スラッピング・ラヴァー 前
※バンドパロ
唇から喉へと流れ込む空気が、熱い。
むせ返るような熱狂の渦を抜け出した静雄は、バックヤードへと続く廊下によろよろとへたり込んだ。
長いこと轟音に晒され続けた耳の奥で、小さな耳鳴りが弾ける。じんじん、しゅわしゅわ。
フロアにひしめく観客からの声援とハウリングを続けるギターの残響音。
それらから開放された安堵感と、体の内側にのたうつ熱を吐き出したことによる虚脱感。
まるでセックスの後のような心地よい疲労が、火照った体をゆるやかに飲み込んでいく。
冷たいコンクリートの壁に背中を預けて、頭から被ったタオルで絶え間なく湧き出る汗を拭った。


「お疲れさん」
タオル越しにこつり、頭を小突かれる。
酸欠気味の頭をゆっくりと持ち上げると、汗だくの門田がドラムスティックを片手に佇んでいた。額や首筋に流れる汗の粒がひどく様になる。
まるでスポーツ選手のような爽やかさが、静雄にはまぶしく感じられた。ほとんど空に近いミネラルウィーターのペットボトルを一息に煽り、門田は静雄の隣にどかりと腰を下ろした。
「お前、今日は捌けんの早かったな」
「あぁ……」
アンコールラストの一曲を終えて最後の一音を弾いた瞬間、ステージにベースを転がして早々に舞台袖に逃げ込んだ。他のメンバーは皆、手持ちのピックやタオルなどを客席に放り込んで、ライブ空間を共有したファン達のためにささやかなサービスを行っている。
本来であれば静雄もバンドの一員として、なれない笑顔をもってその輪の中に入っていくのだが、今日ばかりはそんな気分にもなれそうになかった。

花道の端っこでせり出した二階席の観客に手を振っている新羅の背中に臨也が勢いよくタックルをかましたことで、客席の至るところから歓声とも奇声ともとれぬ悲鳴が沸き起こる。舞台上でじゃれあうメンバーの姿を見て、喜ぶ女性客は少なくない。それがどういった心理からくるものなのか、実のところ静雄にはよく分からないのだけれど。曰く「それ」目当てに足しげくライブハウスに通いつめる者もいる程なのだそうだ。
臨也はそんな一部の客の心理を理解した上で、わざとらしく他のメンバーにじゃれついてみせる。大概はそっけなくあしらわれて終わるのだが、気まぐれに悪乗りして際どい絡みを演じる新羅に、門田と静雄は辟易としていた。
「そろそろ、このハコも限界かもしれねぇなあ」
もう何年も慣れ親しんだライブハウスの裏通路をぐるりと見渡しながら、門田が感慨深げに呟いた。
インディーズレーベルで活動していたうちは、集客数の少ないライブハウスでもさして問題はなかった。しかし、正式にメジャーデビューが決まり、めきめきと動員数の増え始めた昨今は、そうのんびりと構えているわけにもいかない。
500人集客できるかできないかといったこの会場では、観客席のセキュリティ面にもいささか不安が残る。実際、モッシュやダイブに巻き込まれて怪我をしたなどという報告も増えつつあるようで、イベンター側からもやんわりと注意を促されていた。
「俺はここ、結構好きだったんだけどな」
好き勝手に落書きの施された壁を指先でなぞりながら、静雄は小さな声で呟いた。
バンド結成当初、真新しい制服がしっくりと身体に馴染むよりも前から、このハウスには通い続けている。
決して広いわけでもなく、音響が良いわけでも、設備が充実しているわけでもない。ステージの床板はところどころ沈み込むほど痛んでいるし、照明器具のいくつかは傘が割れて中の電球がむき出しになっていた。
楽屋も、狭くて汚い。おまけにヤニの匂いが染み付いていて、お世辞にも清潔とは言えないような有様だ。
それでも、静雄はここが好きだった。
短くはないバンド活動の中で多くの時間を共有した場所であり、思い出も辛酸もたくさん詰まっている。
住み慣れた部屋を手放すようなもの寂しさが、胸の片隅をちくりと刺す。それを振り払うように、タオルで顔を拭った。


