その手に残ったのは


 確かに先触れは行っていたようで、驚かれるようなこともなく、椛は白雪桜の更衣の部屋に来ていた。

 その名は確か、彩雪と言ったか。
 それは和泉にだけ許された名で、他の人間が呼ぶことは許されるはずもない。

 だから、椛は彼女を、彼女の前では白雪桜と呼んでいた。

 その名は皆が使うもの。問題はない。


「……白雪桜様、体調が優れませんか?」


 青い顔をしている彩雪に、椛は不安そうな表情で顔をのぞき込んだ。

 伏せた目は憂いを湛えており、さすがに見過ごせない。


「え、あ、大丈夫です!」

「そのように無理されずともよろしいのですよ? ……和泉様……今上のせいですよね?」


 少しばかり怒った表情で政務している建物の方角を見やる椛に、彼女は否定を口にはしなかった。

 だが、少し不安そうな表情をして椛を見つめてきたことに、椛は首を傾げる。
 しばしの沈黙の後、彩雪は小さな声で尋ねてきた。
 不安そうなその表情に、椛は眉を寄せる。


「……和泉、元気そうでしたか?」

「え?」

「今日、そちらに伺ったって……」


 その言葉を聞いて、椛は頭を抱えたくなった。
 やはり、その話はこちらにも伝わっていたらしい。

 後宮にどうせ来たなら、こちらにも顔を出せばいいものを。

 政務に向かう前にちらと顔を出すだけでも違うというのに。


「やることがあると、忙しそうではありましたが、元気そうでしたよ」


 多少やつれたとは思うが、あれだけの惚気が口から出るのであれば心配はいらないだろう。


「ついでに、白雪桜様の話をひたすらわたくしに。……ですから、そういう点でもご心配には及びませんから」


 彼とそういった関係はないと暗に告げると、彩雪の顔から不安の色が少しだけ引いた。

 とはいえ、そう簡単には拭えまい。
 分かっているから、まだ残っているその色には気づかないふりをした。

 沈黙が空気を満たす中、最初に口を開いたのは彩雪だった。


「あの……」


 だが、その一言が出ただけで、その先はためらっているのか、口を開けたり閉じたりしているだけで、音にはならない。

 じれったくなって、扇で口元を隠しながら、椛は首を傾げた。


「どうかされました? なんなりと、お訊きください」


 苦笑とともにそう口にすると、かなりの躊躇いの間を持ってから、彩雪は小さな声で言った。


「椛さんは……和泉のこと、好きですか?」

「ええ」


 にっこりと微笑みながら答えると、彩雪は少しだけ傷ついたような瞳をした。

 それを見て、彼女が求めていた答えを理解し、椛は笑顔を少しだけ濁した。


「と言っても、わたくしの和泉様への『好き』は、恋愛とは少々異なりますので」


 その言葉に、彩雪は弾かれたように顔を上げた。
 驚きと、疑問。その二つが瞳に映っている。


「わたくしが皇族の姫だということは、白雪桜様もご存知ですよね?」


 確認するようにそう尋ねれば、少し躊躇いがちな頷きが返ってきた。


「わたくしは、いわば道具のようなもの。『お二人』のどちらが帝位についたとて、わたくしが『皇』に入内することはとうに決まっておりました」


 自由の効かない身。呪ったことがないとは言わない。

 それでも受け入れなくてはならず、姫宮として生まれた出自のために、あの二人と過ごす機会は多かった。


「もちろん、そんな生まれですので、失礼ですが白雪桜様よりも和泉様との関わりは深うございます」

「それは……」

「でもそれは、わたくしにとっては、檻の中に入れられた生活で培われたもの。その代わりに、わたくしは宮中の外のことは、全くといっていいほど知らないのです」


 選択肢のない未来。
 あってもどちらかは必ず切り捨てられて、それが現実に未来図となるかは分からないのだ。

 他の姫ならば、好きな人と文を交わし、想いを告げあい、結ばれることも可能だろう。
 しかし、椛にそれは許されていなかった。

 仮にどちらかを好きになっても、どちらに嫁ぐかは分からない。

 帝に嫁ぐことは女性の最高の栄誉だと皆は言うが、自由に人を『想う』ことは許されない。


「ですから、わたくしの和泉様への『好き』という感情は、幼馴染に対するものなのですよ」


 彼を恋愛の対象と見たことはない。それは今でも変わらない。
 だから、和泉が帝位を継いだ後迎え入れた更衣が寵を集めていても、全く不満はなかったのだ。


「ですから、ご心配なさらず」

「……でも、椛さんは、これからどうするんですか?」


 和泉がやっているのは、今一人の和泉――弟の冷為への引き継ぎ。
 表の政務は冷為へ任せると言っていたが、椛はどうするのかという疑問が湧く。

 首を傾げる彩雪に、椛は苦笑した。


「おそらく……形式的な妻、となるでしょうね。皇族の姫であれば、皇后となることはほぼ確定しているようなものですから」


 それでも、和泉は彩雪一人を愛し抜く決意でいる。
 であれば、その対象とならなかった人は、皆形式上の妻となるのだ。


「あの、ごめ……」

「謝らないでください。……わたくしは、今の結果を悔しくは思っておりません」


 后の問題は、なんとなく察しは付いている。
 そして、和泉が今後どのような手立てを立てるのかも。


「逆にわたくしは、感謝しておりますもの」


 その言葉に彩雪は首を傾げたが、その意味を椛が口にすることはなかった。


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