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朝目を覚まし、直ぐに眩暈を起こす。全身の怠さ、腰の痛み、そしてそれよりもっと激しい痛みを主張する…俺の下半身。
記憶はある。いや、和穂との部分だけは記憶が飛び飛びになっていた。何度も何度も気を失ったから。だが、その後からはしっかり記憶に残ってる。
和穂に与えられた痛みばかりの交わりとは大きく異なる、優しい、余裕のある、甘い交わり。だがそこに“愛”は無い。幾ら死にたくなる程精神をやられていたとは言え、まさかそんなものに自分が縋るだなんて。男の…上代の玩具になることを、受け入れるだなんて。
アイツはただ単に、今の巻き込まれた状況を楽しんでいるだけだ。でも…だからこそ俺はその手に縋りたくなったのかもしれない。兄弟達の見た目に惑わされない上代なら、俺を…あの悍ましい混沌から引き上げてくれるんじゃないかって、そんなことを、俺は…
(何やってんだよ…)
馬鹿げた妄想に、俺はただ頭を抱えた。
目が覚めてからも暫く起き上がる気になれずもだもだとしていると、開け放たれたままの部屋のドアがコンコンと鳴らされた。
「そろそろ起きられる?」
「…………」
「もう直ぐ昼だよ」
「嘘っ!?」
目が覚めた時はまだ7時だったはずだ。慌てて時計を見れば、上代の言う通り時計の針はもう直ぐ天辺で揃いそうだった。
「なっ、なんで!? ッツ!」
驚いて飛び起きると、全身に走る筋肉痛の様な痛みによろけた。
「オイオイ、大丈夫?」
「煩いっ、触んな! …て、ぅあっ!?」
俺の身体を支えに来た上代を振り払うと、逆にその手を掴まれ再びベッドへ沈まされた。倒れこんだ俺の上に、上代が覆い被さる。
「ンなっ、退けよ!」
「だぁ〜めだよ次男くぅん。俺たち今、一応恋人同士なんだよ? もう少し俺に優しくしないとぉ」
「…フリ、だろ」
「それでも。普段から細かく意識してかないと、フリだって直ぐにバレちゃうよ? …わ、いってぇ〜」
今度こそ、突き飛ばした上代の身体は床に尻餅を付いた。俺は慌てて立ち上がる。
「フリなんかしたって絶対意味無い!」
「どうして?」
「知ってんだろ!? ここで今までアイツらが何してたか! 欲しいもんは力尽く、気に入りゃ恋人居る奴だって平気で弄んで来たんだぞ!?」
「へぇ、知ってたんだ」
「ッ、身内の恥だと…思ってたよ…」
俺が項垂れると上代が声を出して笑った。
「やっぱ次男くん、面白いね」
はぁ? と思って顔をあげれば、立ち上がった上代が俺の顔を覗き込んでいた。
「何したって無理だって思ってんの?」
「…………」
「じゃあそうやって、永遠に諦めて生きてくの? 兄弟たちにアンアン言わされながら」
「ッ!!…っ、……ッ…」
何か言い返したいのに、何も言えなかった。
実際俺は、あの兄弟達を前にすると驚く程何も出来なくなる。上代に対してなら言える言葉も、彼奴らを前にすると何一つ出てこなくなってしまう。過去を思い出した今、俺は彼奴らが…怖くて、仕方ない…。
「覚えてるかわかんねぇけど、俺言ったじゃん? 俺なら助けてあげられるかもよ、って」
唇を噛んだままの俺の顎を上代が持ち上げ、冷たい親指が唇を撫でた。
「一応それ、戦略あっての言葉だよ」
「…へ?」
「まぁ、その場しのぎ的な話なんだけど。それでも無いよりはマシだし、他の奴よりは役に立つよ、俺」
ポカンとする俺に、上代がニカっと笑って見せる。その笑顔に、何故か何の根拠もないのにホッとした。
小さく一つ、息を吐く。
今ここで上代を拒絶したって、兄弟達から逃げる方法が他にある訳じゃない。だったら、今目の前にある“ソレ”に縋る他無いんじゃないのか。
「取り敢えずさ、騙されたと思って俺のモンになっときなよ。ね?」
そう言って上代は、ちゅっ、と軽く俺にキスをした。目を見開く俺に、自身の唇をペロリと舐めならが上代が言う。
「さっき突き飛ばされたお詫び、頂き」
俺の顔が、熟した林檎より紅く染まった。
適当に自室で早めの昼を済ませると、上代と並んで部屋を出た。そんな中途半端な時間帯では、他の生徒の姿など無くとても静かだ。
「あ、」
「ん?」
寮から出て行く間際、寮監である三十代の男と目が合った。が、スッと逸らされてしまう。
(あの人って確か…)
そこまで考えたところで、俺の隣から「抱き込まれたな」と呟きが聞こえた。
「は?」
「アイツ、四男くんに相当入れ込んでるって話じゃん。あの様子じゃ、完全に丸め込まれてんな」
そのまま歩き出す上代に着いて、俺も慌てて足を動かす。そっと振り向いてみると、寮監は何所かに電話をしているところだった。
◇
案の定、俺たちが寮を出たことは筒抜けだった様で、玄関先には見事に勢揃いした兄弟が待ち伏せしていた。
「皆さんお揃いとは珍しい」
ヘラっと笑った上代が、そっと背中に俺を隠す。
「へぇ、昨日オイタをしたのは三男くんかぁ」
上代の言葉で思わず顔を覗かせ、諒と由衣に挟まれて立っている和穂を見た。そして俺は絶句した。
