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writer:たぬ子
a plot:ゆうこ








ぶつり、と一瞬だけ意識が途切れた気がした。
深い眠りから這い出すように、重たく垂れる瞼を持ち上げる。目の前に広がった文字通りの惨状に眉を潜め、ふと辺りを見渡した。大きく抉り取られたビルの外壁、そこかしこに転がる自販機やその中身。まるで戦車かブルドーザが通った後のように、何もかもがいびつに歪んでいる。
「お、おい……お前…、」
声につられるように目の前に佇む男の顔を見上げ、俺は慌てて身体を起こした。反射的に力を込めた両足が、膝から崩れ落ちる。ぐらりと大きく傾いた身体を見下ろして、俺はようやくこの状況に合点がいった。
「……ッつ、」
右の脇腹から真っ白なポールが生えている。おやおや、と首を振って頭上を擡げると、ぐにゃりとひしゃげた「一方通行」のプレートがこちらを見下ろしていた。
シズちゃんが槍投げよろしく放った標識は、間一髪のところで避けそこねた俺のわき腹を見事に貫通していた。
幸いなことに、内臓や骨に異常はなさそうだ。血まみれのポールに手をかけ、ゆっくりと引き抜いていく。肉が引きつれる感触に顔をしかめながら、どうにか抜き取ったそれを地面に転がして、俺は壁に背中をついた。
あふれ出した血が下肢を伝ってアスファルトを赤黒く染めていく。ああ、もったいない。最近はまともな食事すら採っていないというのに、こんなに無駄に血を流してしまうなんて。本当に、シズちゃんと出くわすとろくなことがない。
とりとめもなくそんな事を考えていた俺の身体が、ふいに宙に浮いた。ぐるりと反転した視界に目を白黒させていると、土ぼこりに汚れた金髪が目に留まる。
「……っちょっと、」
「うるせえ、黙って腹押さえてろ」
腹の傷に触れないようにか、いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる横抱きの状態で俺を持ち上げた怪物は、そのまま来た道を戻り始めた。アスファルトに転々と染みを作る自らの血をぼんやりと眺めながら、言われた通りにジャケットの上から腹を押さえる。
「一丁前に責任でも感じてるの?安心しなよ、こんな事じゃ死なない」
「……てめぇは医者じゃねえだろ。新羅んとこ連れてってやるから、それまで大人しくしてろ」
「医者?俺を?……はは、シズちゃんどうかしてるね」
焼け付くような痛みと熱。普通の人間なら意識を保つことは出来ないのだろうな、と考えて急激に虚しさがこみあげた。
背中を支えるシズちゃんの腕は、服越しにもほんのりと暖かい。生きた人間の証。化け物じみたその身体の中には、ちゃんと暖かな血が通っている。俺がこうして彼のぬくもりを感じ取っているということは、逆もまたしかり。馬鹿で単細胞なシズちゃんも気づいているはずだ。自らの腕の中の身体が何の温度も持ち合わせていないことを。腕を濡らす赤色の冷たさを。――俺が人間ではないということを。
「俺のこと殺したかったんだろ?じゃあ、そのまま放っておけばいい。自分の手で傷つけて自分の手で医者に運ぶとか、意味が分からないんだけど」
苛立ちに任せて一息にまくしたてると、彼はまっすぐに前を向いたままぽつりと呟いた。
「……俺はてめぇのことが大っきらいだからよ。死にたがってるなら、簡単に死なせてなんかやらねぇ」
予想外の言葉に目を丸め、思わず小さく笑った。
肩を震わせて笑う俺を見て、シズちゃんも少しだけ口元を緩めたような気がした。