「あ、いたいた!」
公演終了のアナウンスが流れ始めると、撤収作業に走り回るスタッフの間を縫って新羅が捌けてきた。
頭からTシャツまで濡れ鼠状態で、アンコール前に履き変えたばかりのジーンズも濃い青へと色を変えている。
「……はぁ、酷いめにあった」
おもむろに眼鏡を外すと、彼はどしゃぶりの雨に降られた小犬のようにぷるぷると頭を振るった。汗交じりの飛沫が宙を舞い、打ちっぱなしのコンクリートの壁やフローリングにぱらぱらと飛び散る。
門田は露骨に顔をしかめて、頭上から降りかかる雫を手のひらでブロックした。
「岸谷、お前なんでそんなビチャビチャなんだよ」
新羅が一歩踏み出すたびに、スニーカーの中に溜まった水がガボガボと妙な音をたてた。
静雄は思い出したように首にかけていたタオルを投げて渡してやる。器用に空中でタオルをキャッチすると、彼はまるで居酒屋のサラリーマンのような仕草で、豪快に顔全体を拭い始めた。
「臨也にバケツで水ぶっかけられたんだよ」
タオル地ごしのくぐもった声に、静雄は「あぁ」と何事かに納得した様子で頷く。
「そういや、アンコール前に何か仕込んでやがったな、あのノミ蟲野郎」
「何?静雄くん気づいてたの?!止めさせてよ!おかげでマイクが一本ダメになったじゃない!」
「俺が言って聞くかよ」
顔中を綺麗さっぱり拭き終えた新羅は、最後に水滴まみれの眼鏡のレンズをやさしくタオルで包み込んだ。
「水で良かったじゃねえか。俺なんかバケツいっぱいのローション食らったことあるぞ」
「うわぁ……」
さすがにそれは笑えない。
見事にユニゾンした静雄と新羅は、がくりと肩を落とす門田へ憐憫の目を向けた。
「おっつかれー」
タイミング良く――というのか定かではないが、門田の深い深い溜息に重なるように、今まさに噂の渦中にいた男が足取りも軽く廊下の向こう側からやってきた。夏場でもろくに汗をかかない不健康そうな白い肌にも、今は汗が玉となって浮かび上がっている。
「何、皆してこんな所に集まっちゃって」
真新しい真っ白なTシャツの胸の部分をつまみ、はたはたと風送り込みながら、臨也は首筋に浮かんだ汗をシャツの襟ぐりでぬぐった。
販促の意味も兼ねて、二度目のアンコールは決まってメンバー全員がツアーTシャツに着替えることになっている。今回は色違いの同デザインが二種。フロント組の新羅と臨也が白地、リズム隊の門田と自分が黒地のものを着ていた。
何の飾り気もない白いTシャツを身に纏っただけでも、どこぞの洗濯洗剤のCMに出演しないかというオファーが届く程度に、臨也はなんでもそつなく着こなしてしまう。
「ミーティングなら楽屋でやろうよ。ここ、クーラー効いてないじゃない」
「え、今日もミーティングするのかい?」
「打ち上げはどうすんだよ」
「30分ぐらいで終わらせて合流するって、マネージャーにはOKもらってるよ」
早く帰りたいと言わんばかりの新羅と、他のスタッフを気遣う門田を軽くあしらい、のろのろと楽屋へと戻る二人の背中を見送りながら、臨也は未だ廊下の隅にしゃがみ込んだままの静雄へと向き直った。
「言い訳は楽屋で聞いてあげるからさ」
至って爽やかな表情とは裏腹に、その声にはいくらかの苛立ちが含まれていた。






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