稲妻 | ナノ




※年齢操作




 ブラシで汚れを取って、靴に傷が付いたりしないように力加減に気をつけながらワックスを付けてきゅっきゅっと磨く。磨きあげた後の、黒くつやつやと光る靴を見たときの満足感は、すごい。なんとも言えない至福を味わえる。

 靴みがきの仕事を始めて、もうすぐ三年と半年が経つ。あくまで自己満足、趣味として始めた仕事だけれど、まさかここまで続くとは思わなかった。靴を磨きながらお客さんと話すのも楽しいし、気に入ってもらえるとお菓子をくれる人もいたりするし、何より俺は靴が好きだから。仕事が続いた理由の一番はそれだろう。本革だったり、合成のものだったり、ブランドものだったり、偽のブランドだったり。そういうものも毎日毎日靴を見ているからか、いやでも分かるようになった。しかし合成の革であろうと偽の革であろうと、俺は手を抜いたりなどしない。一応お金をもらっているわけだし、何より俺のプライドが許さなかった。

 仕事の時間は、俺が学生ということもあって、夕方の6時からが主だ。土日は俺の気まぐれで、やったりやらなかったりとまちまちだ。そういうところが、いい。

 その日も、学校が終わってからの午後6時。足を載せるための台や磨くのに使うワックスやらを広げてお客さんを待っていた。冬の、ちらちらと粉雪が舞う、なかなかに風の冷たい日だった。


― ― ―



「靴、磨いてもらえるかな」

 焦げ茶のコート身を包み、首に巻いた白のマフラーに顔を埋めながら、ひゅうひゅうと吹く風に縮こまって目の前を流れる人々を眺めていたときだった。地面と靴のぶつかる微かなコツン、という音とともに視界が遮られた。お客さんだ、と見上げて「こんばんは」と笑った。まだ6時半、今日の一番客だ。イスと足台を出してどうぞ、とすすめる。お客さんはありがとう、とにっこりと笑って、手をこすり、寒そうにしながら座った。

「寒いですね、今日」
「そうだね。君はずっと外に居るから余計寒いんじゃないかい」
「まあ、俺は慣れてますから」

 かじかむ指をはあ、と息で軽く温めてからブラシを手に取った。汚れを掃いながら、靴のブランドや革がどうであるかなどを見定める。もうすっかり癖になってしまった。このお客さんの靴は、おそらく高いブランド物だろう。自分で買ったか、プレゼントされたかはもちろん定かではないし、そんなことは今はどうだってよいのだ。とりあえず、今俺がしなければならないのは、目の前の靴を磨きあげることだ。

「君の名前はなんていうんだい」
「緑川です。緑川リュウジ」
「そう、ミドリカワくんか」
「緑色の川です」
「はは、わかるよ、それくらい」

 少しだけくしゃりと顔を崩して、くすくすと笑う。静かなテノールの声だった。

「お客さんのお名前は教えていただけますか。嫌なら大丈夫ですけど」
「嫌じゃないよ、大丈夫だ。基山っていうんだ」
「へえ、キヤマさん」
「基本の“基”に、山」
「それは解らなかったかな」

 基山さんは朱い髪と、綺麗な緑色の瞳がとても印象的な人だった。大きめの紙袋と、百合の花束を持っている。年齢はおそらく30代後半〜40代前半といったところだろうか。一般にはおじさんと言われる年だが、まだとても若々しいひとだ、そんな輝きを感じた。よく似合う黒の、品の良いスーツをぴしっと着こなしている。顔も整っていて、男の俺から見ても格好良い。俗にいう“ハンサム”という部類に分類されるだろう。きっと“イケメン”と言われるような歳ではない、と思う。

 そんなことを考えながら、ブラシを布に持ち替える。柔らかい布にワックスを付けて、靴に擦り付けるようにしてこする。今までの経験から学んだ一番良い力加減を注意しながら靴のどんどん磨いていく。

「ねえ、緑川くん」
「どうしましたか?」
「バームクーヘンは好きかい」

 突然の質問に思わず手の動きを止めた。突飛した質問、という訳ではなかったが、俺はきょとんとした表情で基山さんの顔を見つめた。

「好き、ですけど」
「そうか、なら良かった」

 基山さんはそれだけ言って、また黙り込んでしまった。俺はわけがわからずにただ呆然としていたが、基山さんの俺の手元を見る視線がどうにも続きを急かしているように思えて、慌てて作業を再開した。

