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魚上氷*



 吐中枢花被性疾患───通称『花吐き病』。

 片想いを拗らせると発症するという、俺たちが生まれるより遥か昔から言い伝えられているお伽噺に近い奇病を、まさか目の前で目撃するとは。

「ゲホッ、ゴホっ」

 バサバサと本当に喉の奥から這い上がった花が、口からこぼれ落ちる。
 ぜぇぜぇと肩で息をする男の額には薄っすらと汗が浮かび、その目は床に落ちた花を見つめていた。
 人形の様に整った男の顔はいつも無表情で、何を考えているのかさっぱり分からない。そう、いつもは全く分からないのに、この時吐き出された花を見つめる男の瞳の熱に、俺は気付いてしまった。
 嗚呼、この男は確かに……誰かに密かな想いを抱いている。

 奇しくも花を吐いたその男は、自分の旦那であったのだけど。


 ◇




 ピカピカに磨かれた大理石が敷き詰められた廊下、その上にひらりと落とされた一枚の花弁。それを、指先でそっとつまみ上げた。
 薄紅に色づいたそれは、光を透かすとなんとも言えない美しさで光る。まるであの人の心そのものを見ているみたいだと思った。

「───、──────!」

 聞こえてきた高い声に視線だけで窓の外を見下ろせば、新芽の鮮やかな緑に囲まれた庭の中に見知った顔がふたつ、仲良さげに並んでいた。
 何を話しているのかまでは聞こえないが、会話はとても弾んでいて楽しそうだ。
 片方は、幼い頃から隣で見てきた太陽のような眩い笑顔。そしてもう一つは、

「あの人、笑うんだ」

 この半年間、同じ屋敷で暮らしてきた自分には一度も見せたことのない顔をしていた。


 半年前、俺はひとりの男と結婚をした。
 同性同士の結婚など、三十年ほど前ならどんな冗談だと笑われるような話だが、今では当たり前になりつつある。
 子供をつくることも、専用の蟲を手に入れる財力さえあれば、リスクは伴うが不可能ではなくなったからだ。
 だから本当なら、一般的な結婚生活を送れるはずなのだ。……これが、恋愛結婚であったなら。

『昌樹、お前に縁談がきている』

 普段は挨拶さえしない父親が、珍しく話しかけてきたかと思ったらコレだ。

『……は? 相手は?』
『阿須間家の御子息だ。馬鹿なお前でも名前くらいは知っているだろ』
『あすま……? まさか、阿須間澄人!?』

 俺たち資産家の世界で『阿須間』といえば知らぬ人間はいない、泣く子も黙る超富裕層の一族だ。その一族の中でも、俺たちより五つ年上である阿須間澄人の資産運用の能力はずば抜けていて、投資家などからは神のように崇められていると聞く。
 そしてそんな男は、金儲けに有能なだけではなかった。
 曽祖父から受け継いだであろう髪はプラチナブランド。同じ色の睫毛に縁取られた瞳は、美しい南国の海の上に金箔を散りばたように輝いている。
 黙っていると冷たく見えるその美貌と、プロのモデル顔負けのスタイルを合わせ持った、まさに神に愛された存在だった。

『いやいやいや、なんで俺?』
『高辻(うち)だけじゃない。岩崎家、南條家にも話は来ている』
『全員男だけど』
『そういう趣味なんだろう』

 神に愛され、神と崇められる男の伴侶として選ばれたのは、なぜか俺とその幼馴染たち。
 確かに面識はあるが【青年会】なんてダサい名前の集まりで何度か挨拶を交わした程度だ。

