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桃源郷はすぐそこ


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※ドースバース作品です
詳しくは、
5分でわかるドースバース | 吟客(ちゅに)
↑上記をお読みくださいm(_ _)m

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 やたらと着るのに面倒臭い制服に腕を通し、自室を出る。
 無駄に長い螺旋階段を下りれば、そこには俺を待つ一人の男の姿があった。

「大地様、お車の用意ができております」

 スッと軽くお辞儀をする男は、たったそれだけの動きですら様になる。一瞬止めた足を動かし、頭を下げたままの男の横を無言で通り過ぎた。
 用意されていた車をも無視して、俺は使い慣れたビニール傘を手に取った。

「大地様」

 咎めるような男の声とは裏腹に、軽快な音を立てて開いた傘に大粒の雨が当たり跳ねる。その音の向こうで、男の名を呼ぶ小さくか細い声が微かに聞こえた。その声に返事をする男の声は、やたらに甘い。思わず舌打ちが漏れた。

 毎朝毎朝、律義に声なんかかけてくるなよ。本当は俺のことなんか、気にもしてないくせに。
 弟の―――空のことしか、興味なんてないくせに。
 そう、あの人は……『クランケ』である体の弱い空のために存在する、大切な『ドラッグ』なのだから。


 俺の実家である九波(くなみ)家は、父親で五代目になる資産家だ。そんな俺の家には、お手伝いさんや謂わば執事のような人たちがたくさんいる。その中の一人が鈴仙伊織(れいせんいおり)、先ほどの男だ。だがアレは、ただの執事などではない。
 資産家などの金持ちの家には、専属の『薬師』が居ることがある。薬師とはその名の通り、風邪などの病を治してくれる医者のようなものだ。ただの普通の医者と少し違うのは、本来の力を最大限に発揮するのが『クランケ』に対してであるということ。
 この世のほとんどの者が『ノーマル』であり、俺もノーマルとして生まれた。だが俺の弟は稀な存在であるクランケだった。
 クランケは生まれつき非常に体が弱く、普通の医者に通ったところで治る病ではない。だたその体調不良を唯一緩和できる者が存在し、それを『ドラッグ』と呼ぶ。そのドラッグこそ金持ちがこぞって欲しがる薬師なのだが、その存在はクランケよりも希少だ。
 ドラッグはクランケを治すのはもちろんのこと、ノーマルの体調不良も治すことができる。それも、肌に手を触れるだけで。だからこそ、金持ちどもは大金を積んで必死になってドラッグを抱き込んでいるのが現状だ。

 九波家の薬師も、いつか奪われるかもしれない。漏れ聞こえた大人たちの会話に不安になった幼き俺は、知恵熱を出して寝込んだ。そんな俺の額に、見習いとして住み込んでいた、伊織のひんやりと冷たくて気持ちいい手がそっと当てられる。その手に熱が、スウっと吸い込まれていくような不思議な感覚だった。

「大地様、お加減はいかがです?」
「いおくんのて、きもちいい」

 そうですか、と伊織がふんわりと笑う。

「いおくん……、いつかどこかにいっちゃうの?」
「僕はどこにも行きませんよ」
「たくさんおかねをもらっても?」

 俺の問いに、伊織はふふっと笑った。五歳の俺から見て、十歳の伊織は随分と大人に見えた。
 クランケである空の容姿は儚い少女のように愛らしく、なんの特徴もない俺の存在は無いに等しいものになっていた。
 そんな中で伊織だけは、いつだって、どんな時だって優しくて、自慢の兄の様な……幼い俺の、心の支えだった。

「僕はずっと、あなたの側にいます」

 髪と同じ、茅色の瞳がジッと自分を見つめている。まるで吸い込まれてしまいそうだと思った。

「……ずっと?」
「ずっとです」
「ほんとうに?」
「本当ですよ」

 何があっても、あなたの側にいます。
 小さな手を握る小さな手。じんわりと伝わる、優しいぬくもり。

 鈴仙家は九波家に代々勤める薬師で、伊織も十二の歳で修行としてイギリスへと渡った。
 そうして一年前に修業を終えて戻ってきた彼も、例に漏れることなく九波家の薬師となった。だが八年ぶりに戻ってきた男は、もう俺の知っている男ではなかった。
 幼き頃に触れたあの、大好きだったぬくもりを感じることは……きっともう、二度とない。


 ふと目を覚ますと、時計の針は夜の十一時を指していた。
 ついうたた寝をしてしまったが、起きてみるとなんだか体が重いし、心なしか熱っぽい。風邪など滅多とひかないが、念のために常備薬を飲もうと自室を出ると、丁度隣の部屋から伊織が出てくるところだった。毎日行う、空のメンテナンスが終わったのだろう。

