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【SIDE:数馬】
今まで生きてきた中で、何かに執着することなど一度も無かった。
それが例え己の人生であったとしても、そこにしがみ付いてでも守りたい物や、この手に残したい物は何一つとして持ってはいなかった。
「お疲れ様、数馬くん。お茶でもどう?」
「いえ、今日はもう戻ります」
「そう? じゃあ車を回させようね」
来た時と変わらぬ乱れの無いスーツ。
先ほどまで何をしていたかなど、この姿を見た者は誰も気付きはしないだろう。
仕事の為に体を売る事に抵抗は無かった。
今より格段に若く幼い頃から金の為に差し出してきた体だ、今更見知らぬ男を抱けと言われた所で、俺にとっては大した話では無かった。
◇
回してもらった車も断り外に出た。
まるで嵐の様な夜だった。
安いビニール傘の骨は今にも折れそうだったが、その時はその時だとスーツが濡れるのを気にもせず夜道を歩く。
八島組の本家から自宅のマンションまでは結構な距離があり、まだ店の方が近いかと足は自然とそちらに向いた。
自身の体を売る事に抵抗は無い。
無いはずなのに、偶に無性に気分が悪くなる事があった。どこもかしこも腐っている様な、全身が穢れ肉が爛れ落ちていく感覚に襲われるのだ。
その日もまたそんな感覚に陥っていた。だからこそ、この嵐の様な酷い雨に降られて帰りたくなった。
雨が、腐った部分を洗い流してくれるとでも思ったのかもしれない。
人気の無い薄暗い公園の垣根に、何かが落ちていると気付いたのは偶然だった。何となく引き寄せられる様にして近付いてみれば、それは物では無く人間だった。
ぐったりと倒れこんだ“ソレ”は片方の足にしか靴を履いていない。
冷たい雨に体温を奪われたのか肌は異様に白く、唇も青く変色していた。
死んでいるんだと思った。
だが、暫くジッと見ていると“ソレ”の短いまつ毛がピクリと揺れる。
やがて何かに呼ばれたかの様に重たげな瞼を持ち上げ薄っすらと開くと、その瞳はしっかりと俺を認めた。
「…………っ、…」
何か言おうとするが力が残っていないのか声が出てこない。もしくは、出ていたのかもしれないが激しい雨がそんな小さな音など打ち消してしまったのだろう。
ソレは不思議な目をしていた。すがる様なものでも無く、何かを期待する様な目でも無かった。目が離せなくなっていた。
そうして気付けば、俺は無意識に手を差し出していた。
黙って手を差し出した俺をソレが見つめ、その瞳からポロリと涙を零す。
それが本当に涙だったのか雨だったのかは正直わからない。
だが、それがそっと俺の手に重ねられた手を強く引き上げるきっかけになったことだけは、間違いようのない事実だった。
◇
拾った男【糸】は、年齢を聞けば一応成人している様だったがその中身は幼いガキそのもので、想像以上に阿呆で無知で…哀れな存在だった。
店の有るマンションの空き部屋に連れて行き、直ぐ風呂に押し込んでやれば黙って冷水を浴びているし、お湯に変えてやれば「何これ!何これ!気持ちい!」とはしゃいでいる。
脱がせた服や下着は、絞れる程濡れていても目立つくらい汚れが酷く、解れや消耗が激しい。
それだけでこれまでの生活環境を多少伺い知れたが、何より、糸のその素肌が凄惨な過去を物語っていた。
どれだけの人間に傷付けられて来たのか。
それは、その体を見ただけで簡単に想像がつく程に酷いものだった。
暖かい湯とシャンプーでしっかりと汚れを落とし乾燥させた糸の髪は、まるで紅葉の様な色をしていた。光を通すと微かにオレンジ色にも見える。
ふよふよクルクルと自由な動きを見せるその髪に触れれば、その手触りは柔らかい毛糸みたいで気持ちが良い。
何となくそのまま撫でてやれば、まるで猫みたいにその腫ぼったい目を細めて撫でられている。
その内喉をグルグルと鳴らすのではないかと思うと、思わず笑いそうになった。
「オーナー、お粥出来ましけどもう食べさせますか?」
キッチンからヨシがこちらに声をかける。
その顔は疲れが濃く浮かんでおり、突然呼びつけられた不満も滲んでいる。
それでも俺が頷けば、ヨシは簡易のローテーブルの上に手早く用意した殆んどお湯に近い粥を持って来た。
「ゆっくり食べろよ? 熱いし、急に入れると胃が驚いちまうからな?」
ヨシが諭す様に声をかけるが、余りの空腹でかその声は糸の耳には入らなかった。
飛びつく様にしてヨシからレンゲを奪った糸は粥を口に掻き込んだ。
「おい!!」
「ひぃあうっ!?」
案の定熱さで火傷したのか糸がレンゲを弾き飛ばした。床に落ちたレンゲがガランと音を立てて転がる。
「馬鹿野郎、水飲め」
冷たい水を汲んだコップを渡してやれば、俺の手ごと掴み勢い良く飲んだ。
「オラ、口ん中見せてみろ」
ぷはぁっ、とコップから口を離した糸の頬を俺に向けさせれば、糸は言われるがままに「あ"〜」と口を開く。そこに親指を少しだけ入り込ませると、糸の唇が柔らかく反発してみせた。
口内を覗き込む為に顔を近づければ、低い鼻の上に散らばるソバカスが一瞬目に入る。