『まあ、南條家からはすでに断りの返事が返されたようだが』
『だろうな。貴文が男と結婚なんてありえない。……じゃあ、詩央に決まりだろ』

 阿須間澄人が神に愛された存在なら、岩崎詩央は天使に愛された存在だ。性別は男であるが、今年成人したいまでも美少年と呼ぶに相応しい外見。華奢で、小柄で、男が全力で守りたくなるようなそんな存在。
 光が溢れるような笑顔に、過去何人の男たちが虜になってきたか分からない。
 もう一人の候補者である南條貴文も、詩央とは全く違うタイプではあるがかなりの美男だ。だがどう考えても同性に守られるタイプではない。オマケに酷い女好きだった。
 いくら同性婚が当たり前になりつつあっても、全ての人間が同性を愛せるわけではない。それは昔から変わらない。案の定、貴文は秒であの貴公子からの縁談を断った。
 だとすると、選ばれる可能性があるのはただひとり。
 格だけでいえば俺の家の方が若干上だが、伴侶選びとなればそれだけでは勝てないだろう。そう、勝てない。
 例え俺が昔からあの人に憧れ、いつの日からか憧れを遺脱し色づいた感情を持っていたとしても……金持ちな実家しか取り柄のない、平凡で退屈な男が、あの人に選ばれる訳がないのだ。
 だが、蓋を開けたら選ばれていたのは俺で。
 疑いようのない政略結婚が、そこに固く結ばれていた。



 半年前の、この家に嫁いだ日のことを思い出す。
 美貌の無表情ほど怖いものはなく、何を考えているのかわからない夫の横は座っているだけでも緊張して死ぬ思いだった。
 俺と彼との結婚が決まってから、詩央はずっと泣いていた。どうして、どうしてと泣いていた。それもそうだろう、縁談の話が出てからというもの、詩央は彼の元へと足繁く通っていたのだから。
 逆に俺はというと何もしなかった。本当に、何も。努力したところで詩央に勝てる訳がないからと、一度たりとも彼には会いに行かなかったし、彼からの誘いもなかった。
 結婚の話などなかったものとして心を閉ざしていたのに、なぜか選ばれたのは俺だった。理由は、ただ一つ。
 彼は自身の想いを殺し犠牲にして、高辻家との繋がりを選んだのだ。その証拠に、あの人の形の良い唇からは毎日苦しい想いが形となって吐き出されている。
 切ない恋の欠片が、こうして屋敷の片隅に残されている。

 明日は俺の二十歳の誕生日、結婚してから半年が経つ。だがその後ろを振り返って見ても……俺たちの間には、何も残されてなんていなかった。





「元気そうだな」

 そう言って意地悪に笑う貴文に、俺は隠さず顔を歪めた。

「お前ってほんとに昔から嫌なやつだよな」
「そんな俺と大親友なくせに?」
「滅多に会いに来ないくせに何が親友だよ。幼馴染ってことすら忘れそうだ」
「お前の旦那が許可してくれれば、俺だってもっと会いに来れるんだけどな」
「許可? そんなの必要ないだろ、いつでも会いに来たらいい」

 本気でもっと頻繁に遊びに来て欲しい。
 唇を突き出して不貞腐れる俺に、普段から強気で意地悪な貴文が珍しく眉を下げて苦笑した。

「知らないってのは怖いことだな」
「何がだよ」
「さあ?」

 貴文が笑いながら出された紅茶に手を伸ばす。あまりにやることがなく暇で、俺が自分で作った紅茶だ。

「結婚して半年、お前も明日で二十歳か」
「……最低の半年間だったよ」

 例え政略結婚であったとしても、互いの時間を共有していけば多少なり情が湧いたりして、既婚者としてそれなりの生活を送るのだと思っていた。だがそんな想像は、新婚初夜にすでに切って捨てられている。

『何もしなくていい』

 ただその一言だけを俺に投げつけ、旦那になったはずの男は背を向け隣の部屋に消えていった。その日から今日までずっと、俺たちは夫婦になったにもかかわらず別々の部屋で眠っている。

「さっきの庭でのアイツら、見た? まるで恋人同士だった」

 何が『二十歳のお祝いパーティーをしよう』だ。そんな話すら本人からではなく、使用人の冷たい声から聞かされた俺の気持ちは? 俺との誕生日を餌に、意中の相手を呼んで堂々とイチャつく姿を見せられる俺の立場は?
 片恋が原因で花を吐き出す病を罹った夫を持つ俺って、一体なんなんだろう。

