きみがいてくれることで。
部活が終わって携帯を確認すると『今日は先に帰るね』と彼女からメールが入っていた。いつもなら教室まで迎えに行くのだが、いないのならば行く必要もない。
冬の寒さで冷え切った校舎を歩くのは、案外気が滅入るのだ。が、
「おい南ぃ、明日の課題忘れんなよ?」
同じ部に所属するクラスメートに言われた一言で思い出す。
「あ、やっば。そうだった…」
帰りに戻ると思って、教室に残しておいた数学の課題テキスト。
「ちぇっ、持ってこれば良かった」
無駄に呟きながら、結局今日も教室へと向かう羽目になった。
◇
(し、信じらんねぇ…)
空いた口が塞がらないとはこの事を言うのか。
テキストを取りに教室に戻ってみれば、先に帰ると言ったはずの彼女の姿が。しかし、それだけなら別に驚かない。では、何に驚いたかって? それは…
(キス…してやがる…)
開け放たれた教室のドアの向こうで、クスクスと笑いあいながら卑猥な音を立てて絡み合う口と口。しかも彼女の相手は、まさかの自分の親友である滝谷だった。
何なんだよ。
いつからだよ。
今までに感じた事の無い嫌悪感。
彼女に対しても、滝谷に対しても。
俺の女を取るな!!なんて熱い心は起きてこない。
絶望を突きつけられた頭は不思議とどこか冷静で、感じる嘔吐感を抑える事だけで手一杯だった。
(気持ち悪い…)
足音を立てないよう気を使いながら後ずさり、ドアから離れる。
走り去りたいのは山々だが、どうにも気分の悪さが邪魔をして足が上手く動かない。
ヨロヨロとした覚束ない足取りで玄関まで向かおうとするが、余りの吐き気に階段の途中での崩れ落ちてしまった。
(どうしよう…もう吐くっ)
限界を感じて目を閉じかけた時、後ろから誰かが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「おい!どうした!?」
肩に乗せられた手が、とても暖かく感じて、優しく感じて、少しだけ気分の悪さが薄れた気がした。
「おい……ん? 南、か?」
俺の事を知ってる様な言葉に、力を振り絞り相手を見上げれば。
「あ……相澤?」
同じクラスで風紀委員長の相澤だった。
こんな時間まで風紀の仕事か?大変だな…なんてどこか能天気に考えていたけど、体はもう限界で。
「ごめっ、相澤…トイレまで連れてって…うぅ」
それだけ言えば、相澤は無言で首を縦に振り俺を立たせ、肩を貸してくれた。
無事トイレまで辿り着いたので、相澤にはもう戻っていいと言ったのに、吐き気が治まるまで付き添うと言って側にいてくれた。
それから俺は三十分ほど吐き続けた。と言っても、後半殆んど何も出なかったけど…。
嘔吐と言うのは体力をカナリ消耗する。結局フラフラなままの俺を相澤が家まで送ってくれるという、何とも迷惑かけっぱなしの放課後になってしまった。
信じらんねぇ、とまた思う。
その日の夜、携帯には何事も無かったかの様にあの二人から連絡が入っていた。
彼女から電話の着信と、滝谷からのメール。
メールの内容だけ一応確認したけど、どちらも返事はしなかった。何も知らなかった時には嬉しかったものが、今では滑稽にしか思えない。
そのあと数回着信音が流れたけど、鬱陶しくて電源を落としてしまった。
明日もう一度、相澤にお礼言わないとな。
トイレから出た後、俺を保健室に連れて行こうとした相澤。でもこれは、病気なんかじゃないから保健室に用はない。
「精神的なものだから大丈夫だ」と言えば、眉間に皺を寄せて少しだけ考えた後に「じゃあ家まで送って行く」と有無を言わさないオーラで言われたので、有難く甘える事にした。
あれだけ迷惑をかけたのに、相澤は何も聞いてこなかった。ただ一言、「あんまり無理だけはすんな」と言い残して帰って行った。どんだけいい男なんだよ、あいつ。
随分と余裕だな、俺。と思う。
良く考えてみれば散々な日だ。
信頼してた親友と彼女に最悪な形で裏切られて、精神はボロボロなはずなのに。
じゃあ何処からその余裕が生まれたのかと言うと、間違いなくあの時あの場所に現れた救世主のお陰だ。
相澤仁(あいざわ ひとし)、泣く子も黙る、鬼の風紀委員長サマ。
だけど俺はもう知ってる。
あいつがただ怖いだけの奴では無い事を。
俺を階段で見つけた時のあの焦った声。
俺が精神的なものだと告げた時の、自分の事の様に痛そうにした表情。
何て優しい奴だろう。
今日の相澤を思うと、荒れた心は不思議と凪いで、俺はゆっくりと眠りに誘われていった。
◇
うだうだと揉めるのは好ましくない。
あいつらと決着を付けることを今日の目標の一つに加えて学校へ行くと、案の定例の二人が「何で昨日連絡したのに無視したんだ」何てアホなこと言ってきたので、俺はその場でぶった切った。
