×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



 逃げ出したはずの背中は案外直ぐに見つかった。
 ボクが追ってくることは無いとでも思っているのか、その足取りは酷く緩慢だ。
 そんな彼を捕まえることは簡単なことなのに、ボクはその背中に直ぐに声をかけることが出来なかった。

 ボクよりも断然大きくて立派な背中。それなのに酷く悲しげなそれは、とても小さく見えた。
 そうさせているのは紛れもなくボクの存在のせいなのだろう。そう思うと、簡単に声をかけられなかったのだ。でも…。
 何度も言う様にボクはもう、間違えることなんて出来ないのだ。

「リンちゃんっ!!!」


 ◇


「……今、会社帰り?」

 何言ってんだろうと自分でも思うんだけど、雑踏の中では話す言葉を選ばなきゃならない。そう考えていたらこんな無難な言葉が飛び出していた。
 片や女の様な容姿の小柄な男が目を泣き腫らし、片やスーツをパリッと着こなした男前が今現在……涙をボロボロと零しながら立って話しているのだ。
 この時点で既に普通では無いから注目の的だったけど。

「久弥くん…なんで…」
「ボクはリンちゃんに話がある。だから追いかけて来た」
「でも、さっきの…」

 そこまで言ってハタと凛一が口をつぐむ。薄々感付いてはいたけど、多分ボクと美紀さんの関係を何かしら知っているのだろう。

「さっき一緒に居た人のことは気にしなくて良いよ。今のボクに、リンちゃんのこと以外で大事な用は無いんだ。お願いだから、逃げないで」

 凛一の腕を捕まえた掌に、ボクはぎゅっと力を込めた。







「で、何でこんなことになるわけ?」

 ボクは今、小奇麗なマンションの一室にて両腕を拘束されていた。

「ねぇ、聞いてんの? リンちゃん」

 ボクの目の前で正座する凛一は、ふわふわのラグを見たままこちらを見ようともしない。けど、拘束した凛一を責める気なんて一ミリも湧かなかった。
 だって、彼にこんな行動を起こさせたのもきっと、ボクなんだろうから。


『お願いだから、逃げないで』

 そう言ったボクに凛一は素直に頷き、強張った体から力を抜いた。
 さて、ゆっくりと話すには何処へ行くべきか。
 静ちゃんの店では他所からチャチャが入りかねないので、いや寧ろ絶対に入るので、盛り上がるなら最適だがゆっくり話は出来ない。

「ねぇ、ボクの家に来る?」

 凛一の顔色を窺うようにして尋ねてみれば、その顔はみるみる青ざめていく。

(何か…悪い想像してんな)

 何かしら悪いイメージがあるのか、凛一は頑なに顔を横に振る。

「じゃあどうしよっか…ゆっくり話をする為にはここじゃあね。かと言って、ホテルだって嫌でしょう?」

 真剣な話をするのにラブホテル。それは流石にボクも嫌だ。誰にも邪魔はされないけど、この真剣な気持ちが伝わらなかったら最悪だ。
 そうしてボクがウンウンと悩んでいると、凛一がポツリと呟いた。

「俺の家では駄目でしょうか?」

 願っても居ない申し出だったので、ボクは二つ返事で頷いた。

「うん、行こう」



 そうしてボクは、訪れた凛一の部屋で両腕を拘束されたわけだ。でも、無理矢理されたわけではない。
 むしろ縛ろうとする凛一に協力的だったかもしれない。
 その上後ろで縛られた訳では無く前で縛ってあって、しかも結構緩いから正直あまり意味が無い。
 はっ、と短く息を吐くと目の前で凛一の体が飛び跳ねる。

「あー…、あのねリンちゃん。ボクはリンちゃんを責める気なんて少しもないし、今の溜息はさぁ…、なんつーか、自分に向けて? って言うかさ」

 そこまで言うと、漸く凛一が顔をボクに向けた。その瞳からはまだ、涙が溢れてる。ボクは拘束されたままの手で、そっとそれを拭ってやる。

「ボクさ、リンちゃんに聞きたいこと沢山あんの」

 ボクに抱かれたのは、本当に友人を助けるためだったのか。
 ボクに抱かれてる時、顔を隠すのは何故か。
 ボクが美紀さんの名を呼んだ時…泣いたのは、何故か。

「でもね、それよりも先に、ボクの話を聞いてくんない?」
「い、嫌だッ」

 即行で拒絶されてコケそうになる。

「何で?」
「嫌だ、こ…怖いっ」
「何が怖いの? ボクの話?」

 凛一は答えないまま、また蹲るようにして顔を隠してしまった。
 ボクの中の密かなる期待はどんどん確信へと変わっていく。

 ねぇ、リンちゃん。
 貴方はきっと、ボクのことをさ…。

「好きだよ。ボクはリンちゃんの事が好き」

 気付けば溢れていた。
 本当はもっとちゃんと順をおって伝えて、バシッと男らしく決めてやりたかった。でも、そんなものがどうでも良くなるくらい今のボクからは気持ちが溢れていた。
 そんなボクに反して凛一はと言うと、何とも言えない顔をしている。驚きと疑いが混じったような複雑な表情だ。