「和穂…」
昨日までは確かに美しい王子様だった和穂の顔は今、青あざで溢れ、口端も切れて血が滲んでいる。左目など眼帯をしていても腫れているのが分かり、痣もはみ出していた。
「何でそんな怪我…」
「紫穂ちゃんにあんな酷いことをしたんだ、当たり前でしょう? 寧ろ殺してやりたいよ」
にっこりと笑う由衣に息を呑む。由衣はそのまま俺から視線をズラし、鋭く尖った目を上代に向けた。
「それよりテメェ、どういうつもりだよ」
「何がぁ?」
突然口調の変わった由衣に、俺の身体がビクッと跳ねた。でも、上代は何も変わらない。そんなことすら知っていたかの様に、上代はヘラヘラと更に煽る様に笑った。
「しらばっくれてんじゃねーよ! オメェが紫穂ちゃんに興味無ぇことくらい知ってんだよ! 今まで放置してた癖にっ、今更何のつもりだッ!!」
鬼の形相な由衣に、途端、上代がケラケラと笑いだす。
「良く言うでしょ? 大事な子ほど、大事過ぎて手ェ出せ無いって。それがほら、部屋に戻ったらあ〜んな酷いことになってた訳よ。そりゃ俺としては、みんなに“コレは俺のですよぉ〜”って知らせなきゃならなくなるじゃない?」
ね? と笑って振り返る上代に、俺は口端を引き攣らせた。
「な、何の話だよ上代…」
「えー? だからぁ、昨日次男くんが浴室で喘いだ可愛い可愛い声がね? 色んな部屋にだだ漏れだったって話」
全身から血の気が引いた。
まさか、あんな声がだだ漏れだったなんて……いや、考えれば分かる。あそこは浴室だ。めちゃめちゃ響く。
「ッさいっあく!!」
俺は頭を抱え座り込む。そこに、諒が紫煙を吐き出す音が響いた。
「上代。お前、何したか分かってるか」
諒の誰よりも抑揚の無い声に、再び俺の身体が強張った。声を向けられた先は俺なんかじゃ無いのに…。
「当たり前でしょ」
珍しく、上代の声がふわふわしなかった。
「全部分かってやってる、だから報告しといてやるよ。俺たち昨日からお付き合いしてまーす。この子は……俺のだよ」
「お前、その意味本気で分かってるか」
諒の怒りを含んだ声に、上代が可笑しそうに喉を鳴らした。
「そっちこそ分かってる? 俺にとっちゃ、アンタはただの“教員”だ。それと、ポっと出の成金息子。いざとなったら、俺だって立場使っちゃうよ?」
そう言って首をコテンと倒した上代に、諒は舌打ちをして煙草を踏み潰した。
「言っておくが引く気なんてねぇからな。紫穂はどう転んでも、お前のに何かなんねぇよ」
そのまま踵を返す諒を、“何で!? 何で!?”と由衣が喚きながら追いかけて行った。そうしてその場に残されたのは、一言も口を開かなかった和穂。和穂はただ、片目だけでジッと上代を見ていた。
「三男くん。君からの悪趣味な挑戦状、ちゃんと受け取ったよ」
そう言った上代は無表情だった。
そんな上代に和穂はフンっと鼻を鳴らし、そのまま視線を蹲る俺に移すと血の滲んだ痛々しい…けれど形の良い唇を薄っすらと開き、数回それを開閉する。
「……ッ、」
俺がそれを読み取ったとわかると、和穂は微笑み、彼もまた俺たちに背を向けた。
背筋が凍る。
確かに和穂は言った。
“シーちゃんは僕のだよ”
残りの半日は、目まぐるしい日となった。
人気上位者であった上代との交際発覚を騒ぐ新聞部に追いかけられ、上代のファンには冷たい目を向けられ…。兄弟たちから極力離れることで手に入れて来た平穏はあっという間に崩れ、今までの努力は泡となって消えた。
だが俺に暴言や暴力を向けられなかったのはきっと、そんな避けて来た兄弟達や、今の俺のバックに立つ上代の存在が大きいのだろう。何だか複雑な気分だった。
そうしてクタクタになって寮に戻ったところで、俺は漸く上代に疑問を口にする。
「今朝…何で兄さんはお前から引いたんだ?」
あの傍若無人な諒なら、上代から力尽くで俺を引き剥がし、そのまま好きにする事なんて簡単だったはずだ。なのに、あの兄が苦々しい顔をしながらもスッと引いたのだ。
俺が首をかしげると、上代が俺をジッと見つめて言った。
「俺、理事長の孫なんだよね」
「……は?」
その顔にいつものヘラヘラした笑顔は無い。
「教師たちくらいしか知らない事だけどね。俺、一応御曹司ってやつなの。まぁ、あの長男が引いた理由はまた別だけどね」
「別…」
「ジイちゃん、仕事手広くやってっから」
そこで俺はやっと納得した。
「父さんの会社の…取引先なのか」
「一応あの人も、親の仕事は大事みたいだね。継ぐ気あんのかな?」
信じられない位の上代のサラブレッド具合と、その背後で繋がっていた家同士の関係。
「び……びっくりだな…」
そんな許容範囲を大幅に超えた情報を前に、俺は気にすべき事を一つ、忘れてしまっていた。
“なぜ由衣は、和穂の強行を知っていたのか”
上代は自身の携帯から、添付ファイルの付いた送信メールを一通、そっと削除した。
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