「俺たちなんて、キスどころか手すら繋いだことが無いんだぜ。会話だってほどんどない」

 忙しい彼と共有する時間といえば、朝食の時だけ。その時間だって男の目は俺を見たりしないし、食べる以外に口を開くこともあまりない。

「俺では詩央の代わりどころか、性欲処理の道具にもならんのだと」
「昌樹……」

 嫌味くらい言いたくもなる。
 パーティだって当日に来れば良いだけなのに、なぜか前日からやってきた彼らをお泊まりまで許可してお持てなし。
 俺の記念日だぜ? それなのに、旦那ときたら自分の妻はほったらかしで天使に愛された幼馴染につきっきり。いくら詩央に想いを寄せているにしても、あからさまにやりすぎだ。

「俺、そろそろ限界だわ」

 大きく溜息をついた俺の肩に、貴文が手を置いた時だった。

 ───コンコン

『奥様、お夕食の準備が整いました』

 温かみの無い使用人の声に呼ばれ、「奥様だってさ」と互いの視線を合わせ笑う。

「腹減ったし、行くか」
「そうだな」

 いつもはシンと静まり返った食卓も、今夜は貴文が居てくれるからまだマシだ。
 例え目の前で旦那と幼馴染が仲睦まじく寄り添っていても、貴文が居れば耐えられるかもしれない。
 重い腰を上げて自室から出れば、俺たちを待ち構えていた使用人が頭を下げて歩き出した。その後ろについて行こうとして、しかし足が止まる。

「ッ、」

 冷たい視線を俺に向ける旦那───阿須間澄人がそこに立っていた。

「あ、っと……」

 貴文が彼に何か言おうとすると、その冷たい眼差しをゆっくりと曲げて笑う。

「すまないが、貴文くんは先に行っていてくれるかな。私たちも直ぐに向かうから」

 有無を言わせぬ空気を纏う彼から、視線を外し俺を見た貴文に頷いて見せる。心配そうに眉を下げたものの、ではお先にと歩き出しやがて姿を消した。
 しっかりと俺の方に向き直った阿須間が、俺に冷たいままの視線を投げてよこした。

「いかがなものかと思うが」
「……何が、ですか」

 急にそんなことを言われても、なんの話だかさっぱり分からない。眉を顰める俺に、彼は先程よりも更に冷たく凍えるような眼差しを俺に突き刺した。

「既婚者が、自室に未婚男性を連れ込むことだ」
「なっ!?」

 貴文は幼馴染なのに、連れ込むだなんてあまりの言い草だ。

「貴文は幼馴染で友達です、俺たちの間にやましいことなんて一つもない」
「それでも、疑われぬよう扉くらい開けておくべきだ」

 聞き耳を立てている使用人たちに会話が丸聞こえになっても、部屋の扉を開放して友人と話をしろと? 不貞を疑われなように? ……言われて頭の中で何かがブチりと切れる。
 数時間前に庭で見た、この男と詩央の寄り添う姿を思い出した。自分には一切向けられることのない笑顔を、詩央に向けていた阿須間。

「なるほど、明るい陽の下でなら堂々とイチャついても良いんでしたね。貴方を見習って、今度から俺もそうします!」

 思いきり睨みつければ、整いすぎた無表情が少しだけ驚いたように崩れた。

「苦しいのが自分だけだなんて思うなよ」
「なにを言って……」

 阿須間がまだ何か言おうとしていたが、もう何も聞きたくなくて彼に背を向ける。が、

「待ってくれ、君は何を……ゴホッ、ゲホッ!」

 激しくむせるその音に思わず振り返ると、彼が苦しげに膝をつきうずくまっていた。

「ちょ、おい……大丈夫かよ!」
「触るなッ!」

 思わず伸ばした手は、痛みを伴う強さで振り払われた。
 激しく咳き込むたびに、ぽとぽとと口元を押さえた彼の指の隙間から花が落ちる。漸く咳がおさまった頃、阿須間は溢れ落ちたその花を、ゆっくりと大切そうに長く綺麗な指で拾い上げた。

