稲妻 | ナノ
※嘔吐
お菓子つくったから食べてください、とかって言うけど、お前、俺が甘いモン嫌いなの知ってんだろ。
「おまたせしました」
きらきらと明るい笑顔でドアを開けた一乃は、抱えていたお盆を俺の目の前におろした。ふわんと甘い香りが鼻をかすめる。う、とえづきそうになったのを必死に抑える。流石にそんなことをするのは、失礼だろう。さりげなく背後にある一乃のベッドにもたれて甘い匂いから少し距離をとる。ベッドにしみついた一乃の匂いのほうが好きなんだけどなぁ。なんでまた、こんな。
「アップルパイ……母さんと一緒につくったんです」
「あ、………そう」
一乃はにこにこと嬉しそうに、目の前のアップルパイを八等分に切り分けていく。崩れないように慎重に、慎重に。サクサクとパイ生地が切れる音はいいな、と思う。アップルパイ自体はつやつやとまるでサンプルのようなきれいな出来だ。ただなんでこいつはこんな女みたいなことしてるんだ? わざわざ俺のためにパイをつくるだなんて。
ことん、と小皿に盛られたパイが、よく手入れされた細いフォークとともに俺の前に並んだ。ごくりと思わず生唾を飲む。
「きっと美味しくできた筈です、どうぞ食べてください!」
そんなことを嬉しそうに、自信満々に言うものだから、食べないわけにはいかない気がした。
「……どーも」
ゆっくりとパイの先を少しだけ切り落とす。ああこんな甘いモンなんて食うの、いつぶりだっけか。中学にあがってからは食べていない気がする。きちんと飲み込めるだろうか。吐かなきゃいいな。パイを口に運んだ。甘ったるい匂いとべたべたとしたジャムが口のなかに広がる。
「…………っ、ぅ、え」
小さくえづいてしまった。一乃にはばれてないみたいだけど。あぁあ、ダメかもしれない。ちょっと吐いてきてもいいか、なんて、言えるわけねえよな。
「っ、んぅ」
胃から上がってきたものと一緒に飲み込んだ。ごくり、と喉が大きく鳴る。甘ったるいものと胃液の酸っぱいものが混ざってしまって、口の中には悍ましい味が渦巻いている。
隣では一乃がおいしいですか、とでも言わんばかりに目を輝かせている。心なしか一乃はわざとやっているような気もした。本当に気づいてねえのかよ、こいつ。
「どうですか?」
「……ああ、大丈夫」
「あ、もしかして、……まずかったですか?」
「いや、ちが」
一乃は眉を八の字に下げ、まつげを伏せてあからさまにしょげたような表情を見せた。
「吐いてもいいですよ、洗面器、とか、ありますし、ねぇ」
一瞬耳を疑った。甘いものを食べて耳がおかしくなってしまったのか、なんて馬鹿なことを考える変な余裕があった。一乃の、似合わない冗談かなにかだと思った。
「は? …なに、いっ」
再び、急にあの甘ったるい味が広がった。こいつ、口の中につっこんだのか! きょとんと俺の目を覗きこむ一乃が持っている洗面器をひったくって、そのなかに胃の中のものを吐き出した。じわり、と世界が歪む。
「………っぅえ、ぐ、っ……げほっ、……おえ」
びちゃびちゃという音と一緒に部屋の中に異臭が広がった。一乃が俺の背中をさすっている。吐いている間は呼吸ができなくて、俺は出し切ったあと暫く俯いて荒く呼吸をしていた。口元をタオルで拭われたあと、大丈夫ですかと声をかけられた。大丈夫なわけ、あるかよ。
なんとか息を整えてはっと見れば、俺の吐いたものが入っている洗面器を愛おしそうに抱き抱えて、一乃はうっとりと笑っていた。
背筋がピキンと凍ったような気がした。なんだよ、これ。一乃、もしかして初めからこういう魂胆だったのか?
まだ酸っぱい口の中に、一乃の唾液が流し込まれた。一乃の笑顔が、とても、眩しい。
∴アップルパイの毒