「それでは、失礼いたします」
「……うん」

 挨拶をした伊織の顔に、空が夢心地に見惚れている。それもそのはず、幼いころの儚げな色合いと美しさをそのままに大人となった伊織は、信じられないほどの色気を纏っていた。
 病弱である空よりも白く透き通った肌、髪の色と同じ色素の薄い瞳に、長いまつ毛、筋の通った鼻。まるで造り物のような男の視線は、真っ直ぐに弟を見据えている。

「伊織さん……」

 空の手は名残惜しそうに伊織の指先を掴んだまま、甘ったるい声を漏らしながら媚びる様に頬を擦り寄せた。

「空様、おやすみなさいませ」

 しかし空の手から、伊織の指がするりと抜ける。寂しそうな顔をして宙に手を彷徨わせた空も、やがて諦めたのか腕を下ろし、一度こちらに恨みがましい目を向けた後そっとドアを閉めた。そんな目をしなくたって伊織はお前のモノだと、嫌悪から溜め息が出た。
 その音に驚くこともなく、伊織が俺を振り返る。

「大地様」
「イチャつくなら部屋の中でやれよ」
「……何かご入用ですか?」
「アンタに用は無いよ」

 そのまま伊織の横を通り過ぎようとして、腕を捕まった。

「なんだよ」
「顔色が良くありません、体調でも崩されたのでは」
「だったら何だよ! ……ッ、」

 伊織の手を振り解こうとするが、腕を掴む力は意外に強く……逆に引き寄せられてしまった。
 久しぶりに近くで見た伊織の顔。まるで人形の様に出来すぎたその容姿。幼い頃に見つめ合った、あの吸い込まれるような錯覚を起こす瞳……。

「具合が悪いなら、私がメンテナンスを」
「いらないッ!」

 今度こそ力一杯拒絶すれば、伊織の手は漸く腕から離れてくれた。

「俺はクランケじゃない、ノーマルだ」
「関係ありません、私はおふたりの」
「ふたり? 違うよ、アンタは『空』のドラッグだ。俺には関係ない!」

 伊織に背を向け、そのまま逃げる様に自室に飛び込む。常備薬のことなどもうどうでも良かった。
 扉に背を預けたまま、ズルズルと座り込んだ。

「なにが『ふたりの』だよ……俺のことなんて、どうでもいいくせに」

 自分で言っておいて、その言葉に自分で傷ついた。目頭が熱くなり、やがてぽろりと雫が溢れ落ちた。

 ずっと、側にいるって言ったのに。
 ずっと、俺の側にいてくれるって、言ったのに。

 八年ぶりに再開した伊織が一番に駆け寄ったのは。待ち焦がれていた、あの綺麗で優しいぬくもりを持つ手が触れたのは。

『空様……!』

 側にいると約束した俺ではなく、弟の空のものだった。

『相性ってのが、あるんだって』

 満面の笑みでそう言ったのは空だ。

『僕と伊織さん、とっても相性がいいみたいなんだ。僕たちは絶対、番になるべきなんだよ!』

 伊織の祖父相手ではイマイチだった空の体調は、担当が伊織になった途端すこぶる良くなった。
 相性の良いドラッグとクランケは『番』となる者が多い。ドラッグがクランケに自身の血を飲ませることで番となるが、そうなったらもう、ドラッグは番の病しか治せなくなる。
 他の人間を治療しようものなら、嫉妬という病で番の命が危ぶまれるからだ。番とは、結婚よりも遥かに重く尊い繋がり。

『僕、クランケに生まれて良かった! だって、伊織さんを僕のモノにできるんだもの! 兄さんはノーマルで、残念だったね』

 そう……ノーマルの俺には、全く関係のない世界。

「嘘つき……」

 あんな嘘つき、嫌いだ。心の底から、大嫌いだ。


 ◇


 朝目が覚めると、体調は更に酷くなっていた。

「最悪……薬、飲めなかったからだ」

 昨日の夜に飲んでいたら、もう少しマシになっていたかもしれないのに。あのふたりの存在に邪魔をされたことを思い出し腹がたった。
 自分はノーマルだ。いくらお抱えの薬師がいても、その薬師は空のもの。空のためにいるという空気の中で、その力に頼るのはなんだか憚れる。

