▼ 弐,


 ※ ※ ※


旧校舎は現在の新校舎の真向かいに当たる位置に建っている。東、西の棟は問題なく取り壊しが出来たらしく、跡形もない。
鬱蒼とした緑に囲まれ、両翼をもがれ、中央棟だけが不気味な姿を見せていた。
長年放置された建物の割には、蔦が絡まっている他は大きな傷みはない。今でも十分ここで授業が出来そうな様子である。しかし、所々のバリケード、物々しい障壁、悪戯で破壊された一部の窓硝子を見れば、ここが最早人に利用されない建物だとひしひしと伝わってきた。
「って、こんな霊道・鬼門ばっかの場所で授業なんかできないか」
一人ぽつりと呟いて、命は草花で茂りに繁った正面玄関から、バリケードを避けて中に這入った。むっとした草いきれが、鼻腔に強烈な香りを残していく。
今頃、飯田が五時限目の教師に命の欠席を告げてくれているだろう。
食堂を出た時、命は飯田に気分が優れないと言って寮に帰ると伝えた。飯田は気のいい人間だ。すっかり意気投合した命の体調を本気で心配してくれた。
そのことに少しの罪悪感を覚えながら、命は寮に行くと見せかけて旧校舎に向かったのだった。
以前、命と百田が戦闘を繰り広げた四階の教室は、そのままだった。
硝子が飛び散り、散乱した床は踏むとばりばりと音を立てる。軽い足取り、重い硝子の砕ける音。細やかな埃の舞う中、命は辺りを警戒しつつ、学ランの内ポケットから何十枚もあるだろうお札の束を取り出した。それを、慎重に室内に配置いていく。
教室に半分ほどのお札を配置し、命はまた硝子をばりばりと踏みつけながら廊下に出る。廊下の天井、床、壁、あらゆる場所にさっきと同じように、次々とお札を貼ったり投げたりしていった。
――出てくるならば、必ずこの場所だ。命はそう思っていた。
ヤツは百田から生気を奪いはしたが、まだまだ獲物が足りないと考えているはずだ。
憑依する相手が見つかるまで、ヤツは霊道の近くで休息する。そう予想するとしたら、この教室周辺に罠を張れば、何かしら反応があるはずだった。
柘榴が帰ってくる前に、準備くらいはしておきたい。これくらいならば、柘榴の邪魔にはならない。ぺたぺたと自作のお札を消費しながら、命は一人頷いた。
それと――花柳に、早く元気な笑顔を取り戻して欲しかった。
元気一杯に、あの夜命に詰め寄ってきた花柳は、本当に生き生きしていた。鮮やかな笑顔は、誰もを明るくしてくれるものだ。
『花柳って、可愛いよな。元気すぎるところもあるけど、俺はアイツの笑顔、結構好きだぜ』
飯田にも好印象な花柳の笑顔は、今朝からずっと翳り、本来の彼女の闊達さはない。空元気だとわかる態度は、傍から見ていて痛々しかった。
その花柳は、百田の悪い噂を流したヤツをとっちめると言って出て行ったきり、食堂にも、教室にも帰っていないらしい。(携帯電話という文明の利器のお陰で、飯田から教室の情報が逐一報告されてくる)
やはり、彼女も精神的にかなり辛い状況なのだろう。今はそっとしておくに限る。
命は心中でそう花柳のことは一旦、思考の隅に追いやった。そしてまた、お札をばら撒く作業に戻ろうとした瞬間――教室に貼ったお札が一斉に反応した。

