……ああ、違う。
ちがう。これはちがう。これは現実じゃない!

ーーこれは、夢なのだ。
深い夜の闇に惑わされた、一時の幻想。
醒めれば全ては元に戻る。そう、これは非現実なのだ。

ちゃんと、母は生きているんだ。
この、夢の終わりで。



「……っ、は」



ふらふらと後退した足はまるで使い物にならないかのように力を失い、リノは体制を崩して入口に座り込んだ。
床のきしんだ音に、横たわったそれに気味の悪い音を立ててたかっていた奇声の主が振り返る。


あたたかいリビングの光とは、それはあまりに不釣り合いすぎた。
爬虫類のように鈍く光る緑の皮膚、大柄で醜い容姿。槍のようなかぎ爪に、頭をつら抜くふたつの銀の角。窪んだ皮膚に無理やり詰め込まれたかのような目玉は、はち切れそうなほどぎょろりと毒々しく眼を剥いている。切れ込みをいれたような口から覗くのは、鋭い湾曲の牙。

牙とその奥の涎だらけの口は、ぐちゃぐちゃと音を立てて赤い肉を引きちぎっていた。



「ひ……ッ!!!」



こちらを見据え、くちゃりとその大きな口を三日月に割いたバケモノを見た途端、リノは弾けたように立ち上がった。

上手く息ができず、リノの乾いた唇からヒューヒューと高い息が漏れる。それでも足は走りを止めずに、まるでそこだけが別人になったかのように前へ進む。
風を切る耳に、後ろから追ってくる不気味な叫びが通り過ぎる。ぞわりと体全ての肌が沸き立ち、身体から力が抜ける。
それでも、行先が決まっているかのように足は動く。走るのには向いていないローファーでいくら足が痛んでも、彼女の足は止まらない。




「っ……はあッ、……く、」



今までに出したことのないくらいの速さで、リノは夜の街灯の下を駆け抜けた。後ろから、鼻をつく悪臭と低く轟く唸り声が渦を巻いて追ってくる。

何かを考えられような精神状態ではなかった。
白く歪む脳は、もはや本能と身体の思うままに全てを放棄している。
ただ一つ、夢であることを望んで。






ーー幾つもの角を曲がった、その先。

リノが虚ろな視線で捉えたのは、何処か不気味な雰囲気を纏っている建物。おぼろげな景色の中で唯一その輪郭を鮮明に、その古い建物は佇んでいた。
建物を確認する暇もなく、リノの身体は古い木製のドアに近寄る。そしてベルも鳴らさず、片手で一気に扉を引き開けた。



ドアの向こうの白い光が目に差した途端、リノの視界は端からどんどんと黒く染まり始めた。
頭が限界を迎えたように、意識が溶けていく感触。
心地が良いような、不快なような浮遊感の中で、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。それに応えようと思っても、リノの身体は硬いベッドに沈んでいく。


ーー……ああ、そうだ。
ようやく、幻想夜が終わる。

次に目を覚ましたら、きっと朝の光が私を照らしている。そして、ドアの隙間からジャムとバターの香りが漂ってくるんだ。



掛け布団もない居心地の悪いベッドの上で、リノの意識は、安堵とともに飲まれていった。

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