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生活環境の変化というものは、案外簡単にそれまでの常識を覆していく。
「季兄さん、あの…夜鷹兄さんに会いたいのですが」
「今日は木曜ではないだろう? お前が夜鷹に会うのは木曜の夜だけだ」
「ですが…」
「鶫」
季兄さんの凛とした声に、僅かに怒気が孕んだ。
「あれは千鶴に任せてある。いいね?」
「……はい」
血の繋がった実の兄に会うのに許可がいることに疑問を持ったことはなかった。それが当たり前だと、そう育てられて来たからだ。けれど、そんな偏った北大路家の“常識”にいま、僕は疑問を持ち始めている。
どうして自身の兄に会うのに許可がいるのだろうか。
どうして千鶴兄さんしか、夜鷹兄さんに会えないのだろうか。
どうして同じアルファなのに、千鶴兄さんは許されるのだろうか。
今まで気にならなかった決まりごとが、僕の胸中に小さなしこりを残した。
ヒヤヒヤとさせられた受験が終わり、僕は無事、この春から千鶴兄さんと同じ大学に通い始めた。
矢張り周りにはアルファが多く、千鶴兄さんはその中でも特別有能なアルファとして有名だった。けれど、大学内には少数勢ではあるがベータも、そしてオメガも存在した。
優秀だと言われるアルファに落ちこぼれが存在するように、平凡だと言われるベータやオメガの中にも優秀な者は存在するのだ。
高等部までの人間関係は、どこかアルファ性とその他の性との間に一線を引かれたものしか築いてこられなかった。だが、ここは違う。
皆が高い能力を持ち、それは勿論ベータやオメガも同じ事で、アルファに縋らずとも上を目指せる者たちばかりが集っている。みな自身の足で立とうと必死だ。
だからこそ僕らは同じ土俵に立ち、同等の会話をする。お互いを認め、意識を高め合っている。
お陰で僕は生まれて初めて北大路の名に振り回されることなく、兄さん達と比べられることも比較的少ない世界の中を歩み始めていた。
『ベータやオメガは、アルファを利用しようとする脳しか無い』
そう父や兄に聞かされ生きてきた為、一線を引き生活することは当たり前のことだった。疑いもしなかった。そんな僕にとってこの環境は非常に興味深く、そして、見たことのない新しい世界を見せてくれた。
しかしそうして日に日に変わりゆく価値観に、一番に悲鳴を上げたのは僕の心だった。
今まで疑いもしなかったものに疑問を持ち、信じていた存在に反発心を抱くことは想像していたよりもずっと辛く、少しずつ溜まっていくしこりは気付けば大きな腫瘍となっていた。
「に、兄さん…あの、擽ったい…から」
「どうした? いつものことなのに」
季兄さんがくすりと笑う。その顔は相変わらず優しく綺麗なのに、どうしてか躰に悪寒が走った。
兄が自分に触れる。腕に、肩に、鎖骨に、首に、髪に、頬に…そっと指を滑らせて、誰かの痕跡が残っていないかを調べる。
それは僕の物心がついた頃からのことで、初めは父が、そしていつからか兄がその代わりをするようになった。家族とはこうして触れ合うものなのだと信じて疑わなかった。けれど、いざ視野が広がってみたらどうだろうか。
今まで見えなかったものがよく見えるようになって、僕は季兄さんに疑心を抱く。
父は僕を溺愛し、オメガを遠ざけ厳しく監視していたけれど、それは他の兄さん達にも同じだった。けれど、季兄さんは違う。
季兄さんは僕以外に何も言わない、触れない。千鶴兄さんも、夜鷹兄さんだって同じ弟なのに、こうして触れるのは僕にだけ。その触れ方も、矢張り父とは少し違っていた。
季兄さんに触れられるたび、僕の躰はぶるりと震える。これは、本当に兄弟としての触れ合いなのだろうか…?
この疑問は、ひとりで抱えるには余りに重すぎるものだった。
◇
「季兄さんが…?」
漸く迎えた木曜の夜。
僕は積もり積もった季兄さんへの疑問を打ち明けた。それを聞いた夜鷹兄さんが、怪訝そうな顔で僕を見る。そして暫く黙り込んだかと思うと、徐ろに口を開いた。
「悪いな、鶫。俺はこの家から出たことが殆んど無いだろう? だから、兄弟がどう関わることが正解なのか、正直俺にも分からない」
そうして夜鷹兄さんは一度言葉を切ると、思い詰めた表情でもう一度「でも、」と言葉を零した。
「この家が普通でないことは確かだよ」
僕はひゅっと喉を鳴らした。
「兄さん、それじゃあ僕は…」
「鶫」
夜鷹兄さんの重々しい声が畳の上に落ちる。
「拒絶を起こす気持ちも、嫌悪を持つ気持ちも分かる。だってそれは、きっと本能だ。…だが、悪いことは言わない。この家に…季兄さんと千鶴には逆らわないほうがいい」
「夜鷹兄さん…?」
「俺とお前はどこか似てる。だからこそ俺は…お前が心配だよ」
そう言って俯いた夜鷹兄さんに、僕は何も問うことができなかった。
そのまま自室に戻り畳の上に仰向けになると、先ほど夜鷹兄さんに言われた言葉を思い出す。
『季兄さんと千鶴には逆らわないほうがいい』
その意味だけは、深く追求せずとも分かる気がした。
普段から近寄りがたく思われがちな季兄さんと比べ、千鶴兄さんには北大路家の人間にはあまり見られない緩さがある。いつも笑顔で、一見人当たりが良いように見えるのだ。けれど、深く近づこうとすれば直ぐに分かる。彼は、季兄さんよりも強い拒絶のオーラを纏っているから。
