最終話
「本当に一人で平気?」
「はい、大丈夫です」
大学の前で新太さんに聞かれ答える。
でも、嘘だ。本当は怖い。
昨日の昌也は明らかにどこかおかしくて、真面に話を出来る様には思えなかった。
大学内は広いけど、待ち伏せをされている可能性だってある。何をされるか分からない。
俺たちは互いのスケジュールがもう頭の中に叩き込まれているから、待ち伏せをすることなど簡単なこと。それ程に長い付き合いだったのだ。
「どうしたって俺は、アイツと話さなきゃならないんです」
「そうだね、それは僕もそう思う」
本当は新太さんに側に居て欲しい。西でも東でも無く、新太さんに側に居て欲しい。
新太さんは優しいから、言えばきっと授業を休んででも一緒に居てくれるに違いない。でも、そこまで迷惑をかける訳にはいかない。
「俺、行きます」
「分かった。何かあったら直ぐに連絡して」
「はい」
新太さんと連絡を取れるよう、携帯画面を準備してポケットに入れた。
「じゃあ、またお昼に」
そう言って背を向けた所でもう一度声を掛けられる。
「隼人くん」
「……はい?」
「大丈夫。大丈夫だからね」
振り向くと、新太さんは笑っていた。いつもの困った様な顔で、優しく。
新太さんが俺に背を向けるのと同時に、俺も背を向けて歩き出す。
昌也はきっと、探さなくても向こうからやって来るに違いない。異常なほど心臓が早鐘を打っていた。昌也に対して初めて持つ感情に動揺は隠せなかった。
でも、少しだけ強張る体の力が抜ける。
―――護るからね
そう言われた気がした。
◇
「何で昨日逃げた?」
「痛ッ…昌也、痛い!」
「何で逃げたって聞いてんだよ」
大学内には高校の時の様に便利な空き教室なんてものは無い。
新太さんに連絡する暇も無く昌也に連れて行かれたのは、殆んど人に使われていない階段の踊り場だった。
施設の中でも最も奥まった場所にある上に、この階段を使うことで辿り着く場所もまた知れていることから誰も使おうとしない。
「手、放せよっ」
胸ぐらを掴まれたまま、無理矢理壁に押し付けられ息が詰まる。
「俺を切り離してどうすんの? お前」
「くっ…なに、」
「俺の声にまで反応してクズクズに濡れる奴が、俺無しで生きていけると思ってんの? この淫乱」
「ッ、」
俺の目に、生理的なものとは別の涙がジワリと浮かんだ。
数年かけて開発された俺のカラダは、コイツが言う通り昌也の声を聞くだけでも熱を持つ様になっていた。
新太さんと居た数週間の間だって、カラダが快楽を求めて疼く時があった。それが凄く恥ずかしくて、悲しくて、虚しくて…バレたくなくて必死で平気なふりをしていた。
「俺がヤらない間はアイツにヤらせてたのかよ」
「な、…ちがっ」
「男をしゃぶんのが好きだって言ってやったか? 奥の奥まで突かれんのが死ぬ程好きだって教えてやったかよ?」
「新太さんとはそんなじゃない!!」
「どうだか」
「ッ、……っく、ふ、」
荒い手付きでシャツの中に侵入してきた昌也の手。その刺激にピクリと従順に反応した自分のカラダに絶望して、遂に涙腺が決壊した。
「泣く程嬉しいかよ」
「違うっ、嫌だ!」
「ジッとしてろって言ってんだろッ」
昌也が手を振り上げた。このまま打たれるのか? それでも良い。
心がちぐはぐになった今、たとえ優しく触れられたのであっても昌也に抱かれたくなんてなかった。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
目を強くつむって、来るであろう衝撃に備えた時だった。
「いい加減にしてくれるかな」
俺を押さえ込んで来る昌也の後ろから、凛とした声が響いた。その瞬間、昌也の体が吹っ飛ぶ。
