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きみは運命を知らない。*



 最初に狂ったのは、教師だった。

 まだ幼い弟の足にしがみつき、荒く息を吐いて腰を揺する。口からは嬌声とも嗚咽ともとれる声を零し、醜く涎を垂らして泣いていた。
 弟は、冷たい瞳で見下ろしていた。
 少しも動くことなく、瞬きひとつせず、ただただ凍えるような瞳でソレを見下ろしていた。
 あまりの衝撃に、俺の喉が引き攣れ音をたてる。耳ざとく音を拾った弟が、こちらを振り返った。
 そうして目が合った弟は……俺を見て、静かにうっそりと笑った。



 朝食とは思えないほど豪勢な食事が並ぶテーブルには、しかし二人の子供の姿しかない。高校生を子供と呼ぶには、いささか大きすぎるかもしれないが。
 端と端の席に着いた二人の間に会話はない。朝の挨拶すら交わされることはなかった。
 ナイフやフォークが皿に当たる微かな音だけがする、静寂とも呼べる時間は永遠にも感じる。

「ご馳走様」

 真っ白なナフキンで口元を丁寧に拭った少年が、遠くも正面に座る俺には見向きもせず立ち上がった。

「待って、睦月!」

 進めようとしていた足を止め、睦月が俺を振り返った。やっと合った彼の瞳には何の感情も浮かんではいない。

「あの……」
「なに」

 高貴な楽器のような音。その冷たさに、思わず身震いし視線を逸らした。

「これ、なんだけど……」

 俺は、自分のズボンのポケットから取り出したものを睦月の前に差し出した。本当は、昨日の夕食の時に渡そうと思っていた物だ。だけど、睦月の機嫌があまりに悪そうで……渡しそびれて、いや、声さえかけられなかった。

「なに、これ」
「俺のクラスの、花村くん……って、知ってる?」
「全く知らないね」

 だよな、と渇いた笑いを零す。
 花村くんは、学年どころか学校中から可愛いと評判の男子生徒だ。彼と同じ性を持った者でさえ、誰もが一度は恋人にと憧れる、そんな存在だった。だが、そんな彼でさえ目の前の彼には取るに足らないものなのだろう。

「お前に渡してくれって、昨日頼まれたんだ」

 恐々と睦月へ視線を戻し、後悔した。刺さるような……なんて生易しいものではなかった。それは、まるで俺を斬って捨てるような眼だった。

「なるほど、アレと中庭にいたのはその為か」
「え?」
「それで、優しいお兄ちゃん≠ヘ俺の為にいそいそと伝書鳩をしてくれたわけだ」

 俺とは似ても似つかない綺麗な顔に、嫌な笑みを浮かべる。

「伝書鳩って……」
「可愛い子に頼まれて、お兄ちゃん頑張っちゃう! って?」
「お前なぁ!」

 さすがにカチンときた瞬間、手に持っていた手紙が奪い取られる。薄い桃色をした、綺麗で繊細なつくりの便箋だ。それを睦月は自身の鼻に少し近づけて、更に笑みを濃くした。

「はっ、オメガ臭い」
「あっ!」

 綺麗な便箋に、緊張した字で書かれた【乙瀬睦月(おつせむつき)様】の文字。それは、目の前で無残に破られ粉々に散った。
 睦月が、絶句する俺の胸倉を掴んで、互いの鼻の先がぶつかるほど近づいて。

「兄貴面して、余計なことするのやめてくれない?」
「俺は……別にそんな、」
「俺の兄≠セからと呼び出されたんだろう? だったら、次からはこう言いなよ。『俺たちは兄弟なんかじゃない』って」
「そんなこと言えるわけないだろ!?」
「どうして? 俺はただの一度も、アンタを兄だと思ったことはないよ」

 ドン、と睦月に胸を押されたたらを踏んだ。
 眩暈がした。決して仲の良い兄弟なんかではないと理解していた。だけど、まさかこんなにもはっきりと、嫌悪を突きつけられるなんて思ってもみなかった。
 言葉を失う俺から視線を外した睦月は、手紙を破った指先を見て眉を歪める。

「ベータのアンタには、一生分からないんだろうね。この、媚びたニオイ」

 そう言って背を向けた睦月。スッと伸びた背筋は美しく、後ろ姿だけでも人を魅了することができるのだと、感動すら覚えるその姿。だがそれは、完全なる拒絶を纏っていた。
 足元に散らばる、無残に破かれた手紙。
 薄桃色のそれは、まるで春風の中に飛ばされ儚く散った花びらのようで……。



