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キミがいれば世界が変わる

※17歳×32歳


 床には見知った顔の男が転がっている。首元には締められたような赤い痕がついているが、胸元は上下し、ただ意識を奪われているようだった。
 白くひんやりとした人間味のない、細く長い指が俺の頬をゆっくりと滑る。

「逃げないの」

 いつだってそうだ、彼の語尾には疑問符がつかない。きっと俺がどう動くか、最初から分かっているからだ。
 肌に触れる手に自身の手を重ねると、長いまつ毛に縁取られた飴玉のような瞳が珍しく揺らいだ。

「怖くないの」
「怖くない」
「……それは僕にも興味が無いから?」

 いつもの彼からは程遠い頼りない声に、俺は思わず笑った。







 自分に歳の離れた姉がいることを思い出したのは、生まれたことすら知らなかった甥っ子を初めて見た時だ。

「……いくつ?」
「十歳になったばかり」

 記憶の中にある自信に満ち溢れていた彼女からかけ離れた、酷く憔悴した顔と声。その手に力なく握られた子供の手。
 もう二度と会うことはないと思っていた相手を拒絶することもできず、ただ受け入れた。

「どうぞ、入って」



 何の運命の悪戯か、俺は資産家の長男として生まれた。だが何の能力も持てなかった俺は、両親と八つ歳の離れた姉から下僕以下の扱いを受けた。
 学校へ通う時だけ服を与えられ、家に戻れば下着以外奪われ地下に閉じ込められる。人との関わり方を知らない俺は、学校でも簡単に虐めの的になり内も外も俺の世界は地獄だった。
 
 それでも何とか生きながらえていた十三歳の夏、姉が突然俺を買い物に連れ出した。
 悪魔のようだった姉が、ニコニコと笑みを浮かべ俺に新しい服や靴や鞄を与え、美味しいご飯を食べさせてくれた。ほんの二時間ほどの間だったけど、夢を見ているかと思うほど楽しかった。実際、夢となって消えたのだけど。

 駆けつけた屈強な警備員に床に押さえつけられ、服を乱暴に弄られる。暴力にも近い行為を受けていることよりも、買ってもらったばかりのパーカーが地面に擦れて汚れることの方が気になっていた。
 その服のポケットと鞄から、買った覚えのない商品が何品も出てきた。それを見た警備員の怒鳴り声を全身に浴びながら、俺は遠くで涙を流しながら笑う姉を見つめていた。
 姉の横には、いつも姉と連んでいる派手で下品な輩が沢山いて、同じように腹を抱えて笑っていた。

 夢のような時間なんて存在していなかった。それはいつもの……いつもの、現実だった。




「この子を引き取って」

 席に着くなり投げつけられる言葉に、この人とは全く会話にならないこともしっかりと思い出させてくれる。
 生気のない瞳で見つめられる子供の肌は、白磁のごとく白く滑らかで、唇は雪の中にぽつんと咲く瑞々しい花のよう。絹糸の如く繊細そうな髪は瞳と同じ飴色に透き通っていた。瞬きの度に長いまつ毛が静かに光を弾く。
 俺と似た顔の姉の血を引いているとは思えぬほど美しい子供だった。

「……なぜ」
「もう必要ないの。十五歳差なら、親子でもあり得なくはないでしょう」

 必要ない。そう言われた子供の瞳は空虚で、隣にいる姉のことも、目の前に立つ俺のことも見えてはいない。

 ああ……この子もまた、俺と同じなのか。









「今すぐ椿から離れてください」

 ピアノに向かう椿の後ろから、その細い体に講師の男が抱きつき腕を絡ませている。声をかけると男は弾かれるように立ち上がった。

「今すぐ荷物を持って家から出て行ってください」
「こ、これはっ」
「社会的地位を失いたくなければさっさと出ていけ」
「ッ、」

 転がるように逃げ出していく男の背中を見送ってから、堪えきれなかった溜め息を盛大に吐いた。

「椿、」

 名前を呼んだだけで俺が何を言いたいのか分かったのだろう、椿はその美しい唇の口角を上げた。

「凄いね豊さん、もう時間は完璧だ」
「七年も同じことを経験すればさすがにな……って、まさか俺と遊ぶためにピアノを習ってる訳じゃないだろな」

 言った側から椿の口元が可愛げなく吊り上がった。

「お前なぁ……」

 家に来て七年が経ち、椿の美しさは更に磨きがかかった。齢十七とは思えぬ妖艶な色気と、十七だからこそ持ちうる透明感と危うさ。その見た目には聡明さも滲み、人として完璧な出来栄えだ。
 この子なら、あの強欲で周りからの評価を第一に考える姉の宝物になれたはずだ。だが、手放した。
 その理由は直ぐに分かった。
 たった一年で椿の担任教師は二度、ピアノの講師は十人変わった。中学に上がってすぐついに校長からの勧めで、自宅学習に切り替えることになった。それは高校生になった今でも続いている。
 椿を前にすると、年齢、性別関係なく人が狂う。きっとそれは血筋をも無視をするのだろう。
 椿を俺に託す際、姉の口からはついぞ父親の話が出なかったから。