「やっぱ、信じらんないよね…」

 本来の姿でない形で男達のカラダを開かせ、そちら側に目覚めさせておきながら飽きれば簡単に捨てる“タチ喰い”と“ノンケ喰い”。
「恋人なんて要らない」「縛られるのなんてまっぴらだ」と常に牽制することも忘れなかったボク。

「そんな軽薄なボクが、今更何を言っても信じて貰えない事は理解してるんだ。そう思われても仕方ない態度を取ってきた自覚があるから…」
「ちっ、違ッ」
「違わないよ、本当の事なんだ。でもね、お願いだから信じるかどうかは最後まで聞いてから決めて欲しい。始めから全部、隠さず話すから」

 ジッと見つめた凛一の瞳の端で、溢れ損ねた涙が光った。


 
 ◇



 ボクの周りはクズばかりだった。今思えば、“類は友を呼ぶ”とはよく言ったもので、ボク自身がクズだったのだからそれは仕方のない事だった。
 でも、その頃のボクは馬鹿すぎて何も分かっちゃ居なかった。

 両親が不仲である事。
 両親がボクに興味が無い事。
 女扱いされてバカにされる事。
 寄ってくる奴が碌でも無い奴ばかりな事。

 そして、
 ボクがゲイである事。

 その全てが世の中の所為だと思い込んでいた。恵まれない環境を恨んでいた。
 そうしてボクが道を踏み外すのは簡単で早かった。

 信じる事も、大切だと思う事も。
 信じて貰う事も、大切にして貰う事も。
 全部が縁の無いものだと諦めきっていたボクは、ただひたすらに誰かを傷付けて生きて来た。
 傷付けられる奴がバカなんだと嘲りながら生きていたのだ。その時に付けられたあだ名が【タチ喰い】だ。
 ボクの容姿を見下す奴らを組み敷くのが楽しくて仕方なかった。アレは一種の復讐だったのだと思う。そんな頃、一人の男と出会う。

「それが“美紀さん”だった」

 初めはそれこそ“タチ”を喰ってやるつもりで近付いた。でもあの人は、ナイフを振り回して生きるボクを時間を掛けてそっと包んでくれていた。生まれて初めて温もりを与えてくれた人だった。

「でも、初めてだったからその事に気付けなかった。気付いた時には手遅れで、とっくに横から攫われてたよ」

 後悔して、後悔して、後悔して、…泣いて。

 また自暴自棄になった。
 美紀さんの相手がノンケだった事もあり、今度は店で知り合うノンケを落として開発して遊んでやっていた。
 そしてまた新しくあだ名が増えた。【ノンケ喰い】だ。
 そんなノンケ喰いの噂が広がる中で見つけたのが、凛一の友人で、そこに釣られてやって来たのが凛一本人だった。


『俺じゃ駄目ですか?』


 あの出会いは衝撃だった。
 ただでさえノンケがウザくて消えろと思っていたのに、ボクのコンプレックスをモロに刺激する男前なノンケが誘いをかけて来たのだから。

「友達をかばって犠牲になるとか、本気でアホだと思った。ボロボロにしてやろうって…思ってたんだよ、あの時」

 だから自身で後ろを準備させた。最後まではヤるつもりは無かったけど、兎に角あの純粋そうな顔を歪めてやりたかったのだ。

「でも、気付いたらさ、ボクってばバカみたいにリンちゃんに嵌ってた」

 初めて凛一を抱いた日に見た、名前を呼んだ時に赤らめた耳が目に焼き付いた。もっと色んな話をしてみたいと思った。
 こんな風に刹那的な関係だけで繋がるのではなく、もっと、別の繋がりが欲しいと思い始めた。

 日に日に凛一の事を考える時間が増え、そうして気付けば美紀さんの事を考える時間が減っていた。



「あの時美紀さんの名前を呼んじゃったのは、あの人を愛しく思ってたからじゃないんだ。兎に角パニックだった。会うのを避けてた美紀さんが目の前に居て、なのに前みたいな美紀さんに対する衝動とかが無くなっててさ。リンちゃんを抱いてたらホッとして、でも今度はあの人に対する罪悪感が湧いてきて、頭ん中がぐちゃぐちゃで…」