「舌も出せ」
「レロ…」
「少し赤いがまぁ、大丈夫だろ」
と、そこでヨシを見ると変な顔をしている。
「何だ?」
首を傾げて見せれば更にその顔は奇妙に歪んだ。
「いや…先輩が人の世話してるなっ…って思って」
ヨシが俺を昔の様に“先輩”と呼んだ。よっぽど気が動転しているのだろう。だが、その気持ちは俺にも多少理解出来た。
過去の…ヨシの知る俺からは、こんな小さなガキの様な、それでいて成人しているよく分からない男を拾い、挙句世話をする姿なんて信じられないのだろう。
そしてその感覚は間違いでは無く、今も昔も変わりなく例え小さなガキが目の前でぶっ倒れて居たとしても、俺は自らの手を差し伸べる様な真似はしなかったはずだ。
「まぁ、拾っちまったからにはもう、コイツは俺のモンだからなぁ」
何故か拾う気になってしまったのだから仕方ない。そう思って必死で粥を食べようとする糸の髪を混ぜれば、ヨシはまた奇妙な顔を俺に向けた。
◇
「あっ、あっ、まって、あ…待って、待って! もっ、イッちゃ…からぁ! あっ! かずまひゃっ、あっ、ンぁあっ!!」
糸を繋いでおく役割を担った小さな部屋の中で、まだまだ細く肉付きの悪いカラダを好きにする。抱かれ慣れたその内は従順に俺を受け止め離すまいと蠢いていた。
性欲とは無縁だったはずの淡泊な俺のカラダは、そんな糸を前にすると絶倫のキチガイに変貌してしまう。
どれだけ穿っても抉っても物足りない。孕むほどに欲を吐き出しても物足りない。
こいつは尽きることの無い俺の激しい欲望を引きずり出してしまうのだ。
「はっ、はっ、はっ」
「ぁあうっ、うっ、ん! んん! あっ、」
「オラっ、足、上げろ」
「あぐぅっ!! あっ、ぁあ"っ、い"っ」
深すぎる繋がりは多分、糸に痛みを与えている。それでも嫌とも言わず言われるがままに動くその姿に、下半身は更に刺激を受けた。
誰にも触られたくない。
誰にも取られたくない。
取られるくらいなら、いっそこの手で殺してしまいたい。
どうしようも無い気持ちでいっぱいだった。
これ程の激情を覚えたことは過去に一度も無かった。
実の父親に多額の借金を背負わされ、母親と共にその身を売られ、好きでもない女を相手に体を差し出す羽目になった時でさえ、冷め切った俺の感情は揺れることが無かった。なのに…
この赤く色づいた哀れな存在は、最も簡単に俺を揺らしてみせるのだ。
「ぁああ"ぁ"あぁ"ああぁあっ!!!」
足をピンと伸ばし痙攣した糸。
ソバカスの上に点々とかいた汗をベロリと舐め取ると、骨が軋む程に強くその身を抱き締めた。糸は意識の無いまま、そんな俺の背を緩く抱き返してみせた。
意識を飛ばしたまま眠ってしまった糸の事後処理だけ済ませると、そっと静かに部屋を出る。
また憂鬱な一日が始まる夜明けを背にマンションを後にしようとすれば、乗り込んだ車に近付いて来る人影がひとつ見えた。
珍しく男らしい服を身に纏っているが、その容姿は矢張り少女の様だ。
「ユキ」
「少しだけ良いですか?」
開いた窓の先に見たユキの目は真剣だった。
話したいことの内容には何となく目星がつく。こいつは、俺と同じものを見ていると知っているから。
「どうした?」
「聞きたいことが…有るんです」
ユキの喉がゴクリと唾を飲み込み動く。
「もしもあの日、別の誰かが数馬さんより先に手を差し出していたら……糸くんはきっと、その人の物でした…よね」
「…………」
「あの時、偶然数馬さんが糸くんを拾っただけで、糸くんは」
「別に誰でも良い、ってか?」
ユキの体がびくりと跳ねた。
「その例え話に何の意味がある?」
「だって! もしかしたら糸くんにも別の道がっ」
「糸が俺から離れたいと言ったのか?」
「っ、……それは」
「もしももクソも無ぇ、あの日、糸に手を差し伸べたのは俺だ。刷り込みだろうが何だろうが、糸が見てるのは俺だけなんだよ、ユキ」
怯んだユキに、俺は大人気なく鼻を鳴らした。
「だがまぁ…その“もしも”ってヤツに答えてやるなら、“もしも”糸が他の奴の手を取ったなら俺は、その手を腕ごと切り落として俺の元に戻すだろうなぁ」
なんせ、アイツは俺のだからなぁ。
ニイッっと笑ってみせると、漸くユキは戦意を喪失した様だった。
「お前、仕事帰りだろ? さっさと体休めて仕事に備えろ。じゃあな」
開いた窓が閉まり切る前に車が走り出す。
バックミラーには、暫く立ち竦むユキの姿が映っていた。
昔から、全身が腐っていく様な、穢れが蔓延していく様な感覚に襲われることがあった。
糸を拾うあの日まではそれが不快で仕方なかった。でも、今は違う。
糸を手元に置き、そのカラダを好きにする度に俺の中の腐食は速度を上げている気がする。しかしそこに不快感は少しも無かった。
糸に深い執着を持ち、嫉妬を覚えた俺はその身の内を日に日に腐らせていく。
だがその感覚は俺にとって、
笑えるほど心地の良いものだった――――――
END
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