窓辺の男 ※某大学の英文過去問パロディです ※病気です死ネタです ※言葉だけですが木吉が既婚です 俺たちは重い、重い病気を患っていた。 俺は一人では起きることもままならず、自力で出来る事と言ったら首を左右に動かすこととゆっくり息をする事。目を閉じる事。短く切った言葉を話すこと。 空気が合わなかったのかもしれない。食が悪かったのかもしれない。それとも単に自分の体が弱かっただけなのか。年は二十を少し過ぎた頃。治る気のないような病が俺の生活の中心になった。あれよあれよと体の自由はなくなり、季節が一つ回った時には今のような、病室以外残されていない状態だった。 後悔といえば碌に遊びもせず、女も知らずに死んでいくことだろうか。それから老いた両親をおいて先に逝くこと、それも時間と金をかけてだ。早々に死んでしまいたいと、思っていた。 もう一人の男はこの病院に来たばかりで、空いていた窓際のベットを宛がわれた、俺と同じ年の青年だった。キヨシという名前で、どんな字を書くのか聞けば「驚き桃の木山椒の木の木に、思い立ったが吉日の吉だ」病人にしてはやけに精のある声でそう言った。それから俺はこいつが嫌いだと、特に根拠もなく思った。 なんでも肺の病気だそうで、奴は俺と違い体を起こすことができたしそれを許されていた。とはいえ肺に溜まった水を抜くために一日一時間。時間の感覚なんてどこかへやってしまった俺だったが、この一時間が生きがいになるのにそう時間はかからなかった。まったく癪であると、少しも思はない事はない。 「今日は雲一つない晴天だぞ、日向。ベンチに男と女がいる。デエトだろうか」 「だろうな」 「他にはな、池を泳ぐ鴨が見える。親子だ。小さいのが何羽かくっついていて愛らしい」 「水の中じゃ必死に、足をばたつかせてる。可愛げなんて、あったもんじゃないだろうな」 「お前は俺より多くを見てるなあ」 「厭味か」 「そんなわけないだろう」 きっかり一時間、木吉はよく喋る男だった。窓辺のベッドで体を起こして、目線ぎりぎりの窓から見える出来事を一つ一つ描写するのだ。 初めは鬱陶しいと思った。なんて厭味な奴なんだとも思った(俺には厭味としか思えない天然だということが、少しした後にわかった)。俺の手どころか目も届かない世界を楽しそうに話す。一時間経つと看護婦に支えられながら体を倒す。経験したことはないが、雨漏りのシミぐらいしか見るもののない景色に戻されるというのはなかなかに絶望出来るものだと思った。 窓は俺に何かを与えたりはしない。あたたかな陽光さえも俺には施さなかったが、木吉は俺に言葉をくれた。 看護師と検温と二度の食事、排泄、睡眠。おちかたの両親に文を書くことすらままならず、忙(せわ)しい看護婦に話すような種もなく。廃れていった俺の言葉は木吉の言葉で掬われた。どんなにどんなに嬉しいことか、この能天気に話そうとは思わなかった。ただそれが、空気を伝って自然、届いていればいいなあと、それだけだった。 「見ろ、学生が歌ってる。詰襟だ、懐かしい」 俺は耳もイッてしまったらしい、遠くの歌なんてちっとも聞こえなかった。 木吉の声が遠のく日が来るのかもしれない。それが一番怖かった。 その日起き上がった木吉は、口を開こうとしなかった。俺は痺れを切らす。はやく俺を生かしてくれよ。俺はお前の言葉でもって養われてるんだぁぜ。なあ、木吉。 「今日は何が見えるんだ」 「日向」 「今日は何が、見えるんだ、木吉」 「…そうだなあ、俺の目は幸せな目だ。だから俺には幸せが見える」 「…」 「ああ、もう一度、嫁さんの顔が見てえ。俺の目は幸せな目なんだ。もう一度、もう一度なあ」 「…なんだ、お前みたいのに嫁いでくれる女もいるんだなあ」 「ああ、俺は少し疲れたなあ。休ませてもらうぞ、日向。嫁さんが待ってる」 それから木吉は口を閉ざした。もう一時間が過ぎたのか、看護婦が木吉を倒してしまう。また明日なあ、木吉。 明日、明日、明日は俺には来なかった。 俺には来なかったし木吉にも来なかった。 俺がぐっすり眠った間に木吉はあっさりと向こうに連れて行かれてしまった。木吉の言葉がない俺は死んだのと変わらない。俺の頭は木吉の言葉が育てだのだ。日のさす景色、動物の親子、朗らかな人の交わり。あっという間に色褪せた。俺は遂に終わりだ。 最後に窓の外を、木吉の世界を見せてくれ。 ここで無理をしようとも、俺の身体にはあまり関係のないことだった。 木吉のシーツの世話をする看護婦の手を止め、俺の願いを伝えた。 薄っすらと泣いているような看護婦はまだ十八かそこらの娘だった。もうすぐまた泣かせてしまうだろう。それでも謝る言葉は俺の中にはなかった。 「窓の外がみたいんだ。起きるのを手伝ってくれ」 やがて俺に見えたのは一面の灰色の壁だった。 公園も池もデエトの二人も学生も、俺には何も見えなかった。 どういうことだ。 茫然。 木吉の声が黄泉がえる。 あんなに楽しそうな声が俺の体内を駆け巡る。 どういうことだ。 お前に見えて俺に見えない世界は、幸福そのものだっていうのか。 体から力の抜けた俺は、しかし倒れることはなかった。視線を窓の外から動かすことすらできなかった。 看護婦は訥々と語る。 木吉が盲目であったと語る。 そんなことがあるか、木吉には見えていた、幸せな目なんだ、幸せが見えていたんだ。 幸福をくれたんだ。 木吉の言葉が俺を生かしたんだ。 俺は木吉の残した灰の現実に殺されたんだ。 なあ、俺の生死はお前のものだよ。 だけど嫁さんとの逢瀬を邪魔したくはないなあ。 141108 |