「君は……君だけは、絶対に触らないでくれ」

 祈るように呟かれたその言葉は、俺の心を大きく引き裂き傷つけた。



 自分の旦那から一番遠い席に座る俺と、一番近くに座る可愛い詩央。
 妻である俺には向けたことのない笑顔を浮かべて話す彼を、もう見ていられなかった。

「俺、部屋に戻るわ」

 夕食にほとんど手をつけずに席を立つ。目の前の光景を見て、食べ物なんて喉を通るはずがなかった。
 席を立ち歩いて行く俺の横顔に強い視線が突き刺さるが、結局最後まで声をかけられることはなかった。

「ねえ、さっさと離婚したら?」

 自分の部屋のドアを開けようとしたところで、後ろから無遠慮な声を投げつけたのは詩央だった。
 俺の後を急いで追いかけてきたのか、肩で息をしている。

「……なに、」
「今日一日ふたりを見てたけど、とても夫婦には見えなかったよ」

 詩央は俺を見下す目をしていた。そんな顔をしていたって可愛いんだから、本当に世の中は不公平だ。

「結婚した意味、全くないんじゃない? もう離婚した方がいいと思うな」

 意味がない? 夫婦に見えない? ……そんなの俺が一番分かってるんだよ。
 分かっていても離れられずにいた。どこかにまだ期待できる何かを探していた。
 希望の見えない地獄のようなこの半年間を、それでも藁にもすがる思いで過ごしてきたのは……。

「悪いけど、それは俺が決めることじゃない」
「知ってる。だから俺、明日澄人さんに頼もうと思ってるんだ。昌樹と離婚して、俺をお嫁さんにしてって」

 ────は?

「今なら分かる。澄人さんは、きっと俺の気持ちを試してたんだね」
「なに、それ」
「だぁって。昌樹と澄人さん、セックスどころかキスすらまだなんでしょ? 愛し合ってる夫婦が、半年経って何もないって普通あり得ないでしょ」
「……なんで知ってんだ」
「そりゃあ本人に聞いたからだよ」

 あの人は、こいつにそんなことまで話したのか。目を見開いて固まる俺に、あははと春風のように爽やかに笑う。

「ごめんね昌樹、巻き込んじゃって。俺、男だけど心は乙女だからさ、相手からグイグイ来て欲しかったんだ。でもそのせいですれ違っちゃったみたい」

 だから、明日。わざわざ、俺の二十歳の誕生日に。

「俺から、澄人さんにプロポーズするよ」

 満面の笑みを浮かべた詩央の顔は、やはり天使に愛されるほどに美しいものだった。


 自室の床に蹲る。胃の中で重たい石がゴロゴロと暴れ回っているような感覚に、まともに立っていられなくなった。

 ゲホッ、ゴホっ、う"っ……

 急に喉の奥から何かが迫り上がってきて、慌てて口元を手で押さえる。しかし抑えきれなかったものがの隙間からぼたぼたと零れ落ちた。

「なんだよ……これ……」

 手のひらを越えて床を汚したのは真っ赤な液体。だがそれは、血ではなかった。
 ツンと鼻の奥まで届くほどに強い花の芳香が辺りに漂う。

「は……はは……はははッ!」

 口元を赤く染め、ドロドロに溶けた花であったであろう液体を見つめて笑う。あの人の、綺麗な花となった想いとは大違いだ。俺の気持ちは形になるとこんなに醜い。
 足元の真っ赤な水溜りの中、なり損ないの花の欠片が静かに浮かんで揺れていた。


 明日になるのを待つことができず、俺は小さなスポーツバッグに僅かな荷物を詰め込んだ。
 半年の間、夫どころか使用人たちからもずっと邪魔者扱いを受けてきたのだ。俺が出て行こうと止める者などいないだろう。
 そうして飛び出すように部屋を出たところで、思わぬ相手に捕まった。

「こんな時間にどこにへ行くんだ。……その荷物はなんだ?」

 大きな手が俺の二の腕をしっかりと掴んでいる。

「ここを出て行きます。もっと早くにこうするべきだった」

 西洋の人形の様に整った男の顔が、珍しく大きく表情を変えた。
 
「出て行く、とは?」
「ここには二度と戻りません。離婚届は後から送ります。もう行きますから手を離してください」
「君は何を言っているんだ!? 離婚届だなんて……明日は君の誕生日で、そのために岩崎くんや南條くんも駆けつけて」
「ふざけんな! 俺をダシにして詩央に会おうとしただけだろ!?」

