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【SIDE:雨宮】
闇色のドロドロとしたものが手足に巻きつき、上手く身動きが取れない。
巻き付く数はどんどん増すばかりで、放って置けばそのうち全身を覆い尽くしてしまうだろう。
俺はただ、それをなす術なく受け入れるしか出来ないのだ。
◇
脱いだ服を身に纏い起き上がる。
「……尚?」
恋人が何を求めているのか分かっているのに。
「疲れたでしょ。外は風紀が見張りしてくれてるから、安心して眠って」
「尚っ」
“そばに居て”とその目は顕著に物語っている。それでも俺はそれを振り切り立ち上がる。
「直ぐに戻って来るから」
振り向いたら立ち去れなくなる。だから卑怯な俺は、そのまま陸を見ずに部屋から出て行った。
だから、陸がどんな顔をしていたのか…俺には分からない。
――リンゴーーーン
無駄に重々しい音が扉の向こうで鳴っている。けれど、その音に反応した物音は聞こえない。
もう一度鳴らしてみるが結果は同じだった。
「旬…何処にいるの…?」
陸が危険な目にあったと連絡先をくれたとき、旬の声は震えていた。詳しい内容を聞いて俺も驚いた。
陸がその対象になり易いと前々から注意を払っていたのに、そばから離れる様になってからその注意を怠っていた。
会長や副会長達と共に居るのだからと思っていたが、ここ最近は単独行動が目立っていた。それだけでカナリの危険が増すことは明らかだったのに、俺はここのところ旬の事ばかり考えていた。
俺のせいだ…
慌てて部屋を飛び出した。後悔の念に涙が溢れた。泣いても無駄だってことは分かっているのに、それは止まらない。
生徒会室のドアを開ければ、旬の哀しみに満ちた顔があった。視線は俺を捉えてくれなくて、思わず旬に駆け寄り無理にでもこちらを向かせたくなる。
けど、すんでの所で思い止まり仮眠室へ足を向けた。
ベッドの上に居る陸の顔色は酷いもので、再び後悔に苛まれる。
(ごめん、ごめん陸ちゃん…俺がちゃんとしていたら、俺さえちゃんとしていたら…)
罪悪感で押しつぶされそうになる。
飛びかかる様にして陸を抱き締めた。直ぐに陸も抱き締め返してくれる。
陸の瞳がキスして欲しい、もっと深く繋がりたいと言っている。俺は望まれるままに唇を合わせた。けれど心はポッカリと穴を開ける。
深く触れ合いながらも、背後から無くなった気配に意識を持って行かれていた。目の前にある暖かい身体に触れながら、俺の心は別の何処かへ消えていった。
【SIDE:旬】
「お、…はようございます」
生徒会室の異変に思わず言葉をどもらせた。
「おはよう、旬」
「……はよ」
何時もなら一つしか返ってこない返事が、今日は二つ返ってくる。
「浅尾先輩」
素っ気ない挨拶は浅尾先輩のものだった。俺の挨拶に返してくれた事は今までに殆んど無く、まずそれに驚いた。そして当然、
「あの、体調は…てか、何でそこに?」
事件の被害者が、昨日の今日で普通な顔をして…しかも何故執務机についているのだろうか?
「僕が僕の執務机にいちゃ悪いかよ」
ギロリと睨まれ思わず肩が跳ねる。
「旬。陸ちゃんは戻ってくれたんだよ、生徒会に」
にっこりと笑う雨宮先輩の笑顔に、押し込めたはずの胸の痛みがぶり返した。
「浅尾先輩が……復帰…」
「あんな事が有ったし、もう一度説得したらやっと了承してくれたんだよ」
守る為には側に居てくれることが一番だ。事件をきっかけに浅尾先輩も思い直したのか、漸く生徒会へ戻ると決めてくれたらしい。
大体が、先輩が特に興味も無さそうな転校生について回っていた理由もイマイチ分からない。だからこそ、浅尾先輩が生徒会に戻って来るのは一番納得の行く結果だった。
「じゃあ、俺は陸ちゃんと風紀に書類取りに行ってくるから」
二人は立ち上がり、俺の横を通り過ぎて行く。俺も自分の机に就こうと足を踏み出した時だった。
「あ、そうだ」
雨宮先輩が突然振り返り、俺の腕を掴んだ。
「いっ!」
「旬、昨日は何処に泊まったの?」
「え?」
「自分の部屋に居なかったでしょ」
俺は思わずポカンとしてしまった。
朝までここに、浅尾先輩と居たはずの先輩が何故、俺が自室に戻らなかったことを知っているのだろうか。
「あ…いや、友達の部屋に…」
「友達? それ、誰?」
「……歩、です」
何故か、以前首に付けられた痕の事で揉めたあの日以降、雨宮先輩の前で歩の名前を出すことに躊躇いが生まれる様になった。それは何かしらの誤解を生みたく無いだとか、そんな単純なものでは無く…恐れに近いものを感じるのだ。
その恐れは矢張り気のせいでは無く、歩の名を聞いた途端先輩の目が細まる。
「ぃ、いたっ、」
俺の腕を握る力は異常に強く、ギシっと軋む音を立てた。
「痛いっ、先輩っ!!」
「尚!!」
「………」
俺が堪らず声をあげると、浅尾先輩も何処か焦ったように制止の声をかけ、雨宮先輩は無言で手を離した。
「あんな事が有った後だから、部屋に居なくて心配した。あまり無闇に一人で出歩くんじゃないよ?」
ポンポン、と俺の頭に手を乗せた時には、もうあの目は何処かへ消えていた。
「その……すみません、でした」
謝る俺を一瞥した先輩は、無言のままの浅尾先輩の肩を抱き部屋を出ていった。
「っはぁ…」
無意識に詰めていた息を吐く。
何だったんだろう、あの緊張感は。そして何故、先輩は俺の部屋へ訪ねて来たのだろうか。俺にはさっぱり分からないことだらけで、頭の中は混乱している。
「いてっ、うわぁ…」
ただ、腕についた赤紫に変色した手形の痣が、あの妙な空気が気のせいで無いことをはっきりと知らしめていた。
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