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後編



 あの日のたった数時間の間で、目まぐるしく世界が変わってしまった。

 いつも樹からの連絡で頻繁に震えていたスマホは、あれから二ヶ月ほど沈黙を保ち、それを見てがっくりと肩を落とす俺に、同僚の野村が妙な勘違いをしてくれて面倒臭い。

「今日こそ行こうって、な?」

 元気づけているつもりなのだろう野村が、また合コンの誘いをかけてきた。

「いや、だから彼女のことはもう全然問題ないから」
「馬鹿お前、そんな溜め息ばっか零して暗い顔してさ! 今日はまた特別可愛い子揃えてもらったから、絶対来た方がいいって、な?」

 正直死ぬほど面倒臭かったけど、樹に言われた『さようなら』が頭の中にずっと回っていて気分が悪い。
 酷いことをされたのは俺なのに、どうして俺が捨てられたみたいになるんだよ…。それに、こんなに長く連絡を取らなかったことなど、出逢って以来一度もなくて。
 毎日、来もしない樹からの連絡を忠犬ハチ公の様にスマホの前で待っている自分にも嫌気がさしていた。

「本当に可愛い子揃いなんだろうな…」
「おっ、やっとその気になってくれた!?」
「いいよ、人数足りないなら行くよ」
「そうしろそうしろ! じゃあ後で場所と時間連絡するから! あ、会社から俺と一緒に行こうな!」

 野村はスキップでもしそうな勢いで、休憩室から出ていった。その後ろ姿を見送って、また小さく息を吐く。
 いくらゲイだと打ち明けられていたって、親友に無防備になるのは当たり前のことだと思う。だからそれを責められたところで、こっちだって困る。だけど、正直なところずっと、あの日のことは後悔していた。あの、樹にカミングアウトされたあの時を。
 ちゃんと、樹の目を見て話を聞いていればよかったと…何度もあの日をやり直す夢を見た。
 俺の愚痴には付き合っても、樹が自分の話をあまりしたがらないのは、あの日のせいな気がしていたのだ。だからといって、デリケートな問題を掘り返す勇気はなかった。
 まさか自分が、こんなにも平凡で何の取りえもない男が、あんなにも出来の良い男のお眼鏡に適うなど思ってもいなかった。大体が、俺は樹が女役の方だと思っていたのだ。
 あれだけの美貌なのだ、抱きたいと、快楽に乱れる姿を見たいと思う男は案外多いだろう。実際に乱れる姿は、意外にも男臭かったけれど。
 自分の躰を抱いている男の、汗を浮かべた顔を思い出して心臓が跳ねた。

「なに考えてんだ俺は…」

 樹の部屋を飛び出して、自分の家で躰を洗った時、何度も思わず叫び声をあげた。ありとあらゆる、信じられない場所に鬱血の痕を見つけたからだ。その痕の数は執拗で、自分への執着と好意がありありと見て取れた。
 だけど、帰り際に樹は『さようなら』と言った。あの言葉は、明らかに決別の色を纏っていた。
 あれだけのことをして、異常な程の痕を残しておいて、アイツは簡単に俺に別れを告げたのだ。

「何なんだよ、さよならって…」

 幾度となく繰り返した問いに返る答えはない。俯いた俺の手の中でスマホがぶるりと震え、思わず跳ね上がって画面を確認した。

『今日は早目に仕事切り上げろよ〜! 気合入れていくぞ!』

 野村からの時間と場所の連絡だったことに酷くガッカリして、誰からの連絡を期待していたんだと、ガッカリした自分にまた、ガッカリした。




 野村の知り合いが主催である合コンは、思いのほか楽しかった。
 女の子たちは本当に可愛かったし、そのくせ平々凡々な容姿である俺や野村にも十分優しく接してくれる。もしかしたら、ここで運命の人に出逢えるかもしれない。何度も視線を送ってくれる女の子も居る。

『裕太くんのこと分かってくれる人が絶対に現れるからさ』

 それなのに、どうしても樹の言葉が頭に浮かぶ。アイツは、どういう気持ちでそんなことを言っていたんだろう?
 本当に誰かが現れることを、願ってくれていたんだろうか。だとしたら、どうして俺にあんなことをしたんだろうか? 樹は、俺のことが好きなんだろうか。それともただ、俺にムカついてやったことなのだろうか…。そう考えると、何故か胸が痛んだ。