お前らの裏切りなら知っている。
二度とその汚ぇ口で話しかけてくるな、てな感じで。
クラスの奴らはみんな驚いで固まってた。ま、そうだろうな。俺が声を荒げて怒ったり、キレて暴れたりしたこと何て一度も無かったし。どちらかと言えば“穏やかな人”で通ってたんだから。
その上いつも仲が良くて一緒だった二人が、女の事で泥沼劇を繰り広げていれば誰だって驚く。
周りの視線と、バレてると思ってなかった二人の阿呆面が気持ち悪くて、俺はそのまま教室を出た。
HRまでまだ時間があったから、担任もまだいないし誰にも止めらることは無かった。
人気のない無い場所を探して見つけた屋上の階段を登ろうとすると、突然後ろから腕を掴まれ驚いて振り向く。
「え…」
そこには、少しだけ息を乱した相澤の姿があった。
「人が来ない場所を探しているんだろ?」
何故ここにいるんだろ?
何故分かったんだろ?
気になることは沢山あったけど、混乱した頭は聞かれたことにしか働かず、コクリと首を縦に振るしか出来なかった。
「だったらこっちに来い。この時期屋上はマズイだろ」
そう言って掴まれたままの俺の腕は、相澤に颯爽と拐われていった。
着いた先はなんと、風紀室。
当然時間が時間なだけに誰もおらず、静かな空間が広がっている。真冬なのに部屋は少し暖かく、先ほどまで誰かが使っていたのは明白だった。
(確かに、この時期屋上とか死ぬよな)
暖かい場所を提供してくれた相手を盗み見ると、先ほど切ったのであろうエアコンのスイッチを入れているところだった。
スイッチを入れて振り返った相澤は、やはりどこか痛々しい顔をして俺を見ている。
「あの…相澤「ちょっとそこに座ってろ」」
俺の言葉を遮って黒いソファを指差すと、隣の部屋に消えて行った。
相澤の表情が気になる。
確か、昨日もあんな顔をしていた。俺が精神的なものだと告げた時の相澤は、驚くでもなく、何て言うか…そう、今みたいな痛々しい表情をしたのだ。
あの時は単に、精神的なもの=辛いことがあった。てことで同情されているんだと思っていたけど…何だか今はそれも違う気がする。
もやもやとする気持ちを抱えながらも言われた通りにソファに座って待っていると、湯気を立たせたカップを二つ持った相澤が戻ってきた。
ウチの学校の生徒会と風紀委員は仕事量が半端ないとかで、若干他の委員会より優遇されているところがある。
休憩をその場で取れるよう、生徒会室と風紀室には其々給湯室があるのもそのひとつだ。
持ってきたカップの一つを俺の前のローテーブルに置いたので、ありがとう、とお礼を言うとそれに頷き相澤も反対側のソファに腰を下ろした。
暫く変な沈黙が流れたが、沈黙を破ったのは相澤だった。
「昨日…あれから体調は平気だったか?」
「あ、うん。昨日はありがとな。本当に助かった」
「あぁ」
言おうと思っていたお礼を言えたので、今日の目標がまた一つ達成した。
さっきまでのもやもやした気分が幾らか緩和されてきた自分に対して、相澤の顔色は優れない。
どうしたのだろうと思っていると、相澤が言い辛そうに口を開いた。
「今日は、その、…教室に戻れそうか?」
「え?」
「……」
「……」
(あぁそうか、さっきの知ってるのか)
「さっきの、見てたの?」
教室に相澤の姿は無かったはずだけど、と思って聞くと、彼はまた少し辛そうな顔をして俯く。
「いや、見てない。が、教室に戻ったらクラスの奴らが騒いでいたから…」
「あぁ、なるほど。それで追いかけて来てくれたのか」
それでも何か引っかかる。
そんな騒動、変な話彼には関係ない。
慌てて俺を追いかける必要なんてどこにもないんだ。
それに、そんな辛そうな顔をする必要も。
「ねぇ、相澤。もしかして他にも何かある?今回のことで」
そう言うと相澤はハッとした様に、落としていた視線を俺に戻す。
――やっぱり何かあるのか。
「いいよ、言って?」
今更あの二人に関して何が出てきても驚かない。だからそんな辛そうな顔しないで欲しい。
「その…、風紀委員は、たまに教師の仕事を代行する事があるんだ」
何の脈絡もなく始まった話の意味はまだよく分からないけど、話の腰をおらずに聞く。
「半年ほど前…教師からいつもの様に仕事を頼まれたんだ。三日間だけ、放課後の見回りをして欲しいと」
ドクリ、と俺の心臓が跳ねたのが分かった。
「最初の日見たのは…南と彼女、藤倉が一緒に帰る姿だった。次の日も同じ時間、南と藤倉の姿を教室で見た。でも、三日目は…」
あぁ、もう何を言われるのか分かってしまった。
「そんな……前からかよ…」
乾いた笑が漏れた。もう笑うしか無いだろう?
