「ただいまー」
午後三時。学校から帰ってきたリノが玄関の扉を開けた瞬間に、バターの香ばしい香りが漂ってくる。同時に、廊下の左のダイニングルームからぱたぱたと忙しない足音が響き、薄いブラウンの長髪を束ねた女性が現れる。
「リノ、おかえりなさ……」
フライを片手に駆け足で現れたリノの母ーーブラン・ツヴェートは、全てを言い終わる前に案の定、フローリングの床につまづいて転けてしまった。
「わわっ」という小さな叫び声と、割と鈍い音を立てた床に、リノは思わず目を瞑る。
「お、お母さん……大丈夫? 」
「いったぁ………ごめんなさいねリノ、大丈夫よ」
またやっちゃった、とブランは無邪気な笑みを浮かべて立ち上がった。白く柔らかな手のひらで、着ている薄緑のエプロンを払う。
見た目は立派な大人であるのに、中身はまるで少女のような女性。
それがリノの、大好きな母親であった。
×
「リノは本当、パンケーキ好きね」
「ははっへほいひいんはほん」
「こら、口にもの入れたまま話さないの」
リノに用意されていたおやつは、メープルシロップのたっぷりかかったパンケーキだった。
どこか抜けたところのある彼女だが、ブランの料理の腕はとても良い。そんな彼女の料理の中でも、手作りのパンケーキがリノのお気に入りなのだ。
口いっぱいにそれを頬張るリノの姿を見て、ブランは優しく微笑む。細まった彼女の瞳も、リノと同じ深い赤に染まっている。
この世界では、赤い瞳というのは滅多に見られない希少なものだった。青や黄色、緑など様々な髪の色、目の色を持った人間は大勢いるが、赤い目というのは何千人に一人の割合とまで言われるほど少ない。
リノとブランーーそして、リノの父親も赤い瞳を持っていたらしい、とリノは聞いたことがある。
リノは、父親の顔も名前も知らない。リノが生まれた頃から、彼は二人のそばにいなかった。
ブランに何度か話をせがんだが、いつも彼女は優しく笑って「駄目よ」と止めてしまう。その笑顔があまりにも悲しそうなものだから、リノはまたその話をせがむことは出来なかった。
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