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 電車から転げ落ちるように飛び出した。
 彼の家に近づくにつれて手の震えが酷くなる。震えを止めようと自身で握りしめれば分かる、細く頼りない子供のような自身の手。
 幾ら強く握っても震えは治まらずひどくなるばかりで、それはまるで、こんな手では誰も救うことはできないと嘲笑われているかのようだった。
 それでも僕は、唇を噛み締めひたすら走った。
 
『間に合うと良いね、鶫』

 そう言った季兄さんの言葉を思い出すたび肝が冷える。兄は一体、彼に何をするつもりなのだろうか。もう、何かしたのだろうか。
 既に数回訪れたことのある彼のアパートの前にたどり着くと、僕の鼻腔を甘い香りがくぐり抜けた。これは間違いなくオメガの香りだ。それを裏付けるように、彼の部屋の扉の周りには既に幾人かのアルファが集まり始めていた。

「どいてください! 彼は僕の番です!!」

 熱に浮かされたような目つきで扉を一心に見つめるアルファ達を押し退けて、予め教えてもらっていた暗証番号を扉のキーに打ち込んだ。開錠して扉を開けると、一心不乱にその中へ身をすべり込ませる。他のアルファが入る余裕を与えず扉を閉めることに成功したものの、リビングへと続く廊下に目を向け僕は崩れ落ちた。

(どうして…)

 熱気のようなフェロモンに襲われ、頭の中でバクチクが暴れまわっているような衝撃を受けながらも、僕は目の前でしっかりと絶望を捉えた。

「車を使えば良かったのに」

 そう言って慈愛に満ちた目を向けるのは、先ほど僕が背を向けたはずの男だった。

「季…兄さん…」
「鶫、お前ももう分かっているんだろう?」

 手遅れだってことが。
 蠱惑的な唇が、残酷な言葉を零して弧を描いた。

 膝をつき俯いた僕の瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。
 部屋の前に来た時は、まだ気付けていなかった。扉の周りにアルファが集まっていたからだ。けれど、その全てを追いやって中に入ったはずなのに、この部屋の中には既に濃厚なアルファのフェロモンが充満していた。
 そしてそれは、兄・季のものでも、もちろん僕のものでもなかった。

「おいで、鶫」

 廊下に崩れ落ちたまま動けずにいる僕に季兄さんが手を差し伸べる。けれど僕は、その手を掴むことができないでいた。
 どうしたら良いのか分からなかった。恐ろしかった。だってこの手を掴んでも、掴まなくても、きっとその先には絶望しか待っていない。そう分かっているからこそ受け入れることも、拒否することさえもできなかった。

「鶫」
「ひっ、やだ!」

 動けず蹲ったままでいる僕に手を伸ばした季兄さんは、腕だけでなく僕を腰から支え抱き上げた。

「イヤっ! やだっ、行きたくない!!」

 季兄さんの肩を力いっぱい叩くが、細身に見えるその躰はビクともしない。気付けば僕は抱き上げられたまま、リビングのドアをくぐっていた。

「ッ、」

 廊下ですら視界がグラつくほど強く感じた番のフェロモンは、リビングに入った途端その比ではなくなった。まるで熱いドロドロの液体の中を動いているようだった。
 頭の中が痺れ、あらゆる感覚が鈍くなっていく。しかし、そんな番の熱に浮かされ鈍った鼻でも分かる、その中に交じる別の匂い。王の座を奪い合うために、互を牽制しあう為にある、その独特な匂い。オメガには堪らない媚薬となり、同じ性を持つものには毒にしかならないそれは。

「鶫、良く見て」

 しがみついたままの僕を引き剥がし床に下ろすと、ダラリと垂れ下がった僕の腕を掴み引きずるようにして寝室の前に立たせた。

「ほら、何が見える?」
「ッ、」

 兄の細く綺麗な指が寝室の扉にかかる。そこからは全てがスローモーションのように動き、無理矢理上げさせられた視線の先に広がる光景に僕は息をするのも忘れた。

 ひと月ほど前。
 彼が次のヒートを迎えたその時こそ、永遠に結ばれようと誓い口付けを交わした小さなベッドの上。そこで僕の運命は、兄の右腕と呼ばれるアルファに組み敷かれ、その身を焦がし涙を流していた。
 アルファらしい長く美しい指にその身の内を暴かれ、混ぜられ、引っ掻かれて。呼吸もままならずただひたすらに喘いで。

「――…」

 彼の名を小さく呟く僕の声など聞こえていないのだろう。彼は乱される躰を持て余しながら、涎を零し、僕ではなく彼を抑え付け弄ぶアルファに手を伸ばした。

「…れてぇ…っ、…やく、入れてぇっ」
「どこに?」

 季兄さんよりも、もう少し低く掠れた声が尋ねる。

「ここぉっ、ここにぃ!」

 はしたなく腰を突き上げて、ここに入れて欲しいとその場所を自ら開き男を導いた。

「俺で良いのか?」
「あっ、あっ、あなたのがいいぃ」

 彼を押さえつける男が季兄さんに視線を送る。その視線に、季兄さんは軽く口角を上げてみせた。ただ、それだけのやり取りだった。

 男が無言で腰を進めれば、部屋の中には初めて聴く彼の甘い声が高々に響き渡り、噛み付かれた彼の折れそうな程細く白い項には、真っ赤な大輪の花が咲き乱れた。



 僕がその場に崩れ落ちなかったのは、季兄さんが僕を腕の中に抱き込んだからだ。

「彼はお前を選ばなかったね。お前は彼を、守れなかったね」

 運命の証明には程遠い。
 抱きしめる腕は優しいのに、囁かれる言葉は少しも優しくなかった。


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2016/08/30



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