 散々苦しめて、投げ出して、避け続けて…それなのに今ボクはこんなにも心を軽くさせて貰ってて、本当にそれでいいのかな。そう考えたら思わず名前を呼んでいた。それは確かに、罪悪感からの衝動だった。

「リンちゃんに惹かれた切っ掛けは、正直ボク自身も分かんない。それでも…毎日リンちゃんの事考えてた。会いたいって思ってた。避けられて、辛かったよ」

 美紀さんの件で出来た傷は、人生で一番大きくて深かったと思う。けれどその傷が癒えるのもまた、人生で一番早かったのだ。

「リンちゃんの存在に救われた。あのまま居たらどうなってたか分からないくらい荒れてたのに、ボクはリンちゃんのお陰で戻って来られたんだ」

 沢山のクズな人間を見て来たからこそ、分かる。凛一は今のこのご時世では珍しく純粋で、そしてとても綺麗だった。それは本来ボクが触れることなんて許されない程に…。
 それでもボクは彼が欲しいんだ。今度こそ、どんなことをしてでも諦めたくない。

「リンちゃんがどうしてボクに近づいたのかなんて分かんないけど、それでも良いんだ。その心に誰が一番大きく住みついてるのかってのも…この際置いておこう。たださ、重要なのは“今”、そこに居るのは一人じゃないでしょってこと。そこにはさ、ほんの少しだけでも、ボクが居るんじゃないの?」
「ほんの少し何かじゃないですっ!!」

 今度はボクが目を見開く番だった。

「ほんの少し何かじゃ、ないんです」
「リンちゃん…」
「俺の中には、今だってそれより前だって久弥くんしかいないんです。俺はずっと久弥くんを見てました。誰に聞かなくても、君が美紀さんに惚れてるって分かる程度には…」

 凛一が溢れる涙を必死で拭う。

「それは…さ、リンちゃんがボクの事を好きなんだって、思って良いの?」

 凛一が顔を上げた。

「今のリンちゃんの中は、ボクの事でいっぱいだって、受け取って良いの?」

 凛一が顔を赤く染めながら、たった一度だけゆっくりと頷いた。

「俺は…卑怯で醜い奴なんです」
「どうして? こんなに綺麗なのに」

 涙を零し過ぎた凛一の目は、ウサギの様に真っ赤に染まっていた。でも、それでもその瞳は純粋で美しい。

「だって俺は嘘を…友達さえ利用して、俺は」
「リンちゃん」

 ボクは何かを語ろうとする凛一の唇に指を当てた。

「今はそんな事どうでも良い。言ったよね? 重要なのは、リンちゃんの中にボクが居るかどうかだって」
「………」
「それだけでボクは嬉しい。それまでの過程なんて今さらどうでも良いくらに嬉しいんだ」
「久弥くん…」
「好きだよリンちゃん。ボクは誰よりも、貴方が好きだ」

 詳しい話なんて後回しで良い。
 今必要なのはそんな事じゃなかった。
 ボクは力いっぱい凛一を引き寄せる。

 触れあったのは互いの熱い唇。
 凛一を抱きしめたボクの腕から、緩い拘束が外れて床に落ちた。でも、それを気にする者はこの場に誰も居なかった。


 そこにあるのはただ、
 互いを求めるふたりだけ――――






「リンちゃん。ボクを見つけてくれて、ありがとう」







【SIDE:月島凛一】


 ふと目を覚ますと既に外は明るくなっていた。
 もしかするともう昼を過ぎているのかもしれない。

 起き上がる為に置いた手元から、ギシっと軋んだ音が立つ。無意識に音源へと目を向けると、そこにはまるで人形のように整った少年の寝顔があった。…いや、実際には青年と呼ぶべき年齢なのだが、その寝顔はどこからどう見ても少年の様に見えた。
 凛一はその少年のような青年、久弥の髪に手を伸ばすと、目にかかる前髪をそっと梳いた。



 初めて凛一が久弥を見かけたのは今より半年ほど前の事だった。
 高校時代、男子校に通っていた凛一は、その日久しぶりに同窓会に参加し旧友と会っていた。
 凛一の通っていた高校が全寮制の男子校だった為、過去を話す内に自ずと皆“男同士の恋愛”を思い出していった。

