蝶を恋う花【後編】
あ、思い出した、大事なこと。
「…なに勝手に上り込んでんのお前」
先ほど別れたはずのあの変態保険医が、何故か今俺の寮監室にいるのだ。
目覚めた時の状況はどう考えてもおかしかっただろうに、変なサッカー部員の存在のせいですっかり頭から飛んでしまっていた。
危険人物が存在すると、ちゃんと頭に叩き込んでおくべきだった。
寮監室に戻るとそろそろ晩飯時という時間になっていたので、早速寮内に有るスーパーに買い出しに行ったのだが…。男なのか女なのか分からんチビガキ共にわやぁ〜っと囲まれ恐ろしい思いをし、何とか買い物を済ませ息も絶え絶えに戻ってきたところ、ちゃっかり室内に居座っている変態に遭遇した。
「嫌だな、ちゃんとお仕事で来たんですよ?」
確かに、寮監室に置いておく薬や消毒液などが入った救急箱を持って来たみたいだけどな。
「もう用は済んだろ」
「親交を深める良い機会かと思いまして。それに私、」
――あなたが好きなので傍に居たいんです
は?????
「で、何やってんだあんた」
「あんたじゃなくて、依弦って呼んでください亨さん」
「…で、何やってんだ槙」
「まぁ、今はそれで良しとしましょう」
「おい」
「はい?」
「はい? じゃねぇ! 何やってんだっつってんだろ! 退けろこの手!!」
訳わからん内にサラッと好きだとか抜かしやがったこの男は、何か知らんがあのまま居つき、夕飯を作る俺に後ろから抱きついて俺の腰に手を回している。
若干俺より背が高い事が何かムカつく。
本当は殴り飛ばしてしまいたいのだが、俺は根っからのほだされ屋。
真正面からストレートに“好きだ”と伝えてきた相手の気持ちを無下にも出来ず、かと言って好きにさせておく事も出来ず…(慕ってくれるのは嬉しいが…と言いかけたら恋愛対象です。と言いきられた)言葉で応戦するしか対応策が見つからない。
しかし、こいつに好意を伝えられても何故か“気持ち悪い”と思えなかったことが不思議だ。
仲の良い連れと入れ替えて想像してみたら吐きかけたというのに。
見た目が綺麗だと、拒否反応が出にくいものなのだろうか? 綺麗でも男だぞ…。
「いい香りですねぇ」
「あ? ただのソース臭だろ。そんなに腹減ってんのか」
「いえ、それではなくて貴方の香りです」
と言いながら俺の首筋に顔を埋めて、スゥ〜と匂いを吸い込んだ。
――ゾワッ
「うぐっ」
思わず肘打ちしてしまった事は、許されると思う。
◇
あれから数ヶ月、何かと理由を付けては夜になると寮監室に現れる槙。生徒よりこいつとの関わりの方が多いのではなかろうか…。
まぁ、こんなガキ共しか居ないようなところじゃ話し相手も居ないし気は紛れるのだが、しかしながら相手はあの槙。何だかんだとセクハラ紛いの事をしてくる上に、それが恋愛感情込の行動だと思うと流石にただのスキンシップとしては流せない。
だが何よりも困っているのは、それを拒否できない自分自身。
思い切り拒絶すれば槙もきっと来なくなるはずなのに、それをしようとしない自分自身に一番困り果てていた。
セクハラこそ酷いものの、話し方は穏やかで内容も楽しくて、話していて飽きない。人の部屋に入り浸っていると言えば聞こえは悪いが、入り浸られても気にならないほど自然と俺の過ごす空間に溶け込んでくる。あれはある意味才能だ。
空気もカナリ敏感に読むタイプなので、俺の忙しい時は近寄って来ないし、逆に体調が悪い時はそっと看病しにくる。内緒の話だが、実は生徒の揉め事を収めるのも結構手伝ってくれたりしている。
頭の回転が速い奴なので、俺が思いつかない案や、俺ではどうしようも出来ない部分をさらっとフォローに入ってくれるのだ。
正直、槙の存在には支えられている。
だけどどんなに綺麗でも、どんなに出来た奴でも、好きだと言われても…槙は男だ。
言われたからには無かった事には出来ないし、そろそろきちんとケジメを付けなければ槙に対しても失礼になる。
よし、ちゃんと断ろう。そう考えると、胸がツキリと痛んだ。大丈夫、まだ戻れる場所に居る。
アレさえやられなければ、俺は大丈夫なんだ。
そう、アレさえやられなければ…
◆
「槙、お前亨さんに付き纏ってるって本当か」
亨さんにこの学校へ来てもらうに当たって、一番に心配していたのがこの男の存在だ。
幼馴染であるこの男の趣味は十分知っているけど、亨さんほど好みに嵌る人は居ないと思った。
「嫌ですね、疑問形じゃないってことは確信を持ってるってことでしょう? 最近寮監室の周りをうろついてる輩が居ましたけど、有澤君の回し者だった訳だ」
「俺にとって大切な人だ。お前…亨さんに何かしてみろ、ぶっ殺してやる」
「おぉ〜怖っ。彼の前とは大違いですね。一人称まで変わってますよ?」
「黙れ」
「心配しなくても、彼は中々強敵でしてね。簡単には落ちてくれませんよ。まぁ、私も本気なので諦める気はありませんが」
「ふん、亨さんを甘く見るな。そうだ、明日から一週間ほど出張に出る。その間、こちらの事は任せたぞ」
「はいはい、いってらっしゃい」
そう投げやりな見送りの言葉を言った後、槙が『鬼の居ぬ間、ってやつか。ついに最終手段を使う時が来たかな』と呟いたので、俺は鼻で笑ってやった。
昔からお前の最終手段は泣き落としだろう? あの亨さんをそんな事で落とせる訳が無いだろう、と。
―翌日―
「では亨さん、行って参りますので留守を頼みます」
「おう、気を付けていって来いよ」
機内に通され席に着きホッとしたところで、ふと昔亨さんとした会話を思い出した。
チームのbRのポジションに居た亨さんは、ポジションこそ三番目だが実力はトップと変わらない。喧嘩も精神力も本当に強かった。
そんな亨さんに憧れていた俺は、ずっと思うところのあったことを聞いてみたのだ。『亨さんには弱点、何てものは無いんでしょうか?』と。
我ながら阿呆な質問だとは思うのだが、亨さんは答えてくれた。
「普通に有るぞ? 泣き落とし。アレだけは弱いんだよなぁ…真剣であればあるだけ、抗えないな」
泣き落としに、弱い…
待て待て待て待て!! 昨日あの男は何と言っていた!?
――最終手段を使うときが来た
槙の泣き落としはタチが悪い。
あいつの場合、計算された涙ではなく…真剣に伝えようとすればするほどボロボロと涙が出るのだ。
そう、真剣であれば…ある…だけ…
鏡を見なくても、今の自分の顔色が想像できた。慌てて立ち上がりかけた俺に降りかかる、機内放送。
『まもなく離陸致します。座席ベルトをもう一度お確かめください』
「ぅわぁああ! 嫌だぁぁぁああ!! 亨さぁあぁああぁあん!!」
俺の叫びは、無情にも亨さんに届くことは無かった。
◆
「さて、決着を付けに行きますか」
例えみっともない姿を晒したとしても、どうしても手に入れたい。そんな槙の覚悟も、携帯の電波も通じず泣き叫んでいる有澤の様子も知らず俺は、呼び出された槙専用の教員宿舎へと足を向けた。
俺が槙に陥落する時は、もうすぐそこまで来ている。
END
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