 掴まれた腕を自身の方へと力一杯引き寄せる。しかしそれでも、阿須間の手は離れなかった。

「離せっ、離せよこのっ!!」
「離さないっ、行かせない! なぜ離婚だなんて言う!?」

 その言葉に心の糸がぷつりと切れた。

「じゃあ逆に聞かせてくれ。なぜ俺と離婚しない? そもそも、なんで俺と結婚した?」

 最初から不思議だった。俺の家との繋がりなんて、この人には必要ないはずだ。家だけじゃない、もちろん俺個人にも興味はないし、その上この人には花を吐き出すほどに恋しい相手がいる。

「この半年間、目も合わないし会話もない。夫婦なのに寝室も別々だし、キスどころか手を繋いだこともない」

 セックスなんて問題外だと阿須間を睨めば、何故か彼の顔が血色ばんだ。

「オマケに貴方には、病を患うほどに愛しい相手がいるんでしょ?」
「それは、」
「俺はこれ以上ここで飼い殺しになるのはゴメンだ」
「なっ、飼い殺しだなんてそんな」

 阿須間が何か言おうとしたその時、胃の奥から込み上げるものがあった。まずい……そう思った時にはもう手遅れだった。

「うえっ! う"っ、ゲホっ!!」
「昌樹!?」

 俺の名前、知ってたんだ。そんな嫌味は口にできなかった。
 口からぼたぼたと落ちるのは先程見たばかりの醜い心。手の甲で口元を拭えばそこは真っ赤に染まり、ぴかぴかの床も汚れてしまった。
 ぶわりと強い花の香りが舞う。

「すみません、ここは片付けてから出て行きますから」
「…………」
「あの、」
「だから、触るなと言ったのに……」
「えっ、……わっ!?」

 掴まれていた腕を素早く持ち直され、強く引っ張られた。持っていたスポーツバッグは床に転がり、拾うことは叶わなかった。
 
「ちょっ、ちょちょちょちょまっ!?」

 ほとんど引き摺られるようにして阿須間に連れて行かれたのは、彼の寝室。まだ一度も足を踏み入れたことのない空間に、入った途端ベッドへと突き飛ばされた。

「ちょっ、なにすんだよ!?」

 ベッドに倒れ込んだ俺の上に覆い被さってきた阿須間の顔は、いつもの涼しい顔からは程遠く怖い。怒っているのは間違いないが、何故彼がこんなに怒っているのかが分からない。

「まさか、本当にここまで彼を想っているとは……」
「へ?」
「君が彼を想ってるのは結婚する前から気づいていた。でも、もしもそれを現実として見てしまえば気が狂いそうで! だから絶対に花に触るなと……感染するなと言ったのに!」
「んぅうッ!?」

 阿須間が俺の唇に噛みついた。

「ンうっ! んっ、んん、はっ、あっんん!」

 時折僅かに離される合間に喘ぐようにして息を吸う。だがキスなんて初めての俺には、こんな食われるような激しいものに対応なんてできなくて。

「やっ、ん! く、くるしっ、あすまさ!」
「君だって阿須間だろう!?」

 怒りをぶつけるようなキスはそれから暫く続けられ、漸く互いの唇が離れたころにはもう、俺は力なく四肢を広げてぐったりとしていた。
 そんな俺を、阿須間が泣きそうな顔で見下ろす。

