稲妻 | ナノ




 めがねふきを忘れた。
 視界が汚い。

「最悪だぁ……」

 いつも持ち歩いている赤色のめがねふきを、今日はうっかり忘れてしまった。今朝は特別忙しかったのだ。というか、ただ単に失敗をしてしまっただけなのだけれど。普段より一時間遅く目覚まし時計をセットしてしまって、朝ごはんも食べずに家を出た。登校中にお気に入りの音楽も聴けなかった。それだけでもテンションは下がりっぱなしだというのに、こうも視界が不鮮明だと、いつもは上がるはずのテンションもただただ下がるばかりだ。
 だからと言って眼鏡を外せば水の中にいるように、物がぼんやりと輪郭を失うように視界がぼやける。それでは視界に酔ってしまうし、人と話すのでさえままならない(相手を睨むように目を細めてしまうのだ)。大抵の友人は理解してくれているのだが、やはり教師らと話す際にはとても好印象は与えないだろう。

「あぁ、どうしよう…」

 いつもしているように机に突っ伏す。ティッシュで拭けば? と薦められたがレンズを傷付けてしまいそうなので断った。「速水くん、こまかいね」と笑われたが気にしない。だって、確かにそうなのだから。実際に汚れているところなんて、レンズのほんの隅なのだ。ほんの隅に白く指紋が付いているだけなのだ。ただこれは、普段から眼鏡を常用している者でなければわからない不快さである。視界の隅にちらつく白色がどうにも集中力を欠かせる。溜まりたまるフラストレーションにオレのメンタルは既に打ちのめされかけていた。

 午後4時35分。一日の授業をすべてこなし、残るは部活のみとなった。重い荷物と、それよりも更に重い重い身体を引きずりながら部室に向かう。ここまで来てしまえば、もはや何故こんなにも自分がいらついているのかは理解できなくなっていた。後から聞いた話だが、クラスメイトはそのときのオレには全く話しかけようとは思わなかったらしい。クラスメイトたちから見れば、オレがいらついている理由は到底理解しえなかったからだろう。

 部室の入口をくぐる。今日はオレが一番乗りらしく、部室の中には誰も居なかった。さっさとユニフォームに着替えて、再び机に突っ伏す。今度は眼鏡は外した。

「おっ、速水か」
「……あぁ、南沢さん」

 オレに続いて部室の入口をくぐったのは南沢さんだった。不思議がりながら、オレの顔を覗き込むようにしゃがんだ。オレが沈んでいるのはいつものことなのに。

「なにしてンだ、いつも以上に沈んでねぇ? お前」

 なんでわかったんですか…。そう言ってのそりと顔を上げる。「別に」南沢さんも着替えを始めた。その背中を一瞥してから、オレはぽつりと呟くように

「めがねふき、忘れたんです」

 その瞬間南沢さんはぐるりと目を大きくして振り向いて、それからげらげらと、これが大笑いでなければ何が大笑いなんだというほど大きい声で笑った。

「っひ…、はははっ! は、なに、お前、そんなことでそこまで凹んでンの?」
「……まあ」
「いや、まあ気持ちは分からんでもないけどな………ぷはははっ」

 南沢さんはどうしても笑いが堪えられないらしく、ひいひい息をしながらとぎれとぎれに喋った。滲む涙を擦りながらしばらく笑っていた。

「もしかして馬鹿にしてます?」
「もしかしなくてもだけどな」

 そう言うと、ガタガタと自分のロッカーを開けて、かばんの中から何かを取り出した。ひらりと揺れたそれは、青のギンガムチェックのめがねふきだった。

「めがねふき? 南沢さん、目悪かったですっけ」
「まさか、ダテだよダテ。オシャレめがねってやつ。ほら、眼鏡貸せ」

 めがねを渡すと、南沢さんはハァ、と生温い息をレンズに吹き掛けてきゅっきゅっと磨きだした。南沢さんにしては可愛らしいめがねふきだな、なんて思いながら眼鏡を磨く指先を眺める。

「はいよ、」
「どうも」

 隅々まで磨かれて汚れのなくなった眼鏡を受け取り、静かにかける。

「……きれい、です」
「ふて腐れた顔してんなよ」



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