「はぁ……」

 熱い息を吐き出すと、更に体が重くなる気がしてしんどい。

「まあ、風邪くらい寝てれば治るだろ……」

 重い瞼を閉じれば、またすぐに夢の中に入れるだろう。そう思ったのに、頭の中にモヤがかかった様でなかなか寝付けずに寝返りを繰り返していると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。多分、伊織だろう。

「大地様」

 空気の中にスッと通る声は、案の定伊織のものだった。ドアノブが回され扉が開かれる。

「俺、返事してないけど」
「起床の時間がいつもより遅れております。具合がよろしくないのでしょう?」
「……」

 お前たちのせいだろう。喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込むと、寝返りをうって伊織に背を向けた。

「大したことない」
「薬湯を持って参りました、お飲みください」
「要らない、寝てれば治る」
「大地様」
「要らないっていって……ッ!」

 五月蝿いとばかりに布団に潜り込もうとした俺の肩を、伊織が強く掴んだ。

「私ではなく、祖父が作った薬です。安心してください」
「……」
「聞き分けがないと、口移しで飲ませますが?」

 スラリとした体型からは想像できない肩を掴む強い力に、本気で抵抗しても敵わないことを思い知らさせる。

「……分かったよ」

 ベッドに体を起こし、シルバーのトレーの上に置かれた薬湯を手に取った。それは確かに、伊織に変わる前まで俺たち兄弟のお世話をしてくれていた、伊織の祖父お得意の薬湯の色をしていた。
 伊織の祖父の薬は、よく効くが苦い。

「これ、不味いんだよなぁ……」

 ミント色の液体を見て思わず溢した言葉に、伊織の表情がふっと和らいだのを感じた。

「良薬口に苦し、ですよ」
「うるさいなぁ……わかってるよ」

 不貞腐れながら薬湯を一気に喉に流し込んだ。あまりの不味さに咽せた俺の手から、素早くグラスを奪い背中をさする伊織の手。
 直接肌に触れた訳でもないのに、微かに感じた伊織の体温に気怠さが少し、緩和された気がした。
 それから一週間、毎晩薬湯を飲んだお陰か、体調は悪化することなく順調に回復していった。

 だが、その頃からだろうか……。
 体調が悪い訳ではないのだが、妙な違和感を覚え始めたのは。そして異変は自分の体だけでなく、家の中でも起き始めていた。

「電話に出ない……?」

 体の妙な感じが気持ち悪く、学校を早退するために迎えを呼ぼうとしたのだが……いつもならワンコールで出るはずの運転手の反応が無い。
 朝はいつも、空のついでのように用意されている車に乗るのが嫌で、電車で通学している。熱があるわけではないので、仕方なく朝と同様に電車に乗って帰宅することにしたが……その道中で考えるのは家の中の異変について。
 最初におかしいと思ったのは、お手伝いさんの数だ。体調を崩すよりももう少し前からだっただろうか、以前なら家の中を歩けば誰かしらとすれ違っていたのに、最近は誰とも会わない。
 しかし食事や身の回りの世話は滞りなく行われているから、その異変に気付くのに遅れたのだ。その上、以前ならもう少し顔を合わせていたはずの両親の姿を、ここ二ヶ月ほどは全く見ていない。
 元々空も俺もそれぞれの部屋で食事をとるからあまり顔を合わせることはないが、たまに見かける空には特に何かを感じている様子は見られない。だが、どうにも胸騒ぎがする。
 そうして自身の足で辿り着いた自宅を見て唖然とした。

「なんだ……これ……」

 屋敷と呼ぶに相応しい大きな家の前には何台ものトラックが停められ、屋敷の中から調度品を運び出している。

「えっ、ちょ……待って!」

 俺の声など聞こえないとでも言うように、荷物を運び出す業者の男達は足を止めてくれない。慌てて駆け出し家の中に飛び込む。そこにはもう、数時間前に見た景色は失くなっていた。
 壁にかけてあった絵画も無ければ、飾ってあった焼き物などの美術品だって一つもない。それどころか敷かれていた絨毯すらなく、床中にゴミが散らばっている。
 あまりの状況に立ちくらみを起こし、ふらふらとした足取りでダイニングホールへ入る。そこには、非現実的な光景が広がっていた。

「おかえりなさい」

 まるで何も変わりない、いつもの日常のような顔で男が言う。

「早いお帰りですね」

 ダイニングホールの中央には、足を組んで椅子に腰掛ける伊織の姿があった。その足元には、床にべたりと座り込む空が。
 大きなダイニングテーブルは姿を失くし、代わりにあるのは小さなガラステーブルだけ。その上にはあの見慣れたミント色の薬湯がグラスに一杯、置かれていた。

