稲妻 | ナノ




「わたしね、あなたのこと、死ねばいいと思ってるの」

 あまりにも唐突だった。いつもと変わらず、澄んだ鈴を転がしたような、しかし平坦な声だった。仮面に隠れているから表情はわからなかったけど、それすらも今は変わっていないのだろう。

 夕暮れ時、廊下ですれ違った時だった。「あなたがいると、わたし、死んでしまいそうになるの」彼女は言った。正直俺にはよく意味がわからなかった。俺が何をしたとか、俺の所為でとか、そういうのを言ってくれなかったから。ただ俺にもそういう経験はあった。息が出来なくなって、そう、まるで水の中に沈められたみたいに苦しくて、酷いと吐きそうになる。死ぬんじゃねえかって思ったことも、何度もあった。だから俺は言った。「ああ、そうかよ」

 彼女は「じゃあね」と、ていねいに手入れをして光らせた形の良い爪で俺の頬を引っ掻いて行った。なんつう去り際だ。頬を触ると薄く皮が剥けていて、じんと熱く痛んだ。彼女の声は少しだけ揺れていて

 また死にそうになった。





「わたしね、あなたのこと、死ねばいいと思ってるの」

 遂に言ってやった。いつも夏彦の所為で、わたしは死にそうな思いをしているから、きっと睨みをきかせて言ってやった。残念ながら仮面のおかげでその睨みは夏彦には届かなかったけれど。夏彦はバンダナで半分隠れた目をまんまるくさせて驚いたように見えた。ぱち、と瞬きしたあと、「何があったんだよ、お前」そう言われた。

 夕暮れ時。橙色の空には烏がかあかあと泣いていた。「死ねばいい」理由を言ったあと、わたしたちは廊下で向かい合い、暫く静かに佇んでいた。夕日があつくて溶けてしまいそうだと思った。どろどろのオレンジ色に溶けて、蒸発して、跡形もなく消えてしまいそうだと。そんなこと、あってはならないし、あるわけもないんだけど。

「ああ、そうかよ」

 長い沈黙を切ったのは夏彦のほうだった。彼は緩く緩く笑っていた。夏彦にはきっと無いのでしょうね、こんなに苦しくて、何もかもを吐き出してしまいそうな辛いこころのしこりは。だから笑っていられるの。わたしはこんなにも涙を流しているのに。ああこんな気持ちの塊なんて、はやくはやくむしり取ってしまいたい。

 わたしは趣味で手入れをしている大切な爪を夏彦の頬にそっと近づけて、それからがりりと引っ掻いた。「じゃあね」夏彦を通り越し立ち去ったあと、さっき引っ掻いた爪を見てみた。自慢の爪の間には、夏彦の頬の薄い皮とまっかな血が残っていた。

 ああ、死にそうよ。




∴僕らはまだ何もわからないから

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