◆ 

「やあ、お待たせ」
奥の部屋から戻ってきた新羅はいつもと変わらない調子でそう言うと、ソファに深く腰を下ろした。
後を追うようにキッチンから戻ってきたセルティの片手には、ぴかぴかに磨き上げられたトレイが乗せられている。揃いのカップをテーブルの上に並べながら、彼女は新羅の隣にちょこんと腰かけた。
この二人のいつものやりとりなのか、セルティの淹れた紅茶の素晴らしさについて得々と語りだした新羅の口元を影で覆うと、セルティが片手で打ち込んだPDAを俺に向けた。
『すまない』とそっけなく表示された文字列にひとつ苦笑を返し、ソファの上で身悶える新羅へと向き直る。
「臨也は?」
「……っぷは!い、臨也なら奥の部屋で今は眠っているよ。まあ、傷自体はさほど深刻ではないね」
影から開放された新羅は、そう言うと何事も無かったかのようにカップを手に取った。
「縫い合わせる必要もないぐらいに回復していたし、処置が早かったおかげか失血もそう酷くはない。彼の場合、輸血ができないから今は少し貧血気味だろうけどね」
「……輸血ができねぇって…なんでだ」
素朴な疑問を投げかけたつもりが、新羅は複雑そうな面持ちで傍らのセルティと顔を見合わせた(彼女には首がないので、本来顔があるべき場所を見た、といった方が正確だろうか)
「うーん、説明するのが難しいんだけど……」
そもそも俺がこれを言っちゃっていいのかなぁ?だとか何だとかゴチャゴチャと言いよどむ男に、睨みをきかせる。俺の苛立ちを悟ったのか、傍らのセルティが何やらPDFに文字を打ち込み始めた。
「あいつの怪我、普通なら無事じゃすまねぇだろ」
不本意ながら、昔から争い事には慣れている。自分の力が人を傷つける類のものであることは理解しているし、どれほどの力を持ってそいつを振るえば相手がどんな傷を追うのかも今の俺にはなんとなく分かる。だからこそ、臨也に向けたあの攻撃はただの威嚇のつもりだった。いつも通り、あいつが避けることを想定した上で放った一撃だったのだ。
けれど、あいつはあえてそれを避けなかった。細い身体を刺し貫いた標識を見て、俺は身体の芯がすう、と冷えるのを感じた。
「少なくとも、すぐに動けるような傷じゃなかったはずだ。……なのに、あいつは立ち上がった」
立ち上がって、あろうことか自らの手で太いパイプを引き抜いた。涼しげな表情を浮かべる顔は青白く、その眼差しはぞっとするほど冷たかった。
――普通ではない。とっさにそう直感した。大嫌いなあいつの言葉を借りるならば、そう――。
「静雄は、吸血鬼って知ってるかい?」
「……は?」
しばらく何事かを言いよどんだ新羅が、思い切ったようにそう切り出した。
「吸血鬼。ヴァンパイア。血を吸う化け物のことだよ」
「いや……そんぐらいは知ってる」
「そう。じゃあ、臨也が吸血鬼だって言ったら、君は信じるかい?」
「はぁ?!」
思わず口をついて飛び出した素っ頓狂な声に、セルティが肩を竦ませ――俺の目と鼻の先にPDFを突きつけた。
『だいぶ薄まってはいるが、臨也の家系には人ならざるものの血が混ざっている』
俺の目線の動きを読み取った彼女は、影を使って素早く文字を追加していく。
『こんな風に何世代も後の人間に影響が出る事例はまれだが……先祖がえり、とでも呼ぶべきかな。あいつの身体は、人のそれとはまるで違う』
「……だから、あの状況で死ななかったって言うのか」
『そうだ。ヴァンパイアは、生ける屍とも呼ばれる。身体自体、もはや死体と同じようなものだ』
生きた死体。
そう付け加え、セルティは一度すべての文字を消去した。
「例え心臓を潰しても、たとえ身体中の骨をこなごなに砕いたとしても、あいつは死なない。
臨也から聞いた話だと、体年齢は二十歳前後でとまっているようだし、セルティと同じく永久に老いることも死ぬこともないのだろうね」
今まで臨也が俺に向けて放った言葉が、ふいに脳裏をよぎる。化け物、と。あいつはどんな思いでその言葉を俺に浴びせていたのだろうか。
『静雄……、平気か?』
恐らく彼女に首から上の顔が存在していたのなら、ひどく困惑した表情を浮かべていたに違いない。
俺は小さく笑ってその問いを受け流すと、新羅のマンションを後にした。