「頼む……こんな……こんなにも甘い気持ちを私以外に向けないでくれ」

 こんな、こんなに甘い……と呟きながら、阿須間が俺の唇を親指で撫でる。
 そういえば、さっきからこの人は何を言ってるんだろう。

「片想いしてるのは、貴方でしょう」

 疲れてぼんやりと霞んだ視界の中で、阿須間が眉を下げた。まるで迷子になった子供のような頼りなさだ。

「しているよ、ずっと……想い続けている」

 自分からふっておいて、本人の口から聞かされると胸が張り裂けそうに痛んだ。堪え切れなかった想いが瞳から溢れる。

「だったらちゃんと好きな人と結婚しろよ! なんで俺なんかと結婚したんだよ!」
「だから君としているじゃないか。みっともなく偽装までして」
「な……?」

 本当にこの人は何を言っているんだ? 全く話が噛み合わない。
 濡れた瞳で彼を見上げれば、先ほどより更に困った顔で俺の濡れたまつ毛にキスを落とした。

「君が南條くんを想っていることには気づいていたけど、どうしても諦められなかった。しかし君との関わりは挨拶程度だし、どう距離を詰めたからいいのかも分からず……そうこうしている間に君と南條くんの婚約話が出たのを耳にして、いてもたってもいられず卑怯な方法で君を手に入れた」

 え、ちょっと待って、俺が貴文を思ってるってなに!? 婚約ってなに!? 俺を手に入れたって、なんの話!?

「罪悪感でいっぱいだった。まだ君は成人すらしていないし。でも手放す気はなくて……だからせめて、君に手を出すのは成人してからにしようと決めていたんだ」

 新婚初夜。心臓が爆発しそうなほど緊張しベッドに座る俺に、ただ一言『何もしなくていい』とそう言って去っていった彼を思い出す。
 あの時に俺は、この人は俺に全く興味が無いのだと確信したというのに。まさか俺はずっと大きな勘違いをしていたのか?

「貴方の片想いの相手って……詩央じゃないの?」

 俺の疑問に目の前の美麗な顔がキョトンとする。

「シオ? とは誰のことだ?」

 ───はい?

 今度は俺がキョトンとする番だった。

「いやいやいや、貴方が今日散々イチャついてた岩崎詩央だよ」

 本気で腹が立ち睨みつけるが、阿須間は少し考え『ああ』と気の抜けた返事を零した。

「そうか、岩崎くんのことか」
「なにそれ、ふざけてんの?」
「いや、ふざけた覚えはひとつもないし、彼とイチャついた覚えもない」

 その言葉に怒りがマグマのように噴火した。

「嘘つき! 今日一ずっと詩央にべったりだったじゃないか! にこにこにこにこ楽しそうに笑って、ずうぅぅぅうっと詩央と一緒にいたくせに! 貴方が好きな相手は詩央なんだろ!? 嘘つくなよ!」

 目尻からボロボロ涙を溢して叫ぶ俺を見て、どうしてか阿須間が嬉しそうに笑う。

「なんで笑ってんだよ!」
「いや、私のことを見ていてくれたのかと思うと嬉しくて」
「はあ!?」

 この人本当に頭大丈夫か? そう不安になった俺をよそに、阿須間は更に満面の笑みで俺を見下ろした。

「君の視界に、私は入らないと思っていたから」
「え!?」
「岩崎くんにはいつも君の話をしてもらっていた。幼い頃の話や、最近のことまで全部」
「俺の話をしてたの……?」
「彼とは君の話以外に話すことはないからね。確かに彼は自分の話をしたがったけど、私は一ミリも興味がないから控えてもらった」

 なんだそれ。

「……詩央のことが好きなんじゃなかったの?」
「なんの話か分からないけど、好きか嫌いかで聞かれれば……うーーーん。どうでもいい存在かな」

 好きか嫌いかより酷いじゃないか。思わず俺が吹き出すと、阿須間はそんな俺を食い入るように見つめた。

「そんなにジロジロ見ないでよ、穴があく」
「いや、君の笑顔は驚くほど可愛いなと思って」
「なっ!」

 好きな相手に組み敷かれた状態でそんなことを言われて、体に熱が溜まらない方がおかしい。
 赤くなった顔を隠すために阿須間の下で体を捩ると、それを咎めるように元に戻される。

「もっと見せてほしい」
「なに言ってんだよ」
「本当はずっと、君の笑顔が見たかった」

 そこまで言われて漸く、俺は一つの事実に近づく。

「貴方の想い人って……もしかして本当に俺なの?」

 これでもし違っていたら今度こそこの家を飛び出そう。そう思ったのに、それは全くの杞憂になった。
 プラチナブロンドの下の白い雪のような肌が真っ赤に染められ、潤んだ瞳で俺を見下ろし言う。

