明日は明日の風が吹く
この辺りで一番大きな木の、一番上の枝に腰掛けて、メイは大きく溜め息を吐いた。
茜の夕陽が炎のように揺らめいて、遠く山の向こうへと姿を消そうとしている。
皆はもう既に夕飯の支度を始めているだろうか。
翠波が一度下まで呼びに来たが、そのうち戻る、と返してもう随分と経つ。次に呼びに来るとしたら、おそらくは銅だろう。
正直なところを云えば、もう二、三日ほど此処で頭を冷やしていたいのだが、珍しくも先を急ぐ旅の用事もある。自分の我が儘で進行を遅らせることはしたくなかった。
知らず、もう一度溜め息が口をつく。と、
「溜め息吐くと禿げるよ、って……銀からの伝言」
突然背後から声を掛けられて、メイはぎくりと肩を揺らした。
考え事に気を取られ、周囲の気配に気を配っていなかった自分も自分だが、毎度音も無く風を切り近づいてくる彼には舌を巻くしかない。
「……それはどうもご丁寧に。もう集合?」
振り向いた視線の先で銅は、どうだろう、と呟いて首を傾げた。
そのまま近くの、一段低くなった枝へと腰を下ろして伸びをする。
「呼びに来たんじゃないの?」
「んー……そうだけど。今戻ると、勇士いるから……」
五月蝿い、と云う台詞が本心からなのか、それとも自分の様子を気遣ってのものなのかはわからなかったが、戻らずに済むのならその方が嬉しかった。
今はまだ、彼と顔を合わせたくない。
「じゃあ僕ももう少し此処にいようかな」
「うん……、そうして。メイが駄々捏ねたことにするから」
冗談めかしてそう云いながら、銅は腕を枕に幹へと寄り掛かった。
夕陽が最後の一声とばかりに輝くその光を浴びるように、気持ち良さそうに瞳を閉じる。
「それはそれでなんか癪なんだけど、」
「……じゃあ戻る?」
その様子を横目に此方も軽口で返した途端、常より温度の低い声音で尋ねられ、メイは迂闊に切り口を与えてしまった自分を責めた。
これだから、目の前の彼に油断は禁物だ。
「ごめん、戻りたくない」
溜め息と共に本音を告げれば、ふうん、と関心無さそうな声で呟いて、銅は再び正面へと視線を戻した。
「今度は一体何だろうね、」
今度は、という言葉に責める響きを感じるのは、多分に自らの負い目の所為もあるのだろう。
わざわざ思い返さずとも、少し前に自分が持ち込んだ騒ぎは未だ記憶に新しい。
そして今回のことも、そのことが無ければ此処まで悩むことも無かったもので。
「灰牙と何かあった?」
「え、」
再び振出しへと流れそうになった思考は、銅の口から出た名前に一気に現実へと引き戻された。
心構えなどまったくしていなかっただけに、動揺は隠せずに態度へと表れる。
それきり次の句が繋げずにいると、彼はちらりと此方を見た後、やはりいつもの無表情のまま、図星、と一言呟いた。
「……何でそう思ったの」
「別に、ただなんとなく。ユキのことはもう整理付いたみたいだったし」
「だからって何で、」
「最近仲良いから」
普段の様子からは想像もつかないが、銅の洞察力の鋭さはおそらくパーティー内でも随一だ。
それでもそのことを悟らせないのは、彼が大抵のことに関して無関心を貫いているからであって。
「ほんと、油断ならないよね」
「……それは、どうも」
相変わらず変化の乏しい彼の表情からは、その心情を読み取ることは難しい。
ここまでばれていながらも尚話すのを躊躇っていると、小さく首を傾げた彼が、また言葉を紡ぐ。
「うっかり押し倒しちゃったとか?」
「……銅の中で僕ってどんなイメージなわけ?」
「うん、まぁ……そういうの」
曖昧な返答につい聴き返したくなる気持ちを無理矢理抑え込んで、メイは大きく溜め息をついた。
聞き返したら最後、しばらく立ち直れないような予感がする。
好奇心が強いという自覚はあるが、今の状態で更にダメージを喰らおうというような自虐嗜好は、あいにくと持ち合わせていなかった。
「さすがにそこまでじゃないよ」
「それじゃどこまでいったの?」
「……銅ってたまにすごいしつこいよね」
「じゃあ戻る?」
「……」
メイが素直に戻ってくれるならこれ以上訊かないよ、という言葉はおそらく本当なのだろう。
彼に話したからといって戻らずに済むわけではないのだが、それでも、彼になら話してもいいと思わせる何かが銅にはあった。
決して親身になって聴いてくれるというわけではない。
どちらかと云えばその逆で、話してる途中に寝息を立てたりすることさえあるのだが、その分誰彼構わず吹聴するようなこともない。
それ故の安心感と気楽さだろうか、と自分なりの分析を繰り広げながら目の前の彼を観察する。
「……メイ?」
「あ、ごめん。何でもない」
「話の続きは?」
「あぁうん……えっと、」