あれは、小学校に上がる直前の夏だった。
ベッドに横になった俺の顔を覗き込んだ母親が、声ならぬ声で悲鳴を上げた。まるで恐ろしいものでも目の当たりにしたように震える母は、子供部屋を飛び出すとどこかへ電話をかけていた。
当時は状況が飲み込めずにぼんやりとその様を眺めていたが、恐らくは海外に居る父の所に連絡を図っていたのだと思う。
次の日、日が昇るのを待たずに俺は母親に連れられて家を出た。そこから先のことはひどく記憶があいまいだが、日本を飛び出してロシアの山奥へと連れて行かれていたらしい。父の赴任先に出かけることで海外には慣れていたが、俺の手を引く母の様子がどこか緊張にまみれていたため、俺もひどく気疲れをしたものだ。
空港からバスを乗り継いで大きな街を抜け、山道へと入る。途中で何度か乗り継ぎを繰り返すたびに、バスの規模は小さく、そして山道は険しくなっていった。
『ねえママ、ぼくたちはどこへ向かっているの?』
延々と緑に囲まれた景色に飽きた俺は、隣でじっと身を固めている母にそう問いかけた。
彼女はひどくやつれた顔で、けれど精一杯の笑みを浮かべながら「遠縁」の叔母に会いに行くのだというようなことを、子供向けに噛み砕いて説明してくれた。

最後のバスを降りてさらに山の奥へ向かうと、そこには絵本に登場するような古びた城がそびえ立っていた。後にも先にも俺がその場所を訪れたのはこの一度きりなので、記憶はひどく曖昧だ。もしかしたら少し大きめの洋館のようなものだったのかもしれない。当時まだ幼かった俺は、まるで童話の登場人物になったようで少しわくわくしたものだ。
古びた建物の中には使用人が数人と、母と同じくらいの年嵩の女が一人住んでいた。白い肌と白い髪に、血のように赤い眼をした美しい女主は、俺の顔を見るとやさしい笑みを浮かべた。
母は女に向かって「お願いします」とだけ告げると、俺の頭をひとつ撫でて部屋を後にした。
赤い絨毯の敷き詰められた部屋の中、ぼんやりと蝋燭の光に照らし出された女の顔が妙に印象的だったのをよく覚えている。
『はじめまして、イザヤ』
『……はじめまして』
彼女はゆっくりと身を屈めると、俺の前髪を柔らかく掻き分けた。
思えば、この時すでに俺の瞳も女と大差ない色を帯びていたに違いない。そのことに思い至ったのはもっと年を重ねてからのことだった。当時の俺は、大粒のルビーをはめ込んだような瞳から目を離すことが出来ず、その両目をじっと見つめながら訊ねた。
『おばさんは、病気なの?』
『どうして?』
『だって、目があかいよ。それにかみの毛はまっしろだ』
あけすけな子供の物言いにも動じず、女は軽やかに笑った。
『いいえ。私は病気ではないの』
『じゃあ、どうして?』
『人間じゃないから』
小さく首をかしげた俺の頬を撫でる手は氷のように冷たかったが、不思議と怖いとは感じなかった。
女は自分が吸血鬼と呼ばれる存在であること、人とはまるで違う生き物であることを告げた上で、さらにこう続けた。
『ねえ、イザヤ。あなたは人間が好き?人間としての暮らしが楽しい?』
『うん。たのしいよ!』
『そう……。羨ましいわ。でも、忘れないで』
寂しげに伏せられた両目に薄く涙を溜め、女は言った。
『その幸せは、きっと長く続かない。人の一生は短いもの。あなたの愛した人たちも、いずれはあなたを置いて居なくなってしまう』
『……え?』
『いつかきっと、そうなるわ。だから、一人ぼっちで耐えられなくなったら、私のところへいらっしゃい』

* * *

「……ん、」
目が覚めると、すでに日は高く上っていた。カーテンの隙間から漏れるオレンジ色の光に目を細め、ベッドに身体を起こす。じりじりと肌を焼く日光から逃れるように厚手のカーテンを引き、大きく伸びをした。
久しぶりによく眠った気がする。ベッドサイドにぽつんと置かれていた携帯を確認すると、シズちゃんとの追いかけっこから丸二日経っているようだった。
血まみれのシャツの代わりに着せ付けられていた薄いブルーのパジャマをめくりあげ、腹の傷を確認する。わずかに傷跡は残っているが、すっかり綺麗に癒着した皮膚を撫でつけ、小さなため息を吐いた。

