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下弦の従者

 夜中にふと、目を覚ます。
 隣に横たわっていたはずの男の姿はそこになく、シーツは既にひんやりと冷たい。優しくもしつこく抱かれ、気怠さを残した躰をゆっくりと起こす。辺りに視線を彷徨わせれば、男の姿は直ぐに見つけることができた。
 小さく切り取られたそこから、僕はもう何度、去りゆく季節を見送っただろう。
 空調によって整えられた温度では分からぬ暑さや寒さは、空の色、太陽と月の位置と輝きから窺い知ることができた。だがそれも、結局は紛い物でしかないけれど。
 決して手の届かぬ、遠い場所にある天窓。そこから降りる光を浴びながら、男は静かに空を見上げて立っていた。
 天から降りる光に包まれた男はその容姿だけでなく、晒された肌すら美しい。

「何を見ているの?」

 儚く消えてしまいそうな男の背中を見ていたら、声をかけずにいられなくなった。男は僕の声に驚いたのか、勢いよく首だけで振り返る。

「すまない、起こしてしまったかな」
「いや、」

 躰にシーツを巻きつけると、それよりも冷たい床に足を下ろす。同時に、足に繋げられた鎖がベッドからすべり落ちた。
 寝台を離れ男の横に立つ。同じように窓を見上げれば、大きく欠けた月が僕らを見下ろしていた。

「恋しいかい?」

 掛けられた言葉の意味が分からず、僕は首を傾げる。

「あなたは時々、分からないことを言う」

 男はそんな僕の手を引いて抱き寄せた。

「月が君を見ている。今にも連れ去りそうに」
「なに…? まさか、月から迎えが来るとでも?」

 思わず吹き出した僕に、男は信じられない程真剣な目を向けた。

「怖いのさ」

 男の目を見たら、どう答えて良いか分からなくなった。
 まさかそんな、お伽噺みたいなこと。そう言って笑い飛ばしたかったけど、向けられた目が、想いが余りに真剣すぎて。

「いつ君が消えてなくなってしまうかと思うと、怖くてたまらない」
「こんなに着けられてちゃ、連れ去りようがないと思うけど」

 長い長い鎖が繋がった手を上げて見せる。
 手だけじゃない。首にも足にも枷は嵌められている。この部屋の扉だって、この男以外が開けるところを見たことがない。

「あなたは僕をこんな風に閉じ込められる人だから、僕がどんな人間で、どんな人生を歩んできたかも、もう全て知っているんでしょう? だったら、僕を助けようとする人間がいない事くらい分かっているだろうに」
「だから怖いのさ」

 男が小さく笑う。

「君は、あまりにこの世との繋がりが無さすぎる。まるで、ここは君の生きる世界ではないみたいだ」
「馬鹿なことを」
「そうでもないさ」

 男は僕の首に着けられた枷に触れた。

「実際、こうして君を鎖に繋いで閉じ込めても、少しも安心できないからね」

 男の思考に僕は首を捻るばかりだ。一体どこの誰が、こんな何の変哲もない僕を見てかぐや姫みたいだなんて思うのだろう。
 少しクセのある、艶やかな黒髪。綺麗な輪郭に縁どられた小さめの顔に収まるパーツは黄金比で、血筋も家柄も申し分のない男の性は、誰もが憧れ恋焦がれるアルファ。
 この世の頂点に君臨するに相応しいこの男こそ、月の宮人であるように思えてならない。きっと僕以外の誰もが、この話を聞かせればそう答えるに違いない。しかし男は、そんな僕らとは真逆なことを考えているらしい。

「変わった人だな、あなたは」

 平凡な容姿で、生まれも育ちも卑しい何の特別も持たない、星の数ほど転がっている石ころと同じ存在。子を孕むことも、アルファを高揚させる甘い蜜を出すこともできないベータの僕を、どうしてか拾い上げた変わった男。

