その手に残ったのは
それから数日後。
ようやく、和泉が動いた。
一人にしてほしいと女房たちを下がらせた椛は、脇息にもたれかかって御簾の向こうを見つめていた。
「神泉苑、ね……」
お忍びとはいえ、今上が内裏を出る噂などすぐ広まるに決まっている。
その上で、彩雪を連れて行ったのは、久方ぶりの二人の時間を過ごすため。
そして、『彼』に機会を与えるため。
それが何の機会か、分からない椛ではない。
心底、彩雪がうらやましいと思った。
一人の人に愛されて、ほかに后は必要ないと。
そして、それ以外の后には、和泉は目も留めない。
幼馴染という点で目を向けくれている分、まだ自分は端から見れば幸せなのだろうが、椛自身はそうではなかった。
「……まあ、『あの方』が気づいていらっしゃるかなんて、わたくしには分かりかねますが」
かの宴以前は姿を消してしまっていた。
そして今も、都はずれの邸に住まっていると聞く。
和泉からの要請あらば都に来て、和泉の代わりに政務を執り行うのだ。
だから、会う機会はほとんどなかった。
「……和泉様も和泉様なら、冷為も冷為だわ」
貴族とのつながりを考えると、女御や更衣はいるほうがいいのも分かる。
自分はいわば、飾りのようなもの。
政略その他を考えるものではなく、皇に並ぶものとして必要とされているだけ。
そして今日、神泉苑で行われているのは、女御や更衣として入内させるために、娘を連れてきた貴族たちと冷為との顔合わせ。
昔から、欲しいものはすべて取られたと彼は言っていたが……。
「……わたくしは、ちゃんと、残って差し上げるのに」
「何がだ?」
低めの声とともに現れた影。
はっとして顔を上げて振り返れば、いささか不機嫌そうな表情で青年が立っていた。
仮面をつけているが、分からないわけがない。
落葉の香り。和泉よりも低い声。
そして纏う雰囲気も何もかもが、異なるそれ。
「冷為……。いつから、そこに?」
「お前が女房を下がらせてからだ」
随分と前からではないか。
下がらせてからそろそろ半刻はたつだろうに、ずっとそこにいたということか。
「……意地の悪い方ね。声をかけてくださればいいのに」
少し膨れた表情でそう告げると、冷為はふっと笑う。
そして、断りもなく部屋に入ってくると、椛の横にある円座に座った。
外した仮面の奥から、和泉のものより厳しさを持った目が現れて、ようやく久しぶりに会ったと実感する。
「そのようなところに座られずとも、そちらにお座りください」
和泉がいない今、ここにいるのは『今上』なのだ。同等の座に座らせるわけにはいかないではないか。
「皇族同士だ。気にする必要はない。……ここに来るのは、久しぶりだな」
椛は先々帝の娘。和泉と冷為の従姉妹にあたる。
そして、こちらに嫁ぐことは幼いころから決まっていた。
「……都を、ずっと離れていらっしゃった方のおっしゃることですか」
なかなか会えなかった。
会いたいと思っても、外に自由に出ることなど許されない。
だから、彼が来るのを待つしかなかったのに。
「それで、さっきの言葉の意味は何だ?」
「存じません。ご自分で考えられませ」
ぷい、とそっぽを向けば、あごをつかまれて冷為のほうへ強制的に向けられた。
「言わぬと、ずっとこのままだが?」
和泉とは違って、少し気の強いところというか、強引というか、せっかちというか……。
和泉が月なら冷為は太陽。光の強さという意味で、そう感じられるのは椛だけだろうか。
そして、それに翻弄されているのは、今も昔も変わらない。
分かりました、とため息交じりに言うと、冷為は手を放してくれた。
「……わたくしが、あの宴の時、神泉苑にいたこと、ご存じ?」
一年ほど前にあった、あわゆきのうたげ。
帝位をかけたそれは、結局和泉の勝ちで終わった。
それから、和泉が黄泉との戦いに向かうことができるよう、表の政務を冷為に任せることとなったのだ。
掛けが成立しようがしまいが、椛に隠し事ができる内容ではなかったことを和泉も知っているので、その掛けの意味も何もかもを教え、事の成り行きを見ていた。
そのことについては知らなかったらしい冷為は、眉を寄せながら沈黙を返してきた。
「冷為、あの時和泉様におっしゃっていましたよね。『昔から欲しいものは和泉様にとられていた』って」
再び帰ってくる沈黙。表情を変えることのないそれは、先ほどとは違い、肯定のそれ。
苦笑しながら、椛は扇を開き、自身の口元を隠しながら、庭を見つめつつ、小さな声で再びその言葉を口にした。
「……わたくしは、残っておりますのにと……」
果たして冷為がそれを望んでいるかなど分からない。
それでも……おそらく自分が、冷為の実質的な意味での后となることは間違いない。
形式的には、和泉の后だけれども。
言ってしまってから、その言葉が何を示すのかを再認識し、椛は赤くなった自覚のある顔を扇で隠した。