「そう言えば、俺たちのアイドルの綾ちゃんって今頃どうしてんだろ?」
「あ〜、そう言えば居たよなぁ、綾ちゃん」
「つーかアイツ、ビッチなだけじゃん」
「相手にされた事無い癖に」
「うるせー!!」

 そうして昔話に花が咲く二次会で、突然誰かが言いだした。

「そう言えば、ノーマルも受け入れてるそっち系のバーがあるんだってさ」
「あ、それ俺も知ってる」
「何か店長が超絶美人だって噂だぜ」
「見たい見たい! 我らがアイドル綾ちゃんとどっちが美人か、皆で見に行ってみようぜ!」
「凛一は俺らの監督な? もう他はベロベロだし〜」

 そんな悪乗りした友人らが三次会へと向かい、意気揚々と向かったバーの入り口を開けようとした時だった。


 ――カランッ


 凛一達が開くよりも先に内側から勢いよ開き現れた一人の少年。

「ちょっと、退いてくんない?」
「「「「えッ、」」」」

 目の前に立つのは凛一達よりもカナリ小柄で、そして女の子にも見える…男の子だった。
 後に彼が“少年”ではなく立派に成人した青年なのだと知ることになるが、その時の凛一たちはただただ呆気にとられていた。

「ここ、未成年も来て良いのか?」
「つか、アレは男なのか?」
「綾ちゃんより可愛いな…」

 驚いたまま動けない凛一達を残し去って行くその背中をみて、友人たちはそれぞれに呟き、そしてやがて彼らも店の中へと入って行く。
 でも、凛一はそこから暫く動くことが出来なかった。

 自分よりも二十センチ程背の高い、身体つきも結構ガッチリとした男性をあの少年は、「美紀さん、こっち」と囁く様に呟くと、緩やかに彼の腰に手を回し、凛一達から庇うようにしてリードし外へと出て行ったのだ。

 目を奪われた。それも、一瞬にして。

 一番性に多感な時期に同性しかいない高校へ通っていれば、少なからず周りにも影響を受ける者が現れた。でも凛一は、結局その三年間で同性に興味を持つことは一度も無かった。
 それは勿論高校を卒業した後も同じで、女性にしか目を向けることは無かった。寧ろ女性を相手にしてもどこか冷めていた凛一。

 そんな男が一瞬にして少年に……久弥に、目を奪われた。そしてその一瞬で凛一は嫉妬したのだ。彼に守られるようにしてエスコートされる“美紀さん”に、心底嫉妬していた。
 その時の凛一には初めての感情に戸惑っている余裕すら無かった。ただ、あの腕に収まりたいと…そればかりが心を占めていた。


 前髪を梳いたことで露わになった、久弥の長い睫毛。
 全体的に色素が薄い彼には似合いの焦げ茶色の睫毛が、輪郭をなぞる凛一の指に反応してふるふると揺れた。
 それを凛一は、夢心地で眺めていた。

 まさか本当に、久弥が自分を見てくれる日が来るなんて…。


 凛一が静の店に通い始めたのはそ、久弥と出会ってからすぐの事だった。
 自分の容姿がそういった趣向の相手から好まれやすい事を過去から学んでいた凛一は、一通りの変装をして暫く店に出入りしていた。でも、

「アンタ、一体何がしたくて来てんの?」

 頭上から降ってきた不機嫌な声を、凛一は一生忘れることは無い。

「えっ、あ、あの…」
「見た目から行動から、何もかもが怪しすぎんのよ。何か悪い事企んでんならぶっ飛ばすわよ」

 見上げた先に立っていたのは、この店の店長である静だった。
 噂に聞く女性よりも美しいと言われる美貌は確かだったが、そこから見えるオーラは明らかに男のものだった。
 結局店の裏へと連れ去られた凛一は、静にすべてを白状する羽目になる。だが、結果から言えばそれが功を奏した。

「…どうか、久くんを救ってあげてね」

 そう呟いた静は、その日から凛一の協力者となってくれたのだ。



 あの時は呟きの意味が分からなかったが、今なら少しわかる気がする。
 きっとあの時すでに静は分かっていたのだ。久弥と美紀の関係が、この先ずっと続くものではないと言う事を。
 そして、それによって久弥が未だかつてない程深い傷を負うかもしれないと言う事を。

 だからと言って静は特に何もしなかった。
 凛一が店で目立たない様にさせる程度の手伝いはするが、凛一と久弥を引き合わせる様なことも無ければ、久弥と美紀の関係を上手く終わらせる手助けもしなかった。
 だからこそ凛一は、長い間美紀と久弥の関係を見続けることになったのだ。でも、そのことで静を恨むかと言ったらお門違いだと分かっている。