「平気か?」
「ごめんね、止めるのが遅くなって」
「やっぱ時間の無駄だったねぇ」
東の後ろから、先ほどの凛とした声の主である新太さん、そして西が姿を現した。
「新太さん…」
「ちゃんと話し合いになるかどうか様子を見てたんだ。でもダメだったね。東くんが堪えられずに飛び出しちゃった」
どうやら昌也は東に蹴り飛ばされた様で、東は使った右足の脛を痛そうにさすっている。
「話、聞いてたんですか?」
「…ごめんね」
「昌也が言ったことも?」
俺が淫乱だなんて言われた事も、聞いてしまったんですか? 足元が崩れ落ちていく様な感覚を覚えた。
「隼人くん、僕は…」
「昌也っ!!」
新太さんが何かを言おうとしたその時、再びその場に誰かが現れる。
「宏樹」
「隼人!? ……昌也!!」
まだ床に尻餅をついたままの昌也を見つけた宏樹が、悲鳴のような声を上げた。
「どうしたの!? どうして倒れてるの!?」
「別に」
「隼人でしよ、隼人がやったんでしょ!」
「え、いや…」
「どうして!? 昌也が僕を選んだ腹いせなの!?」
まくし立てる様にして詰め寄ってくる宏樹に、俺は後退りする。
「いい加減諦めてよ! 昌也は僕のなんだよ!? 最近じゃあ新太まで誑かそうとしてるって言うじゃん! どんだけ卑しいんだよ!」
「うるせぇ黙れ」
東が唸るが、宏樹の口は止まらない。
「隼人は淫乱だって、昌也が言ってた通りだね! 見損なったよ!」
「テメェ!」
耐え切れず一歩踏み出した東。
――パシンッ
乾いた音が響き、宏樹の頬に熱が広がる。でも、宏樹の頬を叩いたのは東ではなかった。
「ど……して、新太…」
足を踏み出した東よりも早く、新太さんが宏樹の頬を張ったのだ。
「見損なっただって? それは君が言うべき言葉じゃないでしょう」
その場にいる全員が唖然として新太さんを見ていた。この人が怒る場面を、誰も見たことが無かったからだ。まして、彼は人に手を上げるような人間ではない。
「宏樹、君は何を見てきたの? 今までずっと隼人くんの隣を歩いて来たのに、何も見えていなかったの?」
「あ、新太…」
「彼を裏切ったのは君だろう? 見損なったのはこっちだよ。隼人くん、行こう」
呆然とする宏樹の前から俺を連れ去る新太さん。
「隼人っ!!」
そのまま彼らを残し、踊り場から離れて行こうとする後ろから昌也が叫んだ。でも、その声に一番に反応したのも、俺ではなく新太さんだった。
前を歩く新太さんの足がピタリと止まる。
「昌也くん、僕はね。今日この時までずっと君を殴ってやりたかったんだ」
「はっ、だったら殴りゃあ良い」
鼻で笑った昌也を、新太さんが振り返り見据えた。背筋が凍るほどに、冷たい目をしていた。
「殴らないよ。だって、君には殴る価値すらない」
昌也が目を見開いた。
「それと、隼人くんに馴れ馴れしく触れるのは止めてくれるかな。彼はもう、君のものでは無いんだから」
「なっ、お前にそんなこと」
「昌也くん」
名前を呼ばれただけなのに、昌也の喉がひゅっと音を鳴らした。
「手を放したのは君だよ」
「………」
「君が自ら、手を放したんだよ」
静寂が訪れ、そのまま新太さんは前を向き直ると再び俺の手を引きながら歩き始めた。
「さぁてと…アイツ等にとっては価値が無くても、俺にとっちゃ十分価値があるぜ?」
「アズ、手加減しなよ?」
俺たちが立ち去った後のその場所に、東の手を鳴らす音が不気味に響いた。
◇
「隼人くん、泣かないで」
拭っても拭っても溢れてくる涙は、悲しみよりも情けなくてのことだ。
知られたくなかった。新太さんにだけは知られたくなかった。
「軽蔑、しますよね…」