 それほどおかしい質問という訳ではないのだ。ただ「バームクーヘンは好きか」と、好き嫌いを問われただけなのだ。しかし何かがどうしても引っ掛かった。……そう、基山さんの、質問を言ったときのあの表情が、やたらと気になって仕方がない。

 しかし気にしても仕方がないことなのだ。俺と基山さんは、靴みがきとお客さんで、たった今出会ったばっかりの、干支の一回り二回りも違う、それだけの関係。深いところまで問いただすには、些か浅過ぎる関係なのだ。

 再び靴みがきに意識を集中させる。手をごしごし動かして、きゅっきゅっと靴を光らせてゆく。磨けば磨くほどつやを増していく靴は、やがて(おそらくだが)本来あったつやを越すほどのそれできらきらと輝いていた。それを目安に、靴みがきは終了だ。

「ふう…基山さん、終わりました」
「え、あ、ああ。ありがとう」

 靴みがきの途中にここまで会話がないのは初めてだった。した会話といえば、「寒いですね」「名前はなにか」「バームクーヘンは好きか」の3つだけだった。まあ会話しなければならない決まりなんてないんだし、不満はないのだけれど。

「いくらかな?」

 金額を言うと、基山さんは「ありがとうね」と笑って、お金と一緒に、持っていた水色の紙袋を俺に寄越した。

「え、これ…」
「ほんの気持ちだよ。どうせ余っちゃうから」

 ちらりと紙袋の中を覗くと、中にはバームクーヘンが入っていた。そうか、さっきの質問はこれのことだったんだ。

「それ、妻の大好物だったんだ」
「……じゃあ尚更、」

 基山さんは寂しそうに笑った。


「今日、妻の一周忌なんだよ」


 意味がわからなかった。いっしゅうき、だから俺にバームクーヘンを渡すのか。家でゆっくり食べればいいんじゃあないのか。

「生憎俺はバームクーヘンは好きじゃあないんだ。子供はいるけど、子供もバームクーヘンは好きじゃなくてね。妻に、と買ったけれど、食べる人が居ないなら持って帰っても仕方がない。どうせなら君に食べてほしい」

 基山さんの持っている百合がさらさらと揺れる。俺に、そのようなものを食べる権利はあるのだろうか。頭の中で考えがぐるぐる回る。

「なんで、俺なんですか…」
「……お礼だよ」

 一瞬の、間。

「……違いますね?」
「はは、君はなかなかに鋭いんだね。きっと俺の年齢もばれてしまっているんだろうな」

 眉を八の字して、困ったように笑った。鋭いもなにも、何人ものお客さんの接客をしてきたんだ。靴と同じように、嫌でもわかる。


「君は妻に似過ぎているんだ」


 ……困ったな。
 そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。俺は相槌を打つことも、声を発することも、表情を変えることもできないまま、言葉の続きを待った。

「黒い瞳のつり目だったり、高く結い上げられたポニーテールだったり、喋り方だったり、爪のかたちだったり。全部全部、妻を思い出すんだ。でも髪の色は薄い茶色だったけどね」
「………」
「男の子の君に言うのはちょっとなんだけど、君は俺の妻によく似ている。似過ぎている。でも妻に似ているから靴みがきをお願いしたんじゃないよ、後から気づいたんだ」

 頭の整理が追いつかなかった。俺が基山さんの奥さんに似ていて、だからバームクーヘンをもらうのか。「よくわからない」という素直な感想が浮かんだ。俺がきょとんとしたまま動けないでいると、基山さんは

「妻に似ている君なら、きっとそのバームクーヘンを美味しく食べてくれると思うんだ。君に会えてよかったよ」

そう言って、居なくなってしまった。

 雪は、気づけば止んでいた。


― ― ―



 それからというもの、俺は一度も基山さんには会っていないし、ちらりとも見ていない。靴みがきの仕事をしながら流れる人の波に目を凝らすも、やっぱりあの印象的な朱と緑は目に入らなかった。

 基山さんはあれからどうしたのだろうか。子供と一緒に百合を飾って、仏壇に手を合わせたのだろうか。基山さんの奥さんは、天国で笑っているのだろうか。

 俺には関係のないことなのに嫌でも考えてしまうのは、あの人がやたら印象的だったのと、はじめて“死”というものが俺の近くに来たからだと、思う。

 あのバームクーヘンの味が、今でも舌に纏わり付いて離れない。



∴酷似スイーツは-5℃で



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