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スーパーマンを、待っている。


 困った時、悩んだ時、もうどうにもならないと絶望した、そんな時。
 颯爽と現れ深い苦しみから助け出してくれる、奇跡のヒーロー。
 そんなものはこの世に存在しないのだと、物心がつけば誰もが理解する。でももしも、もしも本当に存在しているのなら、僕は。

 僕は今この時こそ、苦しみから救い出して欲しい。



 ◇



 昼過ぎからぐずついていた空が、いま目の前で泣き始めた。
 わっ、と声が一斉に上がり、沢山の人の慌ただしい靴音が目の前を行き来する。だが、暫くすればそれもやがて静かになった。
 明るかったガラスの向こう側の照明は落とされ、僕が雨を凌いでいたオーニングテントを店員が申し訳なさそうに仕舞おうとしている。
 手元に傘は無いし、この雨は明日まで止むことは無いだろう。僕はガラス越しにぺこりと頭を下げると、一気にテントの下から飛び出した。

「待って」

 だが、走り出そうとした途端掴まれた肘を軸に僕の足が止まる。

「えっ、…あ、あの」
「この雨の中を傘無しで歩くのはキツイだろう、入って」

 僕の腕を掴んだ目の前の男性は、そう言って開いた傘を差し出した。だが、彼も余分に傘を持っている訳ではない。僕に差し出した傘に彼の体が半分だけ入り、半分だけ外に出ていた。
 仕立ての良さそうなダークカラーのスーツがしとどに濡れている。

「いけない、貴方が濡れてしまってる」
「大丈夫」
「いや、でも…直ぐにどこかのお店に入りますから、あの…」

 僕が慌てて申し出を断ると、その男性はスっと斜め前を指差した。

「あそこ」
「へ?」
「あのコーヒーショップに入ると良い。窓側の席を取ってあるから、ここがよく見える」

 そう言われて僕は息を呑む。

「あの…」
「人を待っているんだろう? だったら尚更、濡れない方が良い」

 言葉を失い相手を見上げると、彼は薄く笑って、空いている方の手で僕の背を押した。



 指定されたコーヒーショップで、男性に連れられ窓側の席へと着く。
 視線を落とすとそこにある、ホイップがたっぷりと乗せられた暖かいマグカップ。入店して直ぐに持たされたそのドリンクは、心底冷え切った僕の体を指先からじんわりと温めてくれた。
 ホッと息をついて目の前に座る男性を見ると、彼は静かに机の上に置いてあったパソコンに手を伸ばす。

 きっちりと整えられた清潔そうな髪と、切れ長で鋭い瞳。シャープなラインを描く顎と頬、鼻筋の通ったスッキリとしたその顔は、とても男前なのにどこか人を寄せ付けない堅い雰囲気を醸し出している。しかしそんな彼こそが、僕をあの雨からこの暖かい場所へと導いてくれたのだ。
 窓の外の雨の勢いは治まらず、相変わらず黒く重そうな地面を叩きつけている。僕の視線はその雨を縫った先に見える、先ほどまで自分が立っていた場所を捉えていた。
 雨足のせいか人通りは随分と少なくなっていた。

 彼の動かしていた指と視線がピタリと止まり、やがてパソコンを閉じた。ふぅっと一息つくと、下に落としていた視線を僕へと向ける。
 目が合った瞬間、僕はその瞳の中へ吸い込まれる様な錯覚を起こした。

「あ、あの…」
「悪い、説明もせず驚かせたね」

 彼がその鋭い瞳を少しだけ和らげて僕を見る。

「俺はこの店の常連。ここからあそこ、丸見えだろう?」

 彼が言った通り、この席からは先ほどまで僕が立っていた場所がはっきり見えた。

「毎週同じ時間、同じ場所に遅くまで立っているから覚えてしまった」

 そして今日、こんな雨の中でも同じ様にずっと立っているから目が離せなくなったのだ、と彼は言った。


 二ヶ月程前の事だ。
 待ち合わせていたはずの恋人が、僕の目の前を別の人と通り過ぎていったのは。

 毎週金曜、夜八時。
 あのパン屋の前で、僕らはいつも待ち合わせていた。寒さの中で凍えながら待っていても、遅くなってごめんと駆け寄ってくる恋人の笑顔を見れば、疲れも寒さも一気に吹っ飛んだ。
 だけどそんな僕の心を凍りつかせるのもまた、恋人だったのだ。

「本当はもう、あそこへは来てくれないと知っているんです」

 唐突に話し始めた僕を、彼は何も言わずに見つめていた。

「愛してました、誰よりも。例え触れ合うことを許して貰えなくても、僕のお金が目当てだと分かっていても、それでも…」

 それでも僕は、彼を愛していた。
 いつも誰かが周りにいて、賑やかで、楽しそうに笑ってはしゃぐ彼にひと目で恋に落ちた。自分が彼に釣り合っていないことは分かってた。だけど、諦めることなんてできないくらい、僕は彼に恋していた。

「告白した時、周りは僕を馬鹿にして笑ってた。だけど彼は真剣な目をして、僕の話を聞いてくれてた」

 涙が出るほど嬉しかった。周りと同じように、笑ってあしらわれると思っていたから。それなのに彼は、

「付き合おうと、言ってくれたんです」

 好きだと告白した僕に、彼から付き合おうと言ってくれたのだ。天にも登る思いでその日を過ごしたことを覚えている。
 そうして始まった交際は、更に僕を幸せの世界へと連れて行ってくれた。

「デートをしました。一緒に映画を観て、一緒にご飯を食べて。遊園地にも行ったし、たくさん買い物もした」

 そのどの支払いも僕が持っていたけど、彼と一緒にいるための代償だと分かっていた。

「彼と付き合ったことを、後悔はしていません」

 だって僕は、それでも幸せだった。だけど、ひとつだけ悔しかったのは…悲しかったのは…。

「彼は僕と一緒にいても、少しも幸せではなかったんでしょうね」

 約束していたあの日、彼は見たことも無いような照れた笑顔で、知らない男に肩を抱かれ通り過ぎていった。
 その表情は、まるで…彼とっしょに居るときの僕のようだった。

「愛されたかった…」

 ポロリと瞳から涙が落ちた。
 愛されなくてもいいなんて、一緒に居られるだけで幸せなんて、嘘だ。愛した分だけ、愛して欲しかった。愛を、返して欲しかった。

「戻ってきてくれるなんて、少しも思ってなかったのに…僕は」
「あの場所に、囚われていたんだな」

 ずっと黙って聞いていた彼が、僕の頬を伝う涙をその長い指でそっと掬い上げた。

「来週の金曜、八時。あの店の前で君を待っているから」

 目を見開いた僕を、彼はその鋭い瞳を和らげ見つめていた。






 翌週、金曜の夜八時。
 いつも、誰も待ってはいなかったその場所に…。
 泣きたくなるほど暖かな笑みを浮かべたヒーローが、僕を待って立っていた。


 END


 誰かが待っていてくれる幸せを、僕は初めて知ったんだ…。
 

2018/06/04







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