俺の姿は、どれだけあの二人に滑稽に映っていたのだろう。知らずに過ごしてきた半年間に、また吐き気がして来た。
滝谷にキスした唇に、俺はキスをして。
滝谷に愛された体を、俺は愛していたのかもしれない。
口元に手を当てて前屈みになると、相澤は慌てて俺の隣に座り直し背中をさする。背中をさする手がとても暖かい。
その暖かさに、涙が溢れた。
「ほんっと…馬鹿みてぇ……」
とめどなく溢れる涙の中で、言えたのはたったそれだけ。
虚しい、悲しい、悔しい。
俺とあいつの友情は?
俺とあの子の愛情は?
初めから何も無かったの?
もう分からない。
分かりたくもない。
だって結果は同じじゃないか。遊びだろうと、本気だろうと、裏切られた事実は変わりはしない。
俺の嗚咽が無様に響く中で、ひっそりと囁く声が聞こえた。『ごめん』と。
何で相澤が謝るんだろう?
お前は何も関係ないじゃないか。
それなのに『知ってたのに…何も出来なかった。ごめん』だなんて泣きそうな顔して言うもんだから、俺は。
「ぶふっっ!」
あんなに大泣きしてたのに、思わず吹き出してしまった。
「っ! なっ、な!? 何で笑うんだよ! …クソっ」
あらら、あのクールな鬼の風紀委員長が崩れてますよ。
「ごめっ、ヒック、ふふっ、だって、さ、お前…、全然悪くっ、ないのに、謝るから」
泣いた直後で嗚咽が酷いのに笑えるから、スムーズに言えない。けど、言いたいことは伝わったみたい。
ムッとしている相澤を見て気付く。この優しい男は、もしかして…。
「もしかして…半年の間、ずっと悩んでくれてたの?」
今度は真剣な顔で、嗚咽を抑えながらゆっくり問うと、顔を真っ赤にした相澤が俺の顔にタオルを押し付けた。「悪いかよっ」て怒りながら。
どれだけ優しい男だよ?
これのどこが鬼なんだよ。
それより寧ろ、
「相澤は、俺の救世主だよ?」
自然と零れる笑顔を向けて言えば、相澤は目を見開いて固まった。だけど、決して嘘じゃ無いんだ。
「昨日も、あの時相澤が居てくれたから救われた。体ももちろんだけど、心も。今日だって、泣けて凄くスッキリした。いつからか知って、ショックも大きいけど、知れて良かった。教えてくれたのがお前で良かったよ。…側に居てくれてありがとう相zッぁうむ!!?」
言い切るか言い切らないかで、俺は強い力で抱きしめられ、涙でぐちゃぐちゃの顔は相澤の肩口に埋れた。
手から感じた温もりを、今は体全体で感じてる。
男同士で何やってんだろって気もするけど、余りに相澤の腕の中が心地良くて…また自然と涙が溢れた。
でも悲しい涙がなんかじゃなくて。
何か守られてる気がして。
相澤の背中に腕を回して、ギュッとブレザーを握る。抱かれて感じる熱が、少し上がった気がした。
またあの居心地の悪い現実に戻らなければならない。だけどもう少しだけ、この温もりを感じさせて。そうすれば、きっと心折れずに戦える。乗り越えらる。
そう、君が居てくれるから。
END
※生まれて初めて書いたBL小説です
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