 彼が動かないと言う事は、“自分自身でやるべきこと”だと言う事なのだ。



 美紀との決別に傷付き弱った久弥。その弱みに付け込むようにして、久弥の心の隙間に滑り込んだ凛一。
 ついに交わる二人の関係。
 だが、正直なところ凛一は上手くいく気配など全く感じていなかった。いっそ関わらなければ良かったのではとさえ思うほど、途中凛一は追い詰められていた。
 どんなにカラダを重ねても、いつだって美紀の気配を感じていたのだ。

 久弥は「凛一の存在に癒された」と言ってくれたが、それは多分、自分で気付いたものでは無いはずだ。
 だって、あの頃ふたりは余りにすれ違い過ぎていた。カラダこそ重なりあったが、どちらも心がちぐはぐだったのだ。

 久弥の気持ちが整理された切っ掛けは?
 凛一への気持ちに気付いた切っ掛けは?
 美紀への気持ちを吹っ切った切っ掛けは?

 そうして思いつくのは、矢張りあの美貌を携えた一人の男の存在だった。

「お礼、言いにいかないとな」

 もう一度髪を梳いた凛一の手に、久弥は甘える様にして顔を寄せた。


SIDE END.



 ◇



「で、自慢しに連れて来たわけ?」

 目の前で白い目を向けてくる静に、久弥は溢れ出る幸せを振りまきながら微笑む。
 カウンターに座った久弥の後ろでは凛一が店の常連客や店員たちに囲まれ、久弥との関係を揶揄われている真っ最中だった。

「うふふふふ、妬かないでよ静ちゃん。あ、リンちゃんってね、抱かれてる間ずっと顔真っ赤でさ、それを必死で隠そうとすんの!! それがもう超超超可愛いんだよ!!」
「アホ」
「え」
「バカアホマヌケ。アンタのせいで貴重な客が減る所だったのよ、このヘタレ」
「うわっ、ひっど!!!」

 冷たい言葉ばかり投げて寄こす静。だけど、その顔はどこか優しい。
 先ほど「美紀くん、お店に来るようになったわよ」と言った時も、とても優しい顔と声をしていた。まるで久弥を安心させるかのように。

「ねぇ、静ちゃん」
「なぁに? もう惚気なら聞かないわよ」
「ありがとね」
「………」

 久弥の言葉に静はグラスを磨く手を止め、顔を上げた。

「いつも助けて貰ってんだけどさ、今回ばかりは、本当にありがとう。ボク、今度こそ間違えずに済んだ」

 久弥にとって人生とは辛いことばかりの道だったけど、静と出会ってからのそれは僅かずつではあるものの、穏やかに良い方向へと変化していた。
 誰も見ようとしなかった、久弥本人ですら見ようとしなかった心の奥底を、そっと見守り続けてくれていた。
 普段はどんなに馬鹿やっても放置なくせに、本当に助けて欲しい時はちゃんと手を差し出してくれて、それもさり気なくやってのけるのだから、“静”という男は本当に良い男だ。

「改まって何言ってんの。私は何もやってないわよ」
「……嘘つき」

 きっと、何度お礼を言ったって静の主張は変わらない。
 まぁそれでこそ、静は静なのだけど。
 そうしてふたりで目を合わせそっと笑い合ったところで、後ろからワッと歓声が上がった。

「あらら、アンタあれ、放っておいていいの?」
「ゲッ!!」

 久弥が慌てて振り向けば、今まさに凛一がオカマバーのアイドル“ジェシー”にキスをされそうになっている所だった。

「ちょっ、ちょっとジェシー!! それは無しだよこの馬鹿!!!」

 飲みかけのグラスを放り出すようにして駆けていく久弥。その姿を見た静は、久弥に見つけた一つの痕に目を見開く。

『恋人? 邪魔なだけじゃん。縛られるのなんてまっぴらだよ』

 そんな事を繰り返し言っていた久弥の耳の後ろに見えた、小さな小さな赤い痕。けれども確かに主張する“所有の証”。
 正面から見ても分からないそれは、きっと久弥自身も気付いていないのだろう。

「ちょっと!! リンちゃんはボクのなんだからねっ!?」

 きっと久弥は、自分が凛一を捕えていると思っているに違いない。だけど静にはもっと違う景色が見えていた。

「あぁあ、あの子も遂に囚われちゃったか」

 助けにやってきた久弥を凛一が抱き締めたのを見て、静はカウンターに肘をついたままひっそりと笑った。



 だってそれは、
 久弥が甘い甘い蜜の檻に囚われた瞬間だったから―――


END



戻る