「――!」
見慣れた後姿が、教室に急いで駆け付けた命の視界に飛び込んでくる。
秋になり、紺色のセーラー服が目に鮮やかな色となって映りこむ。ふわりと、割れた窓から吹き込んでくる風に、スカートが膨らんだ。
「はな……やぎ……?」
呪札が、花柳に対して、警告を発している。間違いなく、彼女に、照準を定め、音を発している。
命の思考は混乱していた。
花柳がゆっくりと、命の方へと身体ごと振り返った。徐々に見えてくる花柳の表情は、ひどく穏やかだった。
「高崎くん、邪魅(じゃみ)っていう妖怪、知ってる?」
不気味に平坦な花柳の声が、言葉を発する。
命の心臓は壊れそうなほど、鼓動を大きく刻んでいる。呼吸が苦しくなり、喘ぐように口で空気を吸った。
花柳の顔が、能面のように表情を消す。感情を一切消し去った、人間ではありえない――無機質な顔(かんばせ)。
「小さな妖怪たち――名前のない妖怪が寄り集まり、ひとつとなった姿。混在した存在は、その分エネルギーが必要なの」
機械的に花柳の唇が言葉を紡ぐ。ごっそりと感情が抜け落ちたままの顔で、花柳の視線は、ぴたりと命に注がれている。
「人間って単純よね。ヒトのカタチをしていれば、それが何者であっても疑わない――この子の身体を貰った時も、中身が入れ替わっただなんて、思うこともないの」
以前は百田に感じていた妖(あやかし)の気配が、花柳から漂ってくる。強く、重く、百田の体内(なか)にいたモノよりも、もっと濃厚に。
どうして、気付かなかったのだろう。こんなにも近くにいたのに、まるで疑うこともしなかった。本当の――標的(ターゲット)。
「あの可愛い可愛い栞ちゃん、よく働いてくれたわよ? 私が自分のせいで乗っ取られたと思って……もとから、こっちが本性なのにね?」
表情のないまま、声だけでケタケタと笑う様は不気味だ。花柳の皮を被ったモノは、一切を隠すことなく、喋り続ける。
命はようやく、自由になった舌を動かし、喉から苦い言葉を、絞り出した。
「最初から、俺のこと、わかって近づいてきたのか?」
「決まってるでしょう? こんなに美味しそうな匂いを漂わせてる人間なんて、そういう職業のヤツしかいないもの。それにしても……アナタって本当にプロなの? 栞に憑かせてる私の欠片を多くしただけで、そっちの気配しか感じないなんて……鈍感すぎるわよ」
「……っ」
言葉もない。命は図星を突かれ、ぐっと息を詰まらせた。
花柳の言うとおりだ。この学園内は霊的な存在が多すぎて、命の感覚はずっと狂っていた。どこになにがいるのか、どんな霊障が起こっているのか……いつもなら、手に取るようにわかることなのに、校内に入ってからは麻痺したように感じなくなっていた。
花柳の顔がぐにゃりと曲がる。異形の本性が溢れ、花柳の表へと具現する。それは――まるで狐のような不気味な目付きのモノだった。
「さあ、お喋りはこれくらいで満足? 高崎くん。もうそろそろ、アナタも私の対処法を考えて行動を起こそうとか思ってるでしょう」
花柳――否、邪魅の腕がゆっくりと上がる。三日月型に裂けそうなほど割れた唇から、嘲笑が放たれる。上げられた腕が振り下ろされた瞬間――邪魅の周りにあった呪札がすべて消し飛んだ。跡形もなく霧消した呪札は、命が作った中でも力の強いものだった。
「こんなコケオドシ……きかないよ。高崎くん?」
「だよねぇ……」
相手と自分の実力差をまざまざと思い知らされ、命は虚しく笑うことしか出来ない。
正直言って、この依頼は命に負えるものではない。柘榴レベルの術師が受けて妥当なレベルで、一年目の駆け出しが一人で立ち向かう方がおかしい。
「まあ、柘榴さんが来てくれるまでの足止めくらいは出来るとは思ってるけど……!」
「ふん、あの術師は面倒だけど、アナタのような修行の足りない餓鬼ならば――容易く餌食にしてあげる」
「いや、それは遠慮したいんで……じゃあね!」
「なっ――!」
言うやいなや、命は邪魅に背を向け、脱兎の如く教室を飛び出した。そのまま、急ブレーキをかけつつ勢いを落とさないように廊下を左に曲がる。――呪札(トラップ)を仕掛けに仕掛けた場所へ、邪魅を誘い込むように。
無駄だとはわかっている。すぐにさっきの札のように消滅させられるのだと、わかりきっている。しかし、足止めは出来るはずなのだ。