「おい、戻ってこい!」
「ぐぇ」

 ぼうっと考え事をしていた俺に、野村の肘打ちが食い込んだ。その様子に女の子達が笑みを零し、俺の気持ちとは裏腹に飲み会は更に盛り上がった。


 盛り上がりの熱気を連れたままでも、店の外は寒かった。吐いた息が白く変わっては、溶けて消える。
 駅に向かって歩きながら、二次会はどうするかと賑やかに話し合う。その輪に混ざり、ハザードの点いた車の横を通り過ぎるその時、突然腕を強く引かれた。

「なに、…え?」

 てっきり女の子に引かれたのだと思ったのに、俺の腕を掴んでいるのは樹だった。左の頬はもう、腫れていない。

「樹…」

 俺の動揺を無視して、樹の存在に気付いた女の子達は色めき立つ。

「え、この人裕太くんの知り合い!?」
「うわ…超キレイ…男の人だよね?」

 俺の腕を掴んだままの樹の周りに、女の子達が群がる。

「これから二次会に行くんですけど、一緒にどうですか〜?」
「そうだよ、一緒に行きましょうよ〜!」

 はしゃぐ女の子たちの後ろで顔を引きつらせている野村たち、男勢に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。もしも二次会に樹が来たら、俺たちの出る幕は無い。

「いや、あのさ…」

 俺が女の子達に何とか諦めてもらおうと口を開いたその瞬間、掴まれていた腕を強く引かれ、俺はタタラを踏んだ。気付けば、樹の腕の中。

「気安く裕太≠ニか呼ばないでくれる?」

 女の子達が目を白黒させているその間に、樹は脇に停めてあった車の助手席に俺を押し込んだ。先ほど横を通り過ぎようとしていた、ハザードの点いた車だ。
 意識を取り戻し、何故か嬉しそうに騒ぎ始めた彼女たちを無視して、樹も運転席へと荒々しく腰を下ろし、滑るように車はその場を離れ走り出した。

 十分か、二十分か…それよりももっと長く感じた時間、樹は無言で車を走らせ、気付けば樹のマンションの駐車場に入っていた。
 何がどうなっていま俺はここに居るのか…。取り敢えず車から降りるかと、ドアに手をかけたところで、突然運転席の樹に抱き込まれた。

「裕太くん…」

 絞り出したような樹の声に名前を呼ばれ、思わず全身がぶるりと震えた。
 分からない。俺はこいつに酷いことをされて、裏切られて、怒ってたはずだったのに。せっかく、珍しく盛り上がった飲み会から、無理やり車に乗せられ連れて来られたのに…。どうしてか、自分を抱きしめる男の背中に、腕を回したくなってしまう。
 動きそうになる腕をどうしたらいいか迷っているうちに、樹が腕の力を緩めて躰を離してしまった。
 そうして漸く真正面から見た樹の顔は、真っ青だった。

「お願い、結婚なんてしないで…」
「え…?」
「お願いだから…、誰と付き合っててもいい。俺のことは嫌いでもいいから…お願い…誰かのものにならないで…」

 もう一度、樹に抱きしめられた。

「もう会わないつもりだった。裕太くんのことは、完全に忘れるつもりだったのに…やっぱり無理なんだ」

 忘れるつもりだった。その言葉に、心臓がドクンと脈打った。

「な…だよ…忘れる…って」
「裕太くん」
「あんなことしておいて! お前は俺を、さっさと切り捨てて忘れるつもりだったのかよ!?」

 視界が怒りで真っ赤に染まって、目頭が熱いと思ったときには、瞳から涙が溢れていた。

「俺を責めたくせに、お前だって俺の気持ちなんか考えちゃいねぇじゃねぇか!」
「裕太くん…」

 あの日から、俺がどれだけ悩んだと思ってる? 

「大体俺は! お前に! まだ何も伝えて貰ってない!!」

 ビタン! と勢いよく平手打ちしてやると、不意打ちを食らった樹が目を白黒させた。

「俺は鈍いし、樹の恋愛感なんて関係ないと思ってたし! まさかお前が俺をそういう目で見てるなんて、思いもしなかったし! ハッキリ言われなきゃわかんねーんだよ俺は! なのに…急にお前、あんな無理やり……エロぃ…こと………しやがって!」