「さっきからそう言っているだろう?」

 今度は俺まで全身が真っ赤に染まった。

「私は君が青年会に初めて来た時から想っているし、この先も君を誰かに渡す気はないんだ」

 だから、出て行かせない。そう言って阿須間が俺の両手に自身の手を絡ませた。
 結婚して半年間、なんの触れ合いもなかった相手との急接近に心臓が跳ね上がる。だがそこで更なる疑問が浮かび上がった。

「でも、じゃあなんで貴方は花を吐いたんだ?」

 この人は俺の目の前で花を吐いた。花吐き病は、誰かに片想いをして発病する奇病だ。もしも本当に俺のことが好きなら、俺たちは両想いということになるのに。
 まさか、俺を騙すために嘘をついて? そう疑心に囚われそうになったその時、思わぬ言葉が投げられた。

「それは君が南條くんにを想いを寄せているからだろう? それもいずれは塗り替えて、必ず私のことを好きになってもらおうと」
「まってまってまってまって!」

 そうだった、情報量が多くて忘れていたがその話もまだ解決していなかった。

「その貴文の話、一体どこから来てんの!?」
「そんなのふたりを見ていれば分かるさ」
「いや全然分かってませんけど!?」

 阿須間が目を細めて俺に疑いの眼差しを向ける。だがそんな目で見られるようなことは一ミリも無いのだ。

「あのね、貴文は男に興味ないの。貴方も結婚話を即行で断られたから分かるでしょ?」
「男に興味がなくとも、君には興味があるのだろう。私も同じだ」

 なんだか嬉しいことを言われた気がするがそれどころではない。

「違うって! 貴文は女好きなの! ホンマもんの女好き! 俺のことも友達としか見てないし、俺も同じだよ」
「違う、君は分かってない」
「なにが!」
「彼がいかに君のことをそういう目で見ているかってことをだ」

 ダメだ、これでは堂々巡りだ。頭を抱えたくなるが俺の手は阿須間に絡みとられたまま、更に強く握り込まれた。

「それに彼が言ったんだ、『昌樹と婚約するんです、邪魔しないでくださいね』と」
「ええ!?」
 
 貴文との婚約話など過去に一度も出ていない。明らかに貴文が嘘をついている。では、何故そんな嘘を……。考えて、ため息が出た。
 多分、貴文は気づいていたのだ。

「阿須間さん」
「君も阿須間だろう」

 怖い顔をした阿須間に、場違いにも嬉しくなる。

「あー…澄人さん。俺たち多分、貴文に嵌められた」
「……なに?」
「もう一度言うけど、俺は貴文に恋なんかしてない」
「でも君は、さっき花を」
「俺にも好きな人がいるからね」

 目の前の顔に分かりやすく絶望が浮かんだのを見てまた吹き出しそうになった。この人、思っていた以上に可愛い人だな。

「貴文は俺の好きな人が誰なのか気付いてた。それに、多分貴方のことも。だからそんな嘘をついて貴方を焚きつけたんだ」
「えっと……え……?」
「つまり俺たちは、両想いだったんだよ最初から」

 ぽかーんと口を開けて呆ける彼に、今度こそ俺は声を上げて笑った。

「昌樹、君は私のことを……?」
「はいそうですよ〜。俺も青年会で貴方に会って、憧れて。いつのまにか憧れから遺脱してた」
「じゃあ、花を吐いたのは」
「澄人さんの好きな人は、詩央だと思ってたから……わっ!」

 仰向けの俺の上に阿須間が倒れ込んできた。そのまま俺を抱きしめたかと思うと、大きく息を吸い込んで、また大きく吐き出した。

「信じられない……」
「俺もだよ」

 彼の吐き出す息が首筋をくすぐるからゾワゾワする。俺がまた体を捩ると、阿須間がガバリと起き上がってマジマジと俺を見つめた。

「じゃあ、もしも私がもっと早くに素直に気持ちを伝えていたら……」
「そりゃあ、今とは全く違う半年間があっただろうけど。でも俺だってなにもアクション起こさなかった訳だし、なにも澄人さんだけのせいじゃ」
「私は自分が許せないッ!」

