こんな性格だから家追い出されたんだよ? そんな人格破綻者が、そんな簡単に性格変わるわけないでしょ」
「……と、言うことは?」
「――ここの後始末、お願いしまーす! 立葵と天竺葵(てんじくあおい)貸しとくから〜!」
柘榴の姿が、また突然開いた霊道の中に消える。どうやら、柘榴は霊道を自由自在に操れるらしい。
命の傍に、立葵とは違う橙色の狼が現れる。立葵と瓜二つの狼は、命にぺこりとお辞儀した。
柘榴の笑顔が眩しかった。とても、眩しかった。
命の思考は途端、真っ白にフリーズする。
「えええ――っ!」

見直した瞬間に、呆気なくその期待を打ち砕かれた。
命は真っ白になった思考で、立葵と天竺葵二匹からの、慰めの言葉を聞いた――。

「若い内は、苦労をしておくものだ」
「そうだよ〜君若いからね」



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