 肝心なところが小さい声になったのは許してほしい。

「俺はお前に、一言も好きだって言われてないんだからな!? もしかしたら、お前の嫌がらせで抱かれたのかって、思って…おれっ、俺は…ンぅう!」

 気持ちが昂ぶって、また鼻にツンと来たとき…樹の綺麗な手に顔を包まれて、唇を塞がれた。
 
「泣かないで、裕太くん…。ごめんね、本当にごめん、あんなことするつもりじゃなかったんだ。好きなんて言葉じゃ足りないくらい惚れてるけど…、友達としてでも側にいられるなら、それでいいって思ってたから」
「じゃあ…なんで…」
「裕太くんの口から結婚なんて言葉が出て、頭が真っ白になった」
「…なんで急に? 今までも、一応彼女だっていたのに」
「彼女のこと、そんなに本気で好きじゃないって知ってたから」
「え…」
「結婚とか、相手との将来のこと考えたことなかったでしょ。女の子って敏感だよ、自分に興味有るか無いかなんて、特に」

 だから俺、毎回同じ理由で振られてたのか…。

「裕太くんが今のままなら、多分一生結婚できないって思ってたから、ちょっと安心してたんだ」
「オイッ!」
「それなのに、見合いとか……ほんと、心臓止まるかと思った」
「目覚めた時の俺の方が、心臓止まりそうだったと思うんですけど」

 樹はバツが悪そうに俺から目を逸らした。

「堪んなかったんだ…、俺よりも優先するものができるのが…。それならいっそ、関係が壊れてでも、一回くらいって…」
「だから! 何でいっつも一人で全部終わらせんだよ! 俺の気持ちなんてどうでも良いわけ!? 欲しいのは躰だけかよ!」
「そんなわけない! じゃあ、考えてくれるの!? 俺とのこと、ちゃんと逃げずに考えてくれる!?」

 あの、誰をも魅了する美麗な男が、子どもみたいに顔をくしゃくしゃに歪めて叫ぶのを見て、俺の胸は甘く甘く、痺れた。

「考えるに決まってんだろ…」

 他の男相手だっだら相手にしない、絶対に。
 想像しただけで気持ち悪いと思うし、万が一野村に同じことをされたなら、今こうして普通に話すこともできないだろう。
 徹底的に避けるだろうし、連絡だってブロックする。会いに来たら、殴り飛ばして警察を呼んでいるかもしれない。

 眠っている間にあんなことをされたのに、樹からの連絡が途絶えて、寂しかった。悲しかった。叫び出したくなるほど、辛かった。夜だってよく眠れなかった。
 学生時代から、散々俺に付き合わせて来た自覚がある。大学は県すら別々になってしまったけど、樹の努力で繋がって来たようなものだった。
 誰もが樹の視界に入りたがって群がる中で、いつも一番に俺のもとに来てくれるのが嬉しかったし、親友としての誇りだった。大切にされている自信があった。
 あくまでも、全て友人としての優越に過ぎなかったけど、それでも樹は俺の中で特別だった。

 無理やり躰を開かされて、無体を働かれ悲しかったのは、樹の気持ちが分からなかったからだ。気持ち悪いだなんて、今思えば一度も感じなかった。その時気付くべきだったんだ、俺の樹への気持ちの可能性に。

「ちゃんと考える。お前にとっては昔からのことでも、俺にはまだ始まったばっかなんだ、ちょっとは時間くれよ…」

 樹の綺麗な瞳が、まるで星空を映す湖みたいに輝いている。

「ありがとう…裕太くん、ありがとう…」

 ぎゅう、とまた抱きしめられて、俺はそのまま肩の力を抜いた。今度こそ迷わず腕を樹に回すと、ハッとした様に樹が俺の顔を覗き込む。肌理細かい肌は、暗がりでも僅かな光を跳ね返しキラキラしている。
 なんという美人な男だと、思わず見惚れていたらまた、唇を重ねられた。
 軽く、触れるようなキス。そんな程度ならと好きにさせていると、段々と調子に乗った樹が触れ合いを深くし始めた…ので、

「オイっ!」
「痛っ」

 思い切り、艶やかな黒髪を流す綺麗な形の頭を叩く。

「俺、まだ付き合うって言ってない! 時間くれって言ってんだろ!?」
「……ごめんなさい」

 可哀想なくらいシュンとした目の前の男に、気勢を殺がれる。しかし躰はピッタリとくっついたままの樹を、なんとか押し退けて顔を覗き込んだ。

「なぁ、もう電車ねぇんだけど、家まで送ってくれるか?」

 ここは樹のマンションだ。連れ去られた時より時間も経ってしまい、終電はもう逃してしまっている。なんとなしに頼んだことだったけど、俺を見下ろす樹の瞳に不穏な光が宿った。