 そう叫んで、阿須間はもう一度俺を強く抱きしめた。
 本来自分より五つも年上である彼が、しかしどうしてかとても可愛く思えて……俺は自分の上に乗ったままの大きな男を撫でる。

「ねえ、やっと分かり合えたんだからさ、良しとしようよ」

 肩口で、ぐすっと鼻を啜る音がする。

「これからはデートしたり、一緒に食事したり、たくさん話してたくさんイチャイチャしたい」
「昌樹……」
「それに俺、あと五分で成人すんだけど。手、出してくれるんじゃなかったっけ?」

 再び勢いよくガバリと起き上がった阿須間が、ニヤリと笑った俺をキラキラとした目で見下ろす。

「ね、俺にどんなことを教えてくれるの? ダーリン?」

 宝石のように輝いていた瞳が、甘く甘く蕩けるのが分かった。…………と、言いたいところだが。
 未来の俺は、なぜこんな恐ろしいことが口にできたのだろうと、今の俺の言動をさぞかし後悔することだろう。
 目の前で自分を押し倒している男は西洋の人形なんかじゃなく、立派な雄の獣だった。









 シンと静まり返った薄暗い部屋の中で、小さな硝子の器を傾ける。
 手の中に収まる小さなその器を月明かりが照らせば、その中身はまるで月がこぼれ落ちたかのようにキラキラと光った。

「来ると思っていたよ」

 静かに開かれた扉の向こうに、友人の皮を被った狼が立っていた。

「漸く上手くいきましたか」

 にっこりと笑う美青年に思わず舌打ちをすると、彼は隠さず鼻で笑った。

「そんなに敵意を向けなくたって、アイツがアンタにベタ惚れなのはもう分かったでしょう?」
「あの子がそうでも、その隣にいるのが狼なのは変わりがないだろう。……実際、こんな夜更けに人の妻の部屋の扉を開けている」

 強く睨みつければ、青年──南條は降参とばかりに両手を上げた。

「そりゃあ、俺は誰よりも頼りになる幼馴染で親友なんですもん。もしもの時は慰めてやらないといけないし?」
「ふざけるな……」
「おー怖っ! 冗談ですよ、俺は今の立場を崩すような馬鹿なことはしません」

 無言でじとりと睨む私に、南條は諦めの表情で笑った。

「アンタは知らないだろうが、アイツの中にあるのは零か百。もしもアイツに自分の気持ちを知られたら……俺はもう、幼馴染ですらいられなくなる」
「それで君は耐えられるのか」
「アイツの隣に居るためなら」

 それこそ究極の愛なのではないかと嫉妬心が芽生えるが、同じようにはなれそうにない。あの身の温もりを知ってしまえば、手放すことは更に不可能になった。

「あ、詩央のことですけど。アイツ、昌樹に何か吹き込んでたみたいなんで気をつけて」
「……ああ」
「あとここの使用人、散々昌樹に嫌がらせや意地悪をしてくれたみたいなんで後頼みますよ。じゃあ、精々愛想を尽かされないように気をつけてくださいね」

 皮肉な笑みを浮かべて去る男の背中を無言で見送った。寝巻きではなく外出用の服を着ていたことから、これから彼は屋敷を出ていくのだろう。
 そしてもう一人の勘違い甚だしい青年は、私の手で。

 明日。全ての使用人が入れ替わり、友人二人の姿が消えていることに彼は驚くかもしれない。
 だが今必要なのは、手に入れそびれたお互いの時間。ただ、それだけ。
 手の中の硝子の器を揺らすと光る白銀の液体。強い花の香りを放つそれを、喉の奥に煽った。鼻腔を駆け抜けるそれは、先程愛する相手を激しく抱いた時に自身が吐き出した花と同じ香り。

「もう二度と、間違いは犯さない」

 自身から吐き出され妻のベッドの上に横たえられる白銀の百合は、隣の部屋で月光に照らされ静かに眠る妻に───どこか似ていると思った。


END




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