それでもやはり躊躇われるのはこの歳にもなってこんなことで悩んでいる自分への気恥ずかしさだろうか。
なんとなく視線をやった先で、銅が小さく欠伸をする。
「……めんどくさい、なぁ」
メイにしちゃ珍しいけど、という台詞に続けて銅が問う。
「灰牙と何があったのさ、」
「……ちゅーしました」
「無理矢理?」
「たぶん合意……ってゆーかそれがまずいんだけど」
仕掛けたのは自分からだが、彼も逃げる素振りは見せなかった。
寧ろすぐに逃げたのは自分の方で……。
「あぁもう、何であんなことしちゃったんだろ」
「……メイってやっぱ手が早」
「お願いだからそれ以上云わないで」
「……いいけど」
云われなくても十分にわかっている、というか流石に前回で懲りたと思っていたのだが、自分でもこの移り気の早さはどうかしていると思う。
もう二度と彼女と会うことは無いとわかっているものの、やはり後ろめたい気持ちが無いわけではない。
「どうしようかなぁ……」
「どうしようも、何も」
「……」
「もう手ぇ出しちゃった、わけ、だし」
「…………、」
そう、なのだ。
だってしたかったんだもん、などというまるでどこぞの狐のような云い訳を心の中で呟いてみるも、特に事態が好転するはずもなく。
「そもそも……、何で悩んでるわけ?」
「このまま灰牙に手ぇ出しちゃっていいかどうか、ってことです」
ここまでくればもう既に投げやりで、つい答える口調がぞんざいになるのは仕方の無いことだろう。
「合意だったんでしょ?」
「たぶんね。嫌だって云われなかったし」
「じゃあ問題ない、じゃない」
「……灰牙何か云ってた?」
「ううん、別に。いつも通りの無愛想な表情、で、しずくの隣に、居たけど」
予想通りの銅の答えに、そういえばキスした直後もいつも通りだったと思い返して溜め息をつく。
「……あぁもう、僕何でこんな悩んでるんだっけ」
「そんなの、こっちが、知りたいくらい……だけど」
「ユキに会いたい」
そういえば今日は朝一度顔を合わせたきりだ、と思い出して呟くと、銅が呆れたように肩を竦めた。
そのまま木の幹に背中を預けると、腹の上で手を組んで目を閉じてしまう。
気付けば太陽はすっかり山の向こう側へと沈み、薄暗い闇が辺りを包んでいる。
月明かりの届く木の天辺でさえそう感じるのだから、森の中ではもう夜行性のものたちが活動を始めているのだろう。
ユキや鉄ほどでは無いが、自分とてそれほど夜目の利く方ではない。
本人に確かめたことはないが、おそらくそれは銅も同じことのはずで。
「……ごめん、もう戻る」
「気が済んだの?」
「うん、もうなんか……面倒臭い。正直考えるのとか苦手なんだ」
「……なるほど、だからすぐに手が出るわけ、だ」
呆れるでも非難するでもなくただ事実を述べただけとでもいうような彼独特の話し方に云い返す気力も失って、メイは立ち上がろうと起こした背をまた幹へと預けなおした。
「それでいつも後から後悔するんだけどね」
「……で、反省してる途中でまた面倒になる、」
「……わかってるんだけどね、自分でも」
半ば自棄になって溜め息を吐くと、珍しく銅がしっかりと此方を観ていた。
意外なほどに強い視線に戸惑いつつも目を逸らせずにいると、いつもの緩やかなテンポで言葉を紡ぐ。
「いいと思うよ、俺は、別に」
何がいいのだ、という質問を紡げずに飲み込むと、彼は小さく首を傾げた。
「だって、それがメイ、でしょう、」
「……なに、それ」
「……誉めてるんだよ、半分くらい」
「残り半分は何なの、」
「……ある意味、尊敬?」
「うわ、やな感じ」
そんな軽口を交わすうちに、あれほどまでに燻っていた気持ちは少しだけ軽くなっている。
何が解決されたわけでもないのだが、向かうべき方向が見えただけでも気分はだいぶましに思えた。
「とは云え、代わりにどうにかしてあげよう、なんて気は無いから、自分のしたこと、は、自分で落とし前つけな、ね」
「……はい」
じゃあ戻ろうか、と立ち上がった銅が枝を蹴るのに続いて自分も翼を広げながら、遅くなった云い訳について考える。
ユキのことといい何といい、態度に出やすい自覚はある。
蒼矢や翠波ならば気付いても黙っていてくれるだろうが、厄介な狐はそうもいかないだろう。
「……気が重いなぁ」
「自業自得、って三回くらい唱えるといいよ」
「……」
欠伸交じりに言い放った銅と何も云い返せずに黙り込むメイを乗せた風は、既にひんやりとした夜の温度を孕んでいた。
昼間とは違った住人たちの溢れる森を包み込むように、今夜も月が昇る。
***
テーマはなれそめ(笑。うじうじするのは性に合わない
080518
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