「俺の部屋に泊まっていけば?」

 その目は明らかに、欲情に濡れていた。
 いつもにこやかではあるけれど、その笑顔の下で何を考えているかサッパリ分からなかった今までの樹。けど、その仮面は完全に剥がれ落ちたらしい。
 わかり易すぎる表情に、俺は思わず笑ってしまった。

「そんな顔した男の部屋なんて、怖くて泊まれねぇわ!」

 笑う俺の肩に、樹が頭を擦りつけて懇願する。

「お願い、何もしないから泊まってよ。ちゃんと我慢するから」
「嘘つけ! お前さっき、獣みたいな目ぇしてたぞ!」

 思い出したらまた笑えてきた。やっと、本当の樹を知ることができた気がして嬉しかった。

「本当に、本当に何もしないから…今日みたいな記念日に、離れたくない」
「記念日って…大げさな」
「お願い…」

 抱きついたままグリグリと頭を擦りつける樹があんまり可愛くて、遂に俺も折れてしまった。

「わかった、お前を信じるからな。絶対なんもすんなよ?」

 嬉しそうに微笑んで、ゆっくりと頷いた樹に俺も笑い返す。
 だから俺は、アホだって言うんだ。


「ひやっ、ふあ…? あふっ、う…?」

 目が覚めたら、かろうじてシャツを羽織っているだけの姿で樹を受け入れていた。樹はヤル気満々なのか素っ裸だ。
 濡れ羽色の髪を汗に濡らし、陶器のように白く艶やかな肌を上気させ、薄桃色に染めている。細身に見える樹の躰は程よく鍛えられており、筋肉が美しく隆起している。そこに、汗が真珠のように浮かんでは流れ落ちる。

「はっ、はっ、裕太くん…裕太くん…」
「あぅっ! うっ、あっ、」

 ふざけるな、この嘘つき! そう叫びたくて開いた唇は、呼吸するのに必死でハクハクと開閉するだけになってしまう。その中で、苦しくて揺れる舌を見た樹が、昨夜車の中で見せた獣の目を光らせる。

「なに、誘ってるの? 可愛い…」

 ンなわけあるか! と罵る前に唇は目の前の美しい獣に喰らいつかれ、叫びは樹の中に飲み込まれ沈んだ。




「ねぇ、付き合おうよ裕太くん。俺、裕太くんの躰の味覚えちゃったもん、我慢するなんて無理だよ」
「て…めぇ…うっ、あっ、あっやめ…ッ」

 ぐちゅ、ぐちゅ、とゆっくり腰を揺らしながら、的確に俺の良いところを擦っていくこの男は、どれだけ性悪なんだろうか。もう直ぐ三十路だというのに性に未熟な俺の躰は、しつこく愛され過ぎて悲鳴をあげている…が、樹はお構いなしだ。
 眠っている最中に開かれた躰は、目が覚めてからも既に二時間以上、愛され続けている。まだ二度目だとういうのに男の味を知った俺の躰は、未熟ながらに貪欲らしく、樹を喜ばせる羽目になった。

「裕太くんも嫌でしょ? こんなセフレみたいな関係。だからさ、ね? 付き合いながら考えようよ、ね?」
「あっ! ぁあっ!」

 ね? の度に強く腰をスライドさせるのを止めてほしい。

「そうする? そうするでしょ? 裕太くん、ねぇ?」
「分かった! 分かったから! も、腰止めてくれっ! やめっ、ひあっ、あぁあっ!!」

 結局樹に言いくるめられた俺は、考える間も与えられずに樹の恋人になってしまった。
 この男の恋人になるってことがどれほど大変なことなのか、モテる男の恋人ってやつがどれほど大変なものなのか俺が思い知る日は、案外近くに迫っている。

「俺たち、いま恋人になったんだよね?」
「そうそう、そう、そうね、あっ! ひっ!?」
「嬉しい…愛してる、裕太くん」
「もっ、たのむからっ、抜いてぇえぇええっ!!」

 だが樹が与える快楽から逃げるのに必死な俺は、そんな日が足音を立てて近付いていることも知らなければ、飲み会の場所に樹が来られたのは、俺のスマホにGPSのアプリが仕込まれているからだなんて……全く、知る由もないのだ。


END


2018/12/10





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