ほんの少しだけ、期待していなかったと言ったら嘘になる。
傷口から流れ出した血でアスファルトが赤く染まっていく光景だとか、意識が遠のいていく感覚だとか。そんな物に心底憧れを抱いているなんて、我ながら実に馬鹿げているとは思うのだけれど。
あの瞬間、俺は心のどこかで望んでいた。自らを終わらせる、その瞬間を。彼の手によってこの生が幕引きを迎えることを。
俺が事切れる様を目の当たりにしたシズちゃんの表情はさぞ滑稽だろう。自責の念に涙を浮かべるだろうか。それとも、忌々しい天敵を屠ったことを誇って笑うのだろうか。きっと彼がどんな表情を浮かべたところで、俺は笑っただろう。
「化け物……か」
少しだけ窪んだ傷跡に指を這わせ――爪の先で軽く抉ってみる。
たとえこのまま腹を割いて内臓を引きずり出したところで、心臓を握り潰したとしても。きっと俺が死ぬことはない。
人を愛し、人に紛れて生き続けることで、いつしか自分も本物の人になれるのでは、と。そんな淡い期待を抱きながら過ごしてきたこの十数年は、見事に砕け散ってしまった。
幼いころに瞳の色が変わった時から。大人になって、身体の機能がことごとく停止していった時から。俺は俺自身を殺す手立てをずっと探し続けてきた。
普通の人間のように朽ち果てることは敵わないと知り、ならば、と十字架やにんにくなどの吸血鬼と呼ばれる存在の弱点を試してみたこともある。結果は全てからぶりに終った。
「シズちゃんなら、俺を殺せると思ってたのになぁ……」
漠然と、自分は死ぬことができないのではないかと考えてはいた。
人間でありながら、人の条理を越えた存在。彼は、俺の唯一の希望だった。人としても化け物としても半端物な俺が朽ちることができるのならば、それはきっと彼の手にかかる時なのだと。そう思っていたのに。
尖った犬歯を指先でなぞり、ぽつりと呟く。
「本当に中途半端なんだから」
それは、シズちゃんに対しての言葉なのか、自分自身へと向けたそれなのか。俺自身にもよく分からなかった。



仕事を終え、上司と別れた俺は一人家路を急ぐ。毒々しいネオンの光を眺めながら、歩き慣れた繁華街をゆっくりと抜けた。
「……静かだな」
誰に言うでもなく、呟いた。
街の喧騒は相変わらずだ。そこかしこで酔っ払いがくだを巻く様も、ゲームセンターやパチンコのけたたましいBGMもいつもの通り。池袋の街はこんなにも賑やかなのに、俺の耳には何一つ音が入ってこない。色とりどりの風景は霞み、まるで街そのものが死に絶えているように感じられた。サンシャイン通りも、飲み屋でひしめく裏路地も、何もかもがいつも通りなのに、何かが違う。何かが足りない。
「くそっ……」
来た道を振り返り、俺は走り出した。