全速力で罠(トラップ)の中に飛び込み、命は荒く乱れた呼吸を整えるために深呼吸した。心臓が暴れ狂っている。最近デスクワークしかしていなかったせいか、少し走っただけで息があがる。十代であるまじき体力低下だ。この仕事が無事に終わったなら、有酸素運動を日課にしようと命は誓った。
廊下を右に曲がったところには、解体作業の途中で放置されたままの木材やら撤去された椅子や机がうず高く積まれ、行き止まりになっている。その向こうはぽっかりと風穴があき、傾き始めた陽の光が垣間見える。ここを見れば、確かに廃墟のような不気味さがあった。
「多分、十分もったらいい方だよな……」
廊下は五十メートルほどの距離がある。そこに、命は多数の呪札を配置していた。いくら邪魅でも、あの数の札を消し去ろうとするなら、かなりの力を使うはずだ。
少しでも弱らせ、逃げられないように引きつける――幸いなことに、邪魅は命の量だけはある霊力を欲している。逃げることはないだろう。囮になって、柘榴の到着を待つくらいしか、今の命にはいい考えが浮かばない。
風穴から吹いてくる風は、九月だというのにもうかなり冷たい。
思わず身震いした命は、突然目の前の空間に出現したピンク色の靄に驚いて目を見開いた。
「えっ?」
ピンク色の綿菓子のようなものが、目の前で静止している。危険な気配ではないが、感じたこともない気配が漂ってくる。
驚きから覚めて不思議そうに見つめる命に痺れを切らしたのか、ピンクの靄はいきなり怒った口調で言葉を発した。命は再度、驚く。
『お前、俺が敵だったらどうするつもりだ! それでも柘榴の助手か!』
「え……あの、ええっと……?」
くるりと一回転した瞬間、ピンク色の靄は薄桃色の巨大な狼に変化していた。この獣は――。
『お前と会うのは入所して以来だな。と言っても、一瞬だったけどな』
「あの時の狼さん……幻覚じゃなかったのか」
入所初日、緊張のしすぎで幻覚を見たのかと思っていた。なんせ、目の前にいきなりピンクの狼が現れたのだ。いくら幽霊や妖怪を見慣れているとはいえ、命は思わず二度見した。
その幻覚だと思っていた狼が、あの時と同じように目の前にいる。そして、喋っている。
即ち、この狼は柘榴の式神だということだ。
命の呼び方が不満なのか、狼が不機嫌そうに唸った。
『ふざけた呼び方をするな、小僧。俺は鴻上(こうがみ)家に代々伝わる式だぞ。お前より長生きしてるんだ。ちゃんと立葵様と呼べ』
「……」
気位の高い式神は多いと聞く。命は式神を作り出すことにまだ成功していないので、その辺りの経験はない。
この狼――立葵も、主以外にはこういう性格なのだろう。
命は柘榴に恨み言を心の中で呟いた。
気位の高い式神は大抵、自分よりも下位の者だと認識した術師の言うことなど聞かないものだ。
『今回は、柘榴の命令で仕方なくお前を助けてやるが……しかし、自分の有り余る霊力を制御できていないのか、お前。力だけ大きくて、操るのは不器用――まるで、昔の柘榴を見ているようだ。今もそんなに変わらないけどな』
命の全身を眺めながら、立葵が独り言のように呟いた。その言葉に、命は首を傾げる。
柘榴は、「言霊師」の名門、鴻上本家の次男で、当主の長男をも凌ぐ霊力を持っていると聞いた。溢れる才能は名家の次男というしがらみを嫌い、家を出て今に至る。柘榴自身はまったく語らないが、そういう噂は嫌でも耳に入ってくる。
小さな頃から秀才で、教えを受ける前から一通りの術を使えた――などという噂も聞いたことがある。
『そんなのは、まこと噂にすぎない。柘榴は幼い頃、分を超えた力に悩み、そのせいで友もなく、孤独だった……お前なら、わかるだろう?』
「……」
命の考えていることなどお見通しだというように、立葵は鼻を鳴らす。そして、感情が高ぶったのか、立葵は一息に捲し立てた。命はそれをただ無言で聞いた。確かに――命にも覚えのある、ことだ。
立葵は我に返って焦ったように首を振る。
『し、しかしだなっ! お前なんか、柘榴の足もとにも及ばないぞ。尻の青い餓鬼だ! 自意識過剰な馬鹿だ! 俺の助けを、ありがたく思えよ!』
「……はいはい」
言われ様がひどすぎる。肩から力が抜ける。硬直していた精神と体が、解れていくのを命は感じた。
立葵の性格が、一応は命の役に立っているらしい。命は横を向いたまま、未だにブツブツなにやら呟いている立葵に少しだけ感謝した。