「そろそろだとは思っていましたが」
「……なに、これ」

 立ちすくむ俺に、伊織は場違いなほど優しい笑みを浮かべる。

「こうなるまで気づかないとは、やはりまだまだ子供ですね」
「……父さん達は?」
「アイツら! 僕らを売ったんだよ!」
「空……?」

 伊織の足元で、空が泣き喚く。

「変態っ! 変態のクソジジイ! なんでっ、なんで僕が!!」
「なに……?」
「“旦那様”は、あなた達とさほど歳の変わらないドラッグに入れ上げて、破産したんです。奥様はもう一月も前にあなた達を捨てて、海外に行かれましたよ」
「は……?」

 情報量が多すぎて頭が上手く回らない。

「九波家の資産は全て抑えられています。買い取ったのは……鈴仙家……というより、私ですね」
「なっ」
「えっ!?」

 打ちひしがれていた空も初耳だったのか、しかしその目には何故か先程までは無かった光が灯っている。

「じゃ……じゃあ、僕の身柄は……伊織さんが?」

 何かを期待した目を向ける空に、しかし伊織は反応しなかった。

「体調、どうです?」
「ぇ……へ?」
「早退なんて珍しいじゃないですか。体調が悪いのでは?」
「……ぁ、あぁ、なんか……変で」

 シャツの胸元をギュッと握るのを見て、伊織がにんまりと笑う。

「そうでしょうね」
「え……?」

 伊織はガラステーブルの上に置かれた、薬湯のグラスを長い指先で軽く揺らした。

「妙な感覚がするのでしょう? 胸騒ぎにも似た、動悸のような」
「……なんで分かるんだよ」

 グラスに注がれていた伊織の視線が、強く俺を射抜いた。

「中毒症状の、前兆だからですよ」
「中毒……?」

 カラン、と音を立てたミント色の薬湯に視線が向く。

「まさか、」
「毎日、私の血を一滴ずつ入れました。あと少し摂取すれば、あなたはもう私無しでは生きられなくなる」
「なっ!? なんで兄さんに!? 僕がっ、僕が飲みたいってあれほど言ったのに!」

 空の瞳が怒りの色に塗り替えられる。
 クランケがドラッグの血を飲めば番になれるが、ノーマルがドラッグの血なんて飲んだら……そのドラッグに依存し、離れれば中毒症状を起こすというまさに中毒者になってしまう。
 そうなれば、最早相手のドラッグと離れて生きることなど不可能だ。

「大丈夫ですよ、まだ引き返せます。あと一歩は、あなたの意思で踏み出してほしいので」
「なんだよ……それ……」

 また、伊織の指先で揺れた薬湯がカランと音を……、

「ふざけるなぁぁあ!」

 可憐な花の様であった弟とは思えぬ、鬼の形相になった空が薬湯の入ったグラスを奪い取った。

「あっ!」

 奪ったグラスに口をつけた空に、俺は思わず焦りの表情を浮かべた。このままでは、空が伊織の番になってしまう。伊織が空のものになってしまったら、もう……。
 空は煽るようにして一気に飲み干すと、勝ち誇った様に血走った目で俺を見ながら笑った。

「僕のモノだ! 伊織さんはもう、僕のモノだ!」

 足を組んで座ったまま、気だるそうにガラステーブルに肘を置いた伊織が溜め息をつく。

「あーあ」

 だがその顔は、どこか馬鹿にした様に歪んでいた。

「やってくれましたね、期待通りです」
「……?」

 スッと立ち上がった伊織が、期待に目を輝かせる空の頬に手を当てた。

「僕たち、番になったんですね」
「そうですね、番になった」

 うっとりと瞳を閉じる空が、伊織の手に自身の手を重ねた。が、その瞬間、

「ひっ!?」

 空が突然、伊織から飛び退いた。伊織の顔は笑顔のままだ。

「なに……なに!?」
「どうしました?」
「伊織さん!」

 飛びつく様に空が伊織に触れるが、しかしまた、怯えた表情で慌てて離れる。

「なんで……なんで触れられないの!? 僕たち番になったんでしょ!?」
「そうですね、あなたは今大量にドラッグの血を飲みましたから……番になったのでしょうね」
「じゃあどうしてっ」
 
 伊織はカラカラと笑った。

「当然ですよ。あなたが飲んだのは、私の血ではないので」

 空の顔から一瞬で血の気が失せた。

「知っていますか? この家の中の財産で、一番価値があるものが何か」

 強気だった空が足元に崩れ落ち、ガタガタと震えだす。

「ああ、やはりご存知でしたか。そう、あなたですよ、空」
「……空が?」

 確かに空の容姿は可憐で愛らしいが、家中の資産よりも価値のある容姿とは思えない。俺が言うのもなんだが、探せばノーマルの中でもこのくらいの容姿の者なら存在するだろう。
 価値がある容姿というならば、それは伊織の様な者を言うのだ。