ふたりを怒らせることが得策でないことは明らかで、夜鷹兄さんの言う意味もわかる。けど、気になったのはそのあとの言葉だった。
『俺とお前はどこか似てる。だからこそ俺は…お前が心配だよ』
夜鷹兄さんは、僕の何を心配しているのだろうか? 兄たちに逆らい、僕が叱られることだろうか? ただそれだけのことで、あんな顔をするだろうか…。
俯いた兄の表情を思い出す。それは酷く暗く、何かを深く恐れている顔だった。
『鶫、』
部屋を出る間際、夜鷹兄さんが絞り出すような声で僕を呼び止めた。
『この世には、逆らえないはずの運命に逆らえる奴がいる。変えられない運命を、変えてしまえる奴もいる。それが、季兄さんと千鶴だ』
『え…?』
『鶫…、頼むから目の前にある運命に惑わされないでくれ』
お前が傷つく姿は見たくない。そう言って今度こそ夜鷹兄さんは口を噤んだ。
夜鷹兄さんは、季兄さん達の何かを知っているのだろうか。
この僕が、まだ知らない何かを。
遠くでひぐらしが鳴いていた。
その鳴き声は、いまの僕を酷く不安にさせた。
◇ ◆ ◇
“運命”とは、避けられぬからこそ“運命”なのだと、そう思い知ったのは僕か、それとも。
「僕…好きな人ができたんだ」
それを聞いた夜鷹兄さんが、夕食の盆を受取りそびれ息を呑んだ。
「それは…大学の?」
「うん」
「性は?」
「……オメガ」
ふたりの間に、酷く重苦しい空気が流れた。
「相手は“運命”、なのか…?」
夜鷹兄さんがいつになく心配そうな表情を見せた。きっと彼は、違うと首を横に振って欲しいに違いない。けれど僕は、それを裏切り首を縦に振った。
「そのこと、季兄さんには」
「言ってない。言えるわけないよ…」
運命は、すぐ近くに落ちていた。
大学の中庭にある芝生の広場。そこに植えてあるコブシの樹の下に“彼”は居た。
僕と大差ない身長と体格、そして同じ性別。それでも、豊かな緑をつけた樹の下に立つ彼は、アルファである僕より幾分も儚げに見えた。
声をかけたわけでもないのに、自然と互いの視線が絡まり呼吸が止まる。まるでこの世界にふたりしか存在しないかのように、穏やかな静寂が産まれ、僕らは…。
父や兄が忌み嫌っていた運命。だがそれは、僕の視界にキラキラと星を散りばめ世界を鮮やかに彩った。
「とても綺麗な人なんだ。僕なんかには勿体無いくらい、凄く綺麗で…」
「でも鶫…」
「分かってる、季兄さんは絶対に許してくれない」
例えどんなことが起きようとも、季兄さんがオメガを受け入れる未来など無いと、期待するだけ無駄なことなのだと。そんなことは、僕自身が痛いほどこの身で感じてきたことだ。けれど運命の番との出会いの素晴らしさを知ってしまった今、それを簡単に諦めることはとても困難だった。
「僕が彼を守ってあげたい。幸せにしたいんだ」
夜鷹兄さんが大きく息を吐いた。
「悪いことは言わない、諦めたほうが良い」
「どうして? どうしてそんなこと言うの…? アルファがオメガを求めるのは本能なんだよ?」
父がオメガを嫌う理由は分かる。兄がオメガを嫌うのも理解できる。だけど、それと僕とはまた別の話ではないのか。
「大学に入るまでは疑いもしなかった。オメガはアルファを脅かす癌なんだって、そう思ってきたから」
でも違っていた。
オメガもアルファも、ベータだって関係ない。誰もがその枠を飛び越え学ぶことができるし、恋だってできる。絆を築くことができるのだ。
「そんな中で、僕は“運命”に出会ったんだ。たったひとつの“運命”なんだよ。…この運命に逆らいたくない。僕、季兄さんに話すよ」
「鶫!?」
立ち上がった僕に夜鷹兄さんが悲痛な声をあげる。分かっている、季兄さんにだけは言うべきじゃないということは。
だからこそ僕は、この気持ちを夜鷹兄さんに打ち明けた。季兄さんでも、千鶴兄さんでもなく、夜鷹兄さんなら僕の気持ちを理解してくれると信じていたから。
オメガを頑なに拒んだアルファの過ちから生まれた夜鷹兄さん。
酷い仕打ちで実母を亡くし、義母の気を狂わせたと実の父からも、兄からも恨まれ。こんな小さな部屋に閉じ込められて生きるしかない、この家一番の犠牲者であるオメガ。
そんな夜鷹兄さんだからこそ、この家の中で僕を理解してくれる唯一の人だと思っていた。
アルファがオメガを受け入れることの素晴らしさを、受け入れられることなく生きてきた彼だからこそ分かってくれるはずだと、喜んでくれると、そう思っていたのに。
「運命は、受け入れる為にあるんでしょう?」
再び呼び止めようとする声を無視して、僕は夜鷹兄さんの部屋から外へ出た。
きっと、季兄さんに隠し事をすることは難しい。僕が運命を手にしたその時、彼は誰よりも早くそれに気付くだろう。そして隠していた分余計に、僕を責め立てるに違いない。だったら。
「始めから向き合うしかないじゃないか」
夜鷹兄さんが止めた本当の意味も分からぬまま、僕は。
自ら望んで、
運命の崩壊へと歩み進む――――
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