稲妻(予備) | ナノ
ガゼルは広い花畑の中にいた。赤、オレンジ、ピンクと色とりどりの花、それに集まる蝶々に囲まれ、ガゼルは何をするでもなく立ち尽くしていた。
つん、と花の香が鼻をつく。甘すぎる香にくらくらしてその場に座り込んだ。ひらひらと飛ぶ蝶々がガゼルの肩にとまり、また飛んでいく。
その様子を見送って、ガゼルは雪原を思わせる白銀の髪をかきあげた。
わかっているのだ。此処は、此処は。
遠くから赤い声が聞こえる。どうやらガゼルの名前を呼んでいるようだ。気づきたくない、面倒臭い、見たくない。ガゼルはその声を無視した。しかしその声は段々と大きくなっていくばかりで、逃れることなどできやしなかった。
「…ル……ゼル」
「ガゼル!」
ぱっちん。
赤い声の主はバーン。こいつの声の所為で目が覚めた。
「飯だってよ」
「……ああ」
どうやら私はあのまま眠ってしまったらしい。もぞもぞとベッドから降り、部屋を出ようとしたところで立ち止まる。
「……あ、そか。耳な」
バーンが納得したように呟く。そう、耳、だ。「寝れば治る」と言ったものの、頭の上には相も変わらず二つの耳が確かに存在していた。これじゃあ食堂に行くに行けない。チームの皆からなんて言われるかなんて恐ろしくて考えることもしたくない。ゴールキーパーのジョンスは見た目と裏腹に意外にも優しいから何も言わないだろうが、もう一人のゴールキーパーのチナンはこちらも見た目とは裏腹に意外と性格が悪い。というか、なんだかんだ言って、一番性格が悪いのはチナンではないだろうか。あああ行きたくない。
「……おい、ガゼ」
「タオル被って行く」
バーンの言葉を途中で遮ってせめてもの強がりを言う。引き出しから少しだけ大きめのタオルを引っ張り出して、頭から被り顎の下で結んだ。
アフロディが忘れていったきらきらと装飾された鏡に、今の私の姿が映った。
―――なんて不様な。
うる、と涙が瞳を覆った。視界がぼやけて自分の姿が歪む。何故泣いているのかは解らない。解らないけれど、なにか悔しかったのだ。
ああこの耳は一生消えないのだろうか。もしもそうなら、もう皆の前に出ることはおろか、サッカーをすることにですら消極的になってしまうだろう。
「……」
「………おい、ガゼル」
ん、と曖昧に返事をするとばふんと頭に何か被せられた。
「えーと、さ。ガゼルのことだからどうせこれからずうっと先のことでも考えてんだろ? でもまずは遠い未来のことより、とりあえず目先の飯だ。腹、減ってねえ訳じゃねえんだろ? ほら」
手を差し延べられる。それを「自分で立てる」と軽くはらった。そうか、とバーンは軽く笑って、下で待ってるからな、と部屋を出て行った。
はあ、と短く息をはく。ため息ではない。心の荷が少しだけ取れた気がする。あくまで気がするだけだが。
頭にのせられたものに手をやる。手にとってみれば、最近バーンが買ってお気に入りだと言っていた帽子だった。確か「絶対ぇ貸さねえからな!」だとかなんとか言ってなかっただろうか。
ふ、と笑ってもう一度被り直す。有り難く貸してもらうことにした。