「そうですね、ただし限られた“小さな世界”では、という限定的な価値ですが」
「クランケ、だからか」

 伊織の口角が上がる。

「私たちドラッグの中には、クランケの収集家が存在します。その収集家にとっては、山の様に積まれた金塊よりも、クランケの方がずっと価値のあるモノなんです」
「ぃやぁぁああっ!!」

 空が顔を手で覆い泣き叫ぶ。

「なぜ泣くんです? あなた、ずっと言っていましたよね。相性の良いドラッグとクランケは番になるべきなのだと」
「違うっ! 僕は! 僕は!」
「私はあなたの望む通り、あなたと最高の相性のドラッグを探して差し上げたんですよ?」

 パンパンと伊織が手を叩くと、閉じられていた奥の扉が黒服によって開けられた。そこから現れたのは、小太りで、脂ぎった中年の男。
 空は何かを感じ取ったのか、まるで断末魔のような叫び声をあげる。しかし中年の男は、そんな声すら愛おしいとばかりに空に駆け寄った。

「ああ、愛おしい愛おしい私の番!」
「やぁああっ! いやぁああっ!」
「ほら、落ち着きなさい」

 暴れる空の首筋に、男がイモムシが生えた様な手を当てる。すると空は、ピタリとその動きを止めた。まるで、電池が切れたオモチャのように。

「最高の相性でしょう?」
「ああ、こんなに相性がいいのは初めてだ。しかしあんなにも値打ちで良かったのだろうか」
「構いませんよ、私にとってはガラクタ同然でしたから」

 中年の男は満足そうに頷くと、全身を弛緩させた空を抱き上げた。男の腕の中から、空の腕がだらりと垂れ下がる。
 何も出来ぬまま、連れ去られていく姿を見送っていた。……もう、何がなんだか分からない。
 俺は、これからどうなるのだろうか。

「伊織は、俺たちを憎んでたのか?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして……」

 項垂れた俺のそばに、伊織が長い足でゆったりと近づいてくる。
 長く綺麗な指がおとがいに触れ、クイと視線を上げさせられた。

「全ては、あなたとの約束を果たすため。単なる薬師では、決して叶わないから」
「約束……」
「さあ、どうします?」

 俺の目の前で、伊織が桜貝の様な爪で自身の唇に傷を付けた。椿色の血がじわりと滲み出る。

「……飲むも飲まないも、あなたの自由です」

 艶やかな桃色の唇に滲む血の色に、俺は目を奪われていた。
 お気に入りだったオモチャも、両親からの愛情も、何もかも弟に奪われたが、大体のものは諦めがついた。だけどその中でただ一つだけ、どうしても諦められなかったものがある。

「伊織……」

 俺は花の蜜に誘われる虫の様に、ふらりと一歩を踏み出す。そうして震える指先で伊織の頬に触れ……血の滲むその唇に、自身の唇を重ねた。

「ンうっ!」

 その瞬間、腰と後頭部に伊織の手が回り引き寄せられる。触れるだけだったはずの口付けはあっという間に深いものになり、絡み取られ、流し込まれる唾液の中に伊織の血液が混ざる。
 口端から溢れそうになったそれを見て、伊織が咎めるように囁いた。

「……飲んで」

 朦朧として見上げた伊織の瞳には懇願が滲んでいた。

「飲んで……大地」

 泣きそうなその声に、俺は宥める気持ちで伊織の唾液を嚥下した。
 不思議な感覚だった。胃の中でマグマがボコボコと溢れ出てくるような……そうしてやがてその焼けつく熱が一つ一つの細胞に染み渡っていく。

 熱い……熱い……!

「あっ……あぁ……!」
「大地……!」

 未知なる感覚にもがく俺を、伊織が抱きしめた。

「この時のために……生きてきた」
「い……おり……?」
「昔のように呼んで、大地」

 昔の、ように……?
 泣きそうな伊織の顔に両手で触れる。
 幼き頃に感じた、あの優しい温もりが手のひらからじんわりと伝わってくる。

 嬉しい
 嬉しい
 好き
 大好き

「いおくん……だいすき」

 背骨が折れるほどに強く強く俺を抱きしめた後、伊織は手を取り、その甲に口付け……囁いた。


 ―――永遠に、あなたの側にいます



END

2021/01/01



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