嘘とワイシャツとお前
曝け出された素肌に、床へ無造作に投げ捨てられていたシャツを拾い上げかける。
隣で眠る男に抱かれ、その激しさに全身は爆発しそうなほどの熱を帯び、知らず暖房を切っていたのだろう。
夜明けの部屋はとても寒かった。
「おい」
よく眠っている男の肩を揺する。
「おい、なぎさ」
鼻にかかった音を小さく漏らして、その美しい男は目を覚ました。
「…ん、なに…めぐ」
巡は少しだけ間を置いて、眠そうに切れ長の瞳を細く開いた渚に言葉を落とした。
「俺、お前と別れて今日この家を出る」
ほんのちょっとした、冗談だった。
世間がなんだかんだと毎年下らないことで騒いでいるから、今年は自分もやってみるかと…本当に思いつきで言っただけの、嘘だった。
「ふうッ!?」
視界がぐるっと回る。
肩に食い込む指、骨が軋むほど全身にかけられる体重。
「そんなの、俺が許すはずないでしょう」
「なっ、なぎ…」
寝起きとは思えぬ程強い目で、渚は巡を見下ろした。
「二度とそんな気を起こさないように、今度こそ繋いでやる」
かけられていた体重が無くなる。
巡から離れた渚は、一度何処かへ消えると直ぐに寝室へと戻って来た。手に、ビニール紐を持って。
「お前、それ何に使う気…?」
「分かってるくせに」
無表情な渚がベッドに膝をかけギシっと不気味に軋ませる。その音に気を取られた瞬間、右腕は渚に捕まった。
「ま、待て、やめろ! 嘘だから!」
「何が?」
「出て行ったりしねぇから!」
「それだけ? 別れるって」
「別れるつもりもねーから! だからそれ、仕舞え!」
ジッと黙って巡を見下ろす渚。その瞳はなんの熱も持っていない様に見えて、巡の背中に冷や汗が流れる。
やっとこの男の凍てついた心が溶け始めていたのに、また戻ってしまうかもしれない。こんな下らない嘘、つくんじゃなかった。
巡が後悔とともに固唾を呑むと、それを見ていた渚がふっと空気を和らげた。
「そんなに怯えないで、めぐ。冗談だよ」
「…え?」
「エイプリルフールでしょ? 分かってるから、縛り付けたりしないよ」
渚が持っていたビニール紐の塊を床に投げ捨てる。
「でも珍しいね、めぐがイベントに乗っかるなんて」
「あ…あぁ…ま、まぁ」
はだけていたシャツをかけ直される。
「本気で怒ったかと思った」
「俺が?」
巡がコクコクと首を盾に振ると、渚はまた可笑しそうに顔を崩した。
「怒るわけないでしょ? ほら、そんな格好で布団から出るから、躰が随分冷えちゃってる」
渚は自分の体温を含んだ布団の中に巡を押し込むと、自分も隣にもう一度横になった。
「今日は昼までこうしていよう」
布団の中で絡まる渚の肌の温もりにホッと息を吐く。やがて髪を優しくすかれる内に、巡は先ほどまで持っていた危機感と恐怖も忘れ、ゆっくりと眠りの底へと沈んでいった。
静かに眠りについた巡を見て、渚が穏やかに微笑む。
「怒るわけがないじゃない」
だって、別れるなんてそんなこと、俺が許すわけないもの。
「逃がさないよ、絶対に」
渚が持って来たビニール紐。
随分と幅の広いそれが、いつも巡が雑誌をゴミに出すときに使うビニール紐とは全く違うものだと彼が気付くことは、この先あるだろうか。
『この紐を使わずに済みますように…』
美しい男はただ、それだけを願っている。
END
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