月の宮人
キラキラと輝く空間。耳に心地良く響く音楽と、それを楽しむ姿形の整った人形たち。
一度は足を踏み入れてみたいと誰もが望むその場所も、幾度となく見てきた私には何一つとして新鮮さを感じるものはなく、早々にその場への興味を失った私は、ただ只管に好奇と欲望に塗れた視線に晒され続けることに耐えていた。そんな私の視界を、珍しい輝きを持つ少年がひとり横切った。
まるで自分だけは別世界の生き物だとでもいうように、煌びやかなアルファやオメガのフェロモンに少しも惑わされることなく給仕に勤しむその少年。
自身を売り込むための笑みを見せることも、失礼な態度を取るアルファやオメガに怒りを見せることもなく、まるで心など持たぬ機械の様にただ動き回る。
この場の誰もが今この時への執着を滲ませ、次への期待を浮かべている中で、彼だけがその輪から外れていた。
目が、離せなくなった。
「君、彼の名前を知っているかい?」
目の前を横切ろうとした別の給仕係を捕まえて問えば、頬を林檎の様に紅く染めて私を見上げる。浮ついた声で零された彼の名を一度だけ小さく復唱すると、それだけで私の胸の奥がジリっと焼けついた。
直ぐにでも溢れそうになった想いを押し込めて、目の前の林檎に笑いかけお礼を述べれば、林檎はあっと言う間に食べごろへと熟れて見せた。
アルファとオメガ専用の社交場で給仕に使う人間は、必ずベータだと決まっている。それはベータがアルファやオメガのフェロモンに当てられ難いからであるが、彼らも全くフェロモンを感じない訳ではない。現に目の前の給仕係はベータであるにも拘わらず、私のフェロモンに当てられ蕩けきっている。きっとあの彼も、給仕係に配属されているのだから例に漏れることなく性はベータなのだろう。だが、同じベータであっても目の前に転がされた林檎とはまるで違う。
彼は、ただその名を口にするだけで私の凍てついた心を焼いてみせたのだから。
彼の次の給仕日が決まったと、ホテルの支配人から連絡が来たのはそれからひと月ほどたった頃だった。
◇
耳元で囁けばいじらしくその身を震わせて、縋るように私のシャツを握る。彼のその仕草だけで私の胸の内はあっという間にマグマの如く溢れ出し、彼を酷い方法で求めてしまう日もあった。
硝子細工を扱うように大切にしたいと思うのに、どうしても荒ぶる気持ちを抑えられない。
数多のオメガと出会い、誘いをかけられ躰を重ねても感じることのなかった、この身を焦がすような熱い想い。彼に出会うまでそんな激情を抱いたことはなく、次々に暴かれる嫉妬の塊のような自身の姿に笑いが込み上げる。
まさか私に、こんなにも人間臭い面があったとは。
『どうして…』
彼はいつも、届くはずのない天窓のその向こう側にある月を眺めて呟く。
なぜベータである自分が、アルファである私に捕まってしまったのか。アルファに選ばれるべきは、オメガではないのか。
別世界に住んでいたはずの彼は私の手によってこちら側≠ヨと堕とされ、その身に重苦しい枷を嵌められこの小さな世界へと繋がれた。
自分は一体、どこで何を間違えたのだろうかと、彼は自身へ問いかける。あたかも間違いは自分にあるとでも言うかの様に、何度も、何度も、何度も。だが彼は、何一つとして間違いを犯してはいないのだ。
ただ、もしもあえて彼の間違い≠一つだけあげるとすれば、それは彼がベータとして生まれた事でも、あの場で給仕をしたことでもない。
彼が彼≠ニして産まれ、私と出逢ってしまったことだと言えるだろう。
一度この世の摂理を外れてしまえば、あとは自身の欲望に従うまで。
私はきっとこの先、何度生まれ変わろうとも彼を見つけ出し手に入れるだろう。例え彼がどんなに姿形を変えようとも、私はありとあらゆる手を尽くし彼を探し出す。そうしてまた、彼を私と言う名の牢獄へと繋ぐのだ。
月明りを受けて鈍く反射する、自身を拘束する鎖を見て悩み続ける彼は、狂った星に堕とされた哀れな月の欠片。
一度堕ちた欠片は二度と元の場所へと返されることはなく、決して満ちることのない月が浮かぶ狂ったこの世界で、永遠に囚われ続ける。
END
2017/01/03
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