「あなたくらいだよ、僕をこんなに必要とするのは」

 攫われてから、かれこれ一年と少しが経とうとしている。その間に、僕の行方を心配した人間が果たしてどれほど居ただろうか。事件に発展することさえなく、行方不明者として扱われているかも怪しい。だから、安心していいのに。そう思って言った言葉だったけど、男は首を横に振った。

「君は自分の価値を少しも分かっていない。アルファをアルファとして意識しない、媚びない人間が、アルファにとってどれだけ特別か君は知らなさ過ぎる」

 アルファは人間の頂点に君臨する生き物。そんな生き物を意識せずいられる人間など存在しない。どの人間も、性に関係なくギラついた目でアルファを見ている。それがどれだけウンザリする世界か、それはアルファにしか分からないこと。
 ベータである僕が、分かるはずがないのだ。

「まぁ、君の魅力は私だけが知っていればいいんだけどね」
「なんだよ、それ」

 僕を抱きしめる男の腕に力が篭った。まだ、不安を感じているのか。

 ここへ閉じ込められた日から、男はずっと僕を離さない。
 枷をつけて鎖に繋いで、この身を奥深くまで暴いた。目の前の美しい男は、きっと僕より僕の事を知っているだろう。それなのに、男はそんな漠然とした不安に怯えて身を震わせる。
 僕は珍しく、そんな男の背中に腕を回した。

「怖がる必要なんてないよ、だって一緒に帰れるじゃないか」
「…なに?」
「だってそうでしょ? 僕がかぐや姫なら、あなたは月から迎えに来た従者じゃないか。何の繋がりもない、生きる意味さえ見い出せなかったこの世界でただひとり、あなただけが僕を見つけ連れ出してくれたんだから」
「君は…」

 自分を拉致した男相手に、連れ出してくれた、なんて表現はおかしいのだろう。だが、実際そうなのだから仕方ない。

 突然攫われ、閉じ込められた。逃げられぬように枷を着けられ、嫌がる僕を押さえつけて男は―――
 それでも僕はもう、随分と男に絆されている。
 男との情交は、初めこそ暴力として受け止めていた。だがそれも何度か与えられる内に、暴力は暴力でなくなり、愛情を感じるようになった。それからの変化はあっという間だ。
 抱かれれば共に快楽を追うようになってしまったし、仕事で忙しいのか躰を重ねる日があけば、寂しさを感じるようになった。
 このまま放置されれば、僕は死ぬしかない。
 そんな危機感も相まってか、積極的に肌を重ねる日も増えた。敏い男のことだ、きっとそんな変化には気付いているだろう。だが、生きる意味も求められる強さも知らなかった僕の灰色の人生が、閉じ込められ男に愛を注がれる度に、極彩色な世界へと変化していることには、気付けているだろうか?

「なんだ、今さら僕を手放す気なのか。まぁ、あなたなら簡単に次を見つけられるだろうけど」
「そんなわけがないだろう!? 私を満たせるのは君だけなのに!」
「だったら何を悩むの? 僕が何であろうと、その手を離さなければいいだけのことじゃないか」

 簡単なことでしょう? 僕が首を傾げれば、男は暫し呆気に取られた顔を晒した後、堪えきれず笑い始めた。

「なんだ、笑うことはないじゃないか。突飛な話を始めたのはあなたなのに」
「ああ、そうだな。そうだった」

 男は笑い続ける。馬鹿にしたようでも、ただ可笑しいだけでも無いような、安心したような、泣き出したいような、そんな不思議な笑い方だった。
 男はそっと僕の躰を離し、唇を重ねた。
 間近で見た男の肌は、矢張り月の光を浴びてキラキラと輝いている。この男は、確かに月の宮人だと思った。

 再び深く繋がった僕らを、大きく欠けた月が見下ろしていた。

 あの月は、果たしてどちらに迎えの手を差し伸べるだろうか。男が言うように、僕だろうか。僕が言うように、男の方だろうか。だがそれはどちらでも同じことなのだ。

 男は決して、僕を離したりしないのだから。


END


 名もなき彼らへご投票頂き、ありがとうございました!



あとがき







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