前に一度壊しかけたオートロックを今度こそぶち壊して、ビルの中へと足を踏み入れる。
インターホンを鳴らすなんてまどろっこしい真似はせず、迷わずドアを蹴破って目当ての部屋の中へと進入した。鼻先を掠める大嫌いな男の匂いが、少しだけ強くなる。標的の男が中にいることを確信した俺は、ポケットに手を突っ込んだまま細長い廊下を進んでいった。
「よぉ、久しぶりだなぁ」
薄暗い部屋の中をぐるりと見渡すと、ガランと広い空間に一際存在を主張するデスクの椅子が音もなく揺れた。
相手の返答を待たずに、ゆっくりと歩み寄る。
「どっかのノミ蟲野郎が現れなくなったおけげで、妙に静かで気持ちわりぃ」
「ずいぶんと勝手な言い分だね」
一歩、二歩。
近づくたび、暗闇に慣れた目はその姿をはっきりと視界に映し出した。いつもとなに一つ変わらない、涼し気な表情。すらりと鼻筋の通った面立ちに、窓から差し込む月明かりを反射して爛々と輝く血色の瞳。
「池袋に近づくなって言ってたのは君の方だろう?お望み通り、天敵が現れなくなったっていうのに、何がご不満なのかな?」
相変わらず人を小馬鹿にしたような口調に、思わず舌打ちを返す。
「この間は息の根を止め損ねたからな。きっちり殺しに来てやったんだよ」
「は……。自分で介抱しておいてよく言うよ」
デスクを挟んで向かいに腰を落ち着けた男の白い首に右手をかける。このまま力を込めて握りつぶせば、簡単にへし折れそうな華奢な首筋。しかし、その肌はやはり何の温度も感じさせなかった。
闇夜に赤く光る両目を細めて、臨也は冷たい声で吐き捨てた。
「第一、君に俺は殺せない」
やんわりと俺の腕を振り払い椅子をくるりと半回転させて立ち上がると、奴は更にこう続けた。
「新羅から聞いたんだろう?俺が人間じゃないってことをさ。シズちゃんだって実感したはずだ」
血に塗れた白い肌と、新羅の言葉がぼんやりと脳裏に浮かんだ。ヴァンパイア、吸血鬼、不死の肉体――。
「残念ながら、俺の身体は俺自身にも殺し方が分からない。君なら俺を殺せるんじゃないかって思っていたけれど、どうやらそいつも買い被りだったみたいだ」
「俺は本物の怪物だからね」と。そこまで一気にまくしたてると、臨也はまっすぐに俺を見上げて笑った。言葉を知らない俺に適切な表現は出来ないけれど、それは俺が今まで見てきた折原臨也の表情とは違っていたように思う。
怪物だとのたまった臨也の表情は、今まで見てきたどの表情よりも人間らしかった。
「……なんて顔してるのさ」
自分は今、どんな顔をしているというのだろうか。くく、とくぐもった声で笑うと、臨也は俺の頬をつめたい指先で撫でた。その無機質な肌の感触と、唇の端から覗く尖った犬歯。俺の頭の中に「ああ、こいつは人間じゃないんだ」という今さらな実感が過ぎる。
非常に不本意ながらも十年近く間近に居た人間だからだろうか。それとも、こいつの表情が、仕草が、人間そのものだからだろうか。不思議と、怖いだとか気持ち悪いだとかいう感情は沸かなかった。
ぞっとするほど白い肌の中、薄桃色に色づいた唇がやおら何事かを呟き――そのまま俺の唇へと重ねられた。
「……これだから、俺は君のことが大嫌いなんだよ」
一瞬だけ触れ合った唇はすぐさま離れ、臨也はそのまま俺の身体を突き飛ばした。
「君から同情される日が来るなんて、俺にとっては屈辱以外のなにものでもないよ」
「……て、めぇ。何ッ――」
思い出したように唇を拭う様を見て、臨也は小さく笑みを浮かべた。
「安心しなよ。もう池袋には二度と行かないから」
「あぁ?」
「だからシズちゃんも、もう俺に干渉しないで。君と傷を舐めあうつもりはないよ」
「……何が言いたいんだよ、てめぇは」
「ただの人間のくせに、俺に同調した気になるなんておこがましい、って言ってるの」
心なしか少しだけ震えた声でそう言うと、臨也はふいと顔を背けた。ガラス越しの夜景をぼんやりと眺めるその背中は、俺に「帰れ」と言っているように思えた。
今まで散々「化け物」と罵ったその口で、俺を「人間のくせに」と罵る男の理不尽さに呆れつつ、ふと考える。