「楽しそうで何よりだわ」

金木犀の香りが、背後の風穴から吹き込んでくる。
秋の訪れを知らせる香り――。
嗅覚でその甘い香りを感じながら、命は掌にじんわりと汗が滲むのを感じた。
立葵も、命の横へと並び、背中の毛を逆立て、常人なら竦みあがってしまいそうな唸り声をあげて威嚇をしている。
――命と立葵の目の前には、花柳こころの身体に憑依した邪魅が悠然と立っていた。
「――命」
「はい?」
立葵が、初めて命の名前を呼ぶ。
命は驚いて一瞬立葵の横顔を垣間見た。
『柘榴のあの態度は、心を許した者にしかしない。お前は相当信頼されているようだ――悪く思わないでやってくれ』
「――! はい」
邪魅の放った邪気が廊下を渡り、凄まじい圧迫感を伴って押し寄せてくる。邪気が近づく度に身体が重くなり、命の表情が歪んでいく。

未熟者。命はそう言われ続けてきた。
自分でもそう思う。――半人前。
どうすれば、この力を制御できるのか、誰も教えてはくれなかった。
家族は蔑んだ視線と態度を取り、友はヒトならざる者ばかり。それが、命の日常。
そんな暗闇に、一筋差した光明が、柘榴だった。
半人前だと、どこの事務所にも断られた命を、受け入れてくれた唯一の人――。
その人に、信頼されている……。
生きることを実感する。それは他人に信頼され、必要とされること――。
命はそれを欲して、人を助ける仕事を選んだ。
命の瞳の金色の虹彩が、一際鮮やかに輝く。さっき札を消された時、またカラーコンタクトはどこかへ飛んでしまった。
生気に溢れた命の声が、廊下に響く。

「頑張るしか、ないよな――!」

命の手から、青く発炎した札が放たれる。札は勢いを失うことなく邪魅にぶつかった。
浄化の炎は、花柳の体内(なか)に憑りついた邪魅だけにダメージを伝える。簡単には消えない青い炎は悪しき心を持つ者に容赦しない。
邪魅の苦悶の絶叫が、花柳の唇から迸った。
『集中すれば、お前もこれくらいできるのか』
「緊張しなければ、ね……これくらいなら」
『しかし、まだ未完成のようだな――』
「――!」
炎が勢いを失くして、札が邪魅の足もとに落ちる。
呆気なく、邪魅を苦しめていた炎は鎮火された。邪魅が歪んだ唇に嘲笑を浮かべる。
――しかし、邪魅の顔は再び苦痛に沈む。
邪魅の背後――廊下の途中に、唐突にぽっかりとブラックホールのような漆黒の空間が現れる。最初は拳くらいの大きさだったが、段々とそれは大きさを広げ、やがては大人一人分の大きさとなった。
その空間から、数珠玉のようなものが五つ、邪魅に投げつけられた。瞬間、邪魅は怒りに吼える。
邪魅の周りをぐるぐる回り、透明な玉は徐々に結界を形成していく。電撃のような光を発して、お互いを繋ぎ、回り、力を増幅していく。邪魅は成す術もなくもがき苦しみ、闇雲に結界に突進しては弾き返された。
『あれは、水晶だ。法具の類で、結界を作るのに適している――柘榴の十八番(おはこ)だ』
「やっぱり……」
随分と派手な登場の仕方だ。
命は真っ暗な空間から、ぬっと柘榴の左腕が出てきたのを見守りながら、嘆息した。
左腕、右腕――上半身が先に出て、最後に下半身が完全に廊下へと姿を現した。
「ごめん、ごめーん。命くん、無事?」
鴻上柘榴は、にこやかにそう言って笑った。



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