 俺が生まれたこと自体が、間違いだったのかもしれない。
 アルファの名家である乙瀬家の人間が両親である俺は、しかしながらベータ性を持って生まれた。プライドの高い両親は嘆き、悲観し、やがて俺を無かったこと≠ノした。
 俺が生まれた二年後、両親にとっては念願のアルファの男子が生まれた。赤子であるのにその美しさは異常なほどで、今まで以上に俺は空気のような存在になった。
 仕事に忙しい両親が、それでも気に掛けるのは弟のことばかり。それでも、俺にとってふたりは血の繋がった親≠ナあったし、弟もまた血の繋がった唯一の兄弟≠セった。

 本当の意味での家族≠築くことができるのは、もしかしたらベータのみで構成された家だけなのかもしれない。元よりアルファ性は人情味が薄く、家族愛をあまり持たないと聞く。両親が弟を構うのは、その存在が自身の立場を確固たるものにしてくれると期待しているからだ。決して、純粋な愛情などではないと気付いていた。
 第二の性が、ヒトの心を蝕んでいる。
 幼い子供の様に、両親に抱きしめられたいなどと今更言うつもりはない。だけど、それでも……。俺は、せめて、俺だけは……。ベータで生まれた俺だけは、家族という絆を忘れたくなかったのだ。

 花村くんが無残な姿で体育館の倉庫から見つかったのは、睦月に手紙を破られた……その日の夕刻のことだった。



 その場にただ、立っているだけで人を魅了する弟。それはアルファ性が齎すもの故なのか、彼が築き上げたカリスマ性故なのか、俺に区別することはできない。ベータには、アルファのフェロモンを感じとることができないからだ。
 だた、綺麗な人≠セと認識できるだけだった。

「睦月……」

 俺の部屋の前に立っている彼は、一体いま、何を考えているのだろう? 夕刻、学校を出るその時駆け抜けていった速報が、俺の体を震えさせる。

「なにか言いたいことがあるだろうから、待っていてあげたんだよ」

 昔見た、あの日の様に……弟が、うっそりと笑う。

「どうして……あんなことをした?」

 そう言った俺をみて、睦月の笑みが深くなる。

「本当は、分かってるんじゃない?」
「なにを、」

 立ち竦む俺に、睦月が一歩近づく。

「何を言ってるか、分からない」
「花村くんには、望むものを与えてあげただけだよ」
「望むもの?」

 また一歩、睦月が俺に近づいた。

「アルファを求めていたから、たくさんのアルファを与えてあげた」
「ッ!!」
「彼だって喜んでたよ、自分から腰を振ってね」
「そんなわけ! だって、だって花村くんは睦月のこと……」
「運命≠セとでも……言ってた?」

 その言葉にハッと息を呑む。

「俺のことを、運命の番とでも?」
「……そう、なんだろ? 運命は、一目でわかるって言ってた」

 俺たちベータ性には、一生分からないアルファとオメガの運命=Bどれだけ愛し合っている恋人たちだって、その間に運命が現れれば、その関係や愛情は一瞬にして崩れ去る。
 ソレはオメガやアルファにはお伽噺のように憧れることができても、ベータにとっては恐怖の対象でしかなかった。だって、ベータに運命≠ヘ存在しない。例えどれだけ、愛していたとしても。

「俺は、睦月に運命が現れたんだって……だから、」
「兄として人肌脱いでやろうって?」

 はっ、と睦月が鼻で笑う。

「ねぇ、いつまで兄弟≠ノしがみつくつもり? いつまで俺がそれに付き合えば、満足する?」
「う"っ!」

 力ずくで壁に押し付けられる。今度こそ触れ合った鼻の先。

「アレが運命なわけがない。俺の運命は、今ここにいるんだから」


 触れ合いは、鼻先だけでは止まらなかった。



 ◇



 生まれ落ち、物心がついたその時。すでに俺には、運命が見えていた。

「睦月、転んだ? 膝が汚れてるよ」

 自身の服が汚れることも厭わず、袖で俺の膝を拭う。

「怪我はしてないみたい、大丈夫?」

 ことりと首を傾げ、顔を覗き込んでくる。その顔に習って、俺も顔を傾げキスをした。驚いて尻もちをついた彼は、顔を真っ赤に染めて両手で唇を覆った。

「む、むつき……こういうことは、俺にしちゃダメ。俺は、睦月のお兄ちゃんだから……大人になって、好きな人ができたらしてね?」

 彼の言葉の意味は、俺には理解できなかった。それは高校に通う歳になった今でも同じことだった。だって、彼のいう兄≠ヘなんの妨げにもならないものなのだ。血の繋がりも、男同士であることも、彼の性がベータであることも、俺には全く関係がなかった。

「じゃあ、大きくなったらする」
「あ、うん……そ、だね……?」

 大きくなったら、また、あなたにキスをする。だってあなたは、俺の運命だから。


 乙瀬学(おつせまなぶ)。アルファの頂点に君臨する乙瀬家に、ベータとして生まれてしまった落ちこぼれ。だが彼は、俺にとって特別だった。だけどそれは、彼がベータだからでも、特別なニオイを持っていた訳でもない。ただ彼が、彼として存在していることが重要だった。
 同性たちの互いをけん制し合うニオイと、その周りで媚を売るオメガたちの欲望そのもののニオイが充満する世界で、ただ一人、普通であろうと足掻く姿は幼い心にも鮮烈に映し出された。
 俺に心惹かれていることは確かだった。それなのに、必死で兄≠ニいう鎖に自ら繋がれようと藻掻いている。