年をとることもなく、永遠に死ぬこともない。親しかった人間が皆死に絶えた世界で、こいつは永遠に自分を殺す術を探しながら生きていくのだろうか、と。死ぬことを目標に生きるなんて、そんな馬鹿らしいことがあってたまるか。ああ、考えれば考えるほどイライラする。
「お前、吸血鬼なんだよな」
低く凄むような声音で呟くと、臨也が肩越しに振り返った。まだ何か用でもあるのか、と言いたげな視線を無視して、言葉を続ける。
「吸血鬼ってのは、血を吸った相手を同類にできるんだよな?」
「一般的にはそう言われているね」
「じゃあ、てめぇが俺の血を吸えば、俺もお前と同じ身体になるってことだよな?」
「はぁ?!」
調子っぱずれな声を上げた臨也が、勢いよく背後に向き直った。
「何……?シズちゃん、永遠の命が欲しいとか、そんなどっかの悪役みたいなこと言うつもり?」
「あぁ?別にそんなんじゃねえよ。てめぇだけ死なないなんて不公平だろうが」
きっちりと留めていたリボンタイを外し、シャツのボタンを適当にゆるめる。襟ぐりをぐい、と引き下げ、俺は臨也の目の前に自ら首筋を晒した。
「てめぇは俺が殺す。だから、お前より先に俺が死ぬわけにはいかねぇだろ」
呆然と立ち尽くしたままの臨也の腕を引き、抱きとめるようにして背中を抱え込んだ。
「ちょ、痛い痛い!背骨折れる!!」
「おーおー、折られたくなかったらさっさと吸いやがれ」
耳元でぎゃあぎゃあ騒ぐ男の背中をばしん、と一つ叩いて、歯を立てるように促すと、臨也は観念した様子で「どうなっても知らないからね」と溜息を吐いた。
首筋をなぞる舌の感覚に、びくりと肩が竦む。それに気をよくしたのか、蛇のように這いずり回っていた舌が、ゆっくりと首筋を伝って耳の裏側を撫で上げた。
「ッ……余計なことしてんな、馬鹿」
「ていうか、シズちゃんの肌硬くて歯が立たないんだけど。何これ、何でこんな硬いわけ?」
「知るか。つーか、俺の身体がこうなったのはてめぇのせいだろうが」
ちくちくと肌を刺す感触はあれど、痛みとは程遠い。お手上げとばかりに身体を離した臨也は、苦笑交じりに呟いた。
「あーあ、せっかくシズちゃんが生涯の伴侶になるって言ってくれたのに。残念」
「だれが生涯の伴侶だ。気持ち悪ぃこと言ってんじゃねえよ」
憂いめいた笑みには、しかし先ほどとは違いどこか晴れ晴れとした光が差しているように思えた。わずかに歯型の残された首筋を撫でながら、ふと口を開く。
「……なあ、お前のそれ。毒みたいなもんなのか」
「似ているけど、違うよ。どちらかというと、契約といった方が正しいかもね。血を与える、血を飲むってことで相互に繋がりが生まれるらしい。まあ、俺は実際に吸血したことはないし、あくまでも文献上での一般論だけど」
それがどうした、と言わんばかりの男の赤い瞳をじっと見据え――俺は自らの首筋に爪を立てた。
「……ちょっと、何してるの」
薄い肌を裂けば、その下から溢れ出した生ぬるい赤色が指先とシャツを淡く染めた。
肌が丈夫だからとはいえ、それなりの痛みは伴う。かすかに眉間に皺を寄せた俺の顔と、生々しい傷口とを行ったり来たりしていた男の目線の先に、血に染まった指先を差し出す。
「ちゃんと俺が殺してやるから、安心しろ」
薄い唇を紅を引くようになぞると、隙間から這い出した舌が指先へと絡みついた。
むせ返るような血の匂いに交じり合う臨也の匂いが、どこか心地よく感じられて――俺はまどろみに誘われるように、ゆっくりと瞼を降ろした。




0. THE FOOL



ゆうこさんからプロットを頂いて盛大にもだえ転がったものの、上手く活かし切れていない……ような…!!
男前な静雄と、なんだかんだ静雄に依存している臨也さんがたまりません。
タイトルはタロットの「愚者」です。静雄の行動が正位置となるか逆位置となるかは、二人の今後次第ということで。
色々と収めきれなかった部分がありますので、是非ともプロットの方もご覧くださいませ…!
ゆうこさん、素敵なプロット&小説を本当にありがとうございました!!

(2012.10.30)











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