「金は腐るほどあるんだから、多少の無駄遣いは許されるでしょう?」

 姉に嵌められ万引きで捕まった俺は簡単に家から追い出された。二度と社会に出てくるなという意味を込めた、一生困ることのない多額の金を待たされて。

「無駄遣いは別にいい。でも人をオモチャにするなよ、いつか本当に危ない目に遭うぞ」
「まるで心配してるみたいに言うね」
「心配してる」
「嘘だ。僕に興味ないくせに」

 そんなことはない、と言ってみる。だが頭のいい彼にとって俺の考えを見透かすことは、きっと息をするより容易い。

「普通は心配するものなんだ」
「ああ、普通はね。でも僕らにそれは必要ないし、どちらもその『普通』を持ち合わせてはいない」

 そうでしょう?
 椅子から立ち上がった椿がゆっくりとこちらに近づいて、息の触れそうな距離で止まった。
 七年前には随分と下の位置にあった人形のような顔を、今では見上げなければならなくなった。
 何をやらせても天才的に飲み込みの早い椿にピアノ講師はとっくに必要なくなっている。分かっていて続けさせているのは、単に本人の希望によるものだ。それが俺の気持ちを引くための手段だという事も分かっている。
 高い鼻が俺の首筋へと埋められ、背中に腕が回り強く抱きしめられた。

 いつからか、椿が俺を見る瞳に熱が篭もるようになっていた。でもその熱が持つ意味はまだよく分からない。
 もしかしたら周りと同じ『普通』を持てない俺に共感し、孤独や寂しさを分かち合いたいのかもしれない。





「椿……?」

 足元に転がる男を見ても、彼はあまり動揺しなかった。男が息をしていることを視認する余裕すらあった。
 男を見て、それから僕をジッと見つめる。ただただ、僕がここにいることを不思議に思っているようだった。それもそうだろう。ここは床に転がる男の家であって、僕が居るはずもないのだから。

 この男がピアノ講師として家へやってきたのは二ヶ月ほど前のこと。いつものように僕に手を出そうとして、豊さんに追い出されるまでの時間を競うゲームを始めていたのに……こいつは僕にではなく、豊さんに手を伸ばした。
 まともぶって、紳士ぶって、豊さんの信頼を得ようとしているが、その瞳の奥には今まで僕の周りに現れた奴らと同じ色が浮かんでいた。
 だが、僕に手を出さない男に豊さんは安心感を持ったようだった。どれだけ自分に薄汚い欲望を持っているか考えもしない。
 信頼しているからじゃない。男に一ミリも興味が無いからだ。だから部屋に呼び出されてもその意味を深く考えない。そこでもしも無理矢理素肌を暴かれても、彼は平気で翌週には僕の講師として男を招くだろう。
 豊さんは他人にも、自分にさえも興味を持たない。そこが彼の魅力だったし、僕にだけ興味を持つ努力を見せてくれることに優越を感じるようになっていたが、今はそれが酷く憎らしかった。
 彼に近づき、その頬に指を伸ばす。

「逃げないの」

 意識を奪われた男が足元に転がっているのに、彼は少しも逃げる素振りを見せない。怖くて動けない様子もない。ただジッと、静かに僕を見つめている。

「怖くないの」
「怖くない」
「……それは僕にも興味が無いから?」

 思わず震えた声に、彼は表情を崩して笑った。

 孤独だと思ったことはない。
 寂しいと思ったことはない。
 父親であった男に殴られ押し倒された時も、母親であった女に『必要ない』と手を離された時も。他人から悪魔だと罵られても、悲しみも、恐怖も、恨みすら感じはしなかったのに、どうしてだろう。
 僕はあなたに手を離されることが、こんなにも恐ろしい。



 短いまつ毛に縁取られた瞳が真っ直ぐに僕を見つめていた。その色がしっかりと認識できなくなるほど近づいて、甘えるように彼の鼻先に自身の鼻先を触れ合わせそっと唇を重ねた。
 触れ合った粘膜の熱さに彼は漸く思い知ることになる。

 ただの傷の舐め合いだと思っていた時間が、いつの間にか僕の世界を大きく変えていたことに。そしてこれから自分の世界もまた、僕によって変えられていくことに。


END






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