 愛おしかった。
 どんな美しいアルファよりも、加護欲を誘うオメガよりも、なによりも……人間味を手放したくないと足掻く彼が愛おしかった。だけど同時に、憎らしくもあった。
 彼はどうしたって、俺を弟として扱いたがる。だから、分からせてやろうと思ったのだ。どれだけ足掻いたって、俺が決めた運命からは決して逃げられはしないのだと。

「睦月、あのね……」

 最初の犠牲者は担任だった。
 まだ初等部に上がって三年目のこと、兄が妙なものを持ち帰ってきた。渡されたのは、小さなガラスのケース。

「これに……髪の毛を入れて、ほしいんだけど……」

 自身のズボンを両手で握り締め、俯く兄。分かっていた。俺の髪が欲しいのは、彼自身じゃない。

「誰に渡すの?」
「それは……」
「正直に話してくれたら、お願いをきいてあげる」

 俺の担任は女のオメガだった。そいつは放課後、兄の学を捕まえ校舎の影に引きずり込むと『学くん、お願い。きみは睦月くんのお兄ちゃんだからできるでしょう?』そう言って彼にガラスのケースを渡した。
 本当に欲しかったのは、俺の体液なのだろうに。

「お兄ちゃんは、それをもらってきちゃったの?」
「……ごめん、ごめん」

 兄の学は初等部の五年。丁度、第二の性の教育を受ける頃だった。アルファとオメガは運命で結ばれており、そこにベータの入り込む余地はない。そう義務教育で教えこまれた後だった。
 女がオメガであることを告げれば、幼い兄は、アルファである弟に取り次がねばならないとでも思い込んだのだろう。
 女は、兄の幼い心を利用したのだ。

「分かった。ボクが直接渡すからいいよ」

 兄は不安そうな顔をしていた。俺を、誰かに取られたくない……だけど、それを必死に堪えるような表情をしていた。
 ーーその夜、初めて夢精した。


 担任を呼び出しその肌に触れれば、精のニオイがするようになった俺に直ぐ発情した。精を吐き出せるといっても、まだ十にも満たない少年だ。だが、アルファとオメガにそんなものは関係ない。

「ねぇ、懇願してよ。ボクが欲しいんでしょう?」

 女は足に縋って、みっともない声を零して欲しがった。曝け出された幼い少年の素足に、みっともない液を擦り付け、涎をたらして乞い縋った。そんな俺たちを、兄が陰から見ている。俺はそれを確認して、うっそりと笑う。
 アルファには、オメガの運命が存在する。だけど俺には、そんなものは存在しないのだ。だって、俺の運命は目の前にいる。いつだって側で、物欲しそうに、だけど血が滲むほどに唇を噛んで、欲求に耐えているのだから。

「誰か助けてぇええ!!」

 叫び声を聞いて駆け付けてきた大人たちによって、俺の足に縋っていた女は引きずられる様にして連れ去られていった。その後、その女の姿を見ることは二度となかったが、どうなったかなど興味は露程もない。
 消えた女のことを、兄が聞いてくることは一度もなかった。それから幾度か同じことが続いたけれど、兄は一度も俺に何かを問いはしなかった。それは恐怖故なのか、それとも……。

 兄のことはずっと見ていた。誰が彼に近づき、誰が彼を利用しようとしているのか、ずっと。その度に、彼に分かるように、時には悟られないように処理してきた。
 冷たく突き放せば放すほど俺に絡み取られ苦しむ兄を見ながら、さながら、庭の草木を剪定するかのように。


 乱暴に、だけど焦がれてやまなかったそれを慈しむように口付ける。奪うようだったそれは、いつしか互いが溶け合うように絡み合う。
 銀糸を切って離れた俺を、兄……学が瞳に涙の膜を張り見上げた。

「どう……して、」
「大きくなったらするって、約束したでしょう? 学が言ったんだよ。キスは好きな人とするものだって」
「そ、れは……」
「まだ犠牲者が必要? まだ同じことを繰り返す?」
「睦月」
「どうしたって、俺のことが好きなくせに。俺以外、どうせ愛せないくせに」

 学がカッと顔に血を登らせた。怒りとも、羞恥ともとれるその表情も、俺の劣情を煽るだけだった。

「アルファもオメガも、ベータも関係ない。兄でも、弟でも関係ない。どれだけ抗っても無駄なんだよ。この眼には……学以外映らない」

 兄の瞼が伏せられる。瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。


 もう一度重ねたキスは、深い諦めの味がした。


END




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