甘い噂に尾ひれ
「あのさ、今日で付き合い始めて一ヶ月だよね?」
頼み事の前置きに、桜花は何度か瞬きして、少しホッとしたような複雑な笑みを桜花に向ける。
「……ちゃんと覚えてたんですね」
「忘れる訳無いでしょ、大好きな桜花ちゃんとの記念日なんだから」
『大好きな』。その一言だけでもものすごく嬉しい。覚えていてくれたことはなお嬉しかった。
だが、それとこれとの話の繋がりが見えず、桜花は首を傾げる。
「それで、何ですか?」
「キスさせて?」
ふと囁かれた言葉によるあまりの衝撃に頭が真っ白になり、桜花はぽかんとした表情で隣に座る沖田を見つめた。
「……はい?」
しばらくたって桜花は目