変なプレイを強要されていた。無理矢理だった。けれど、結局最後には意志に反してカラダは喜んで受け入れていたのだ。“淫乱だ”と罵られるほどに…。
「最悪だ」
再び込み上げてきたものが溢れると、今度は新太さんの手によってそれは拭い取られた。
「どうして軽蔑なんてしなきゃならないの」
「だって、俺…淫乱で」
「馬鹿。それは昌也くんが言ったことでしょう? ねぇ隼人くん。どうして人が快楽に流されてしまうか、縋ってしまうか分かる?」
まだ誰もいない、新太さんの研究室。情けない程泣き腫らした顔で新太さんを見上げれば、彼は俺の髪を優しく梳いた。
「それはね、心が満たされていないからだよ。勿論それだけが全てじゃあ無いけど、隼人くんの場合は顕著だよね。昌也くんからの好意を、与えられる快楽から感じようと必死だったんじゃない?」
心が交わっている気がしなかった。好かれている感覚も、自信も、何も無かった。ただ不安だった。
与えられるものは何もない。与えるものも分からない。
有るのはただ体を重ねることだけだった。
昌也の友人数名に廻されかけた時に、キレたアイツを見て初めて喜びを感じた。けど…それはただ、おもちゃを勝手に触られた子供の癇癪と同じだったと後から気付いた。
「辛かったね、寂しかったね」
新太さんの腕の中に抱き寄せられ、じんわりと伝わってくる温もりに涙腺が余計に緩んだ。
「隼人くん、どうやら僕はね…君に惹かれてるみたいなんだ」
「え…?」
「驚くよね? 僕も驚いてる。つい最近まで“宏樹、宏樹”って紡いでた自分の口が信じられない」
ふふふ、と優しく笑う声が耳をくすぐった。
「今日はね、一人で大丈夫だと言った君を放っておけずに後をつけてた。西くんと東くんにも頼んで、昨日から計画を立ててた」
「大丈夫って、その事だったんですか?」
「最初から一人にするつもりは無かったよ」
俺は新太さんの胸元を手で押して少し離れる。
「俺は…そんな風に思って貰う資格なんて無いのに」
「どうして?」
「だって俺、最近まで昌也を」
「それは僕もでしょう」
「でも…」
「こんな事ってあるんだ、って驚いてるんだ。僕は今、君の事が可愛くて、愛しくて、護ってあげたくて仕方ないんだ」
俺は今まで一度も言われたことのない、率直な言葉に驚いた。
「さっきも言ったけど、僕だって最近まで別の誰かを好きだった。だから直ぐに信じて貰えるなんて思ってない」
「そんなこと…」
「焦らなくて良いよ。ゆっくりでいい。だから、跳ね除けないで僕の事を考えて欲しい。出来れば前向きな方向で」
離したはずの距離を、もう一度寄せられ抱き締められた。ぎゅうっと、強く、でも優しく抱き締められた。
胸が、痛んだ。
でもそれは不思議と不快感のない痛みで、感じたことのないものだった。
(あぁ、そうか…これが満たされるってことなんだ)
「新太さん…」
「ん?」
撫でられる髪が気持ち良い。
「俺、こんなに心が満たされたのは初めてです」
俺は新太さんの背中に腕を回し、きゅっとシャツを握る。そうして胸元に顔を埋めたままじっとしていたけど、余りに新太さんが無反応なのが気になり顔を上げた。
「新太さん…?」
すると新太さんは、何故か片手で目元を覆っていた。
「どうしたんですか?」
「もう、……堪らないな」
「へ?」
覆っていた手を外した新太さんの目元は、薄っすらと赤みを帯びている。
「前に話した事があったよね、『好きだからこそ我慢出来る』って」
「あ……はい、」
随分と前の話が出てきたな、と俺が首をかしげると、新太さんは俺の頬をその優しい手でするりと撫でた。
「あれ、撤回するよ。ごめんね」
「え、」
電光石火のごとく。
俺が新太さんに唇を奪われたのは、瞬きするよりも早かった。
END
おまけ@
戻る