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夜春香


 雨が降る前の匂いがした。

 洗濯物を取り込むのも忘れ頭上を仰ぎ見れば、そこには今にも泣き出しそうな色が広がっていた。
 今夜は嵐になる。
 強い風に煽られた衣類を乱雑に取り込むと、私は慌てて風呂場へと駆け込んだ。
 きっと今夜も、あの人はここへやって来るから。


 彼は雨になるとやって来る。
 いや、雨でなくても来る日は有るが、雨の日は必ずここへやって来る。
 頭の先から足の先まで、見惚れるほど精悍な顔をもしっかりと雨に濡らし、困ったように笑いながら首を傾げて言う。

『急に降られてしまってね、暫く雨宿りさせてくれ』

 お膳立てされねば何一つ動けぬような、そんな誘い下手な私は、彼の包み込むような優しさに甘え頷く。

『この雨では朝まで止まないでしょう。丁度風呂も湧いています。今夜は泊まっていってください』

 毎度、雨が降るたびに繰り返される茶番劇。
 だが彼の持つあの亜麻色の瞳は、何をも貶すことなく、いつだってただ優しげに私を見つめてくれた。


 浴室の、開け放たれた窓の外。
 雨粒を受けた銀木犀が、艶めかしく蒼葉を揺らしていた。





 雨が上がったばかりの独特な空気の重さが、部屋の中に充満していた。
 起き上がれば体が怠さを訴える。
 だがその怠さの原因は、決して雨のせいばかりでは無かった。それが酷く幸福で、私の口元が思わず綻ぶ。

 隣に眠る彼を起こさぬよう、ひっそりと寝所を抜け出し窓から外を覗く。昨晩大泣きしていたはずのそれは、幾分か気分が晴れたのか淡い色に染まり、隙間を縫って光を溢していた。

 幸福を縫って滲む切なさに胸が痛んだ。


 雨は上がってしまった。もう暫く降ることはないだろう。
 また、待つ日々が始まる。
 小心者で臆病な私の心が零れ落ちる前の、あの香りを待つ日々が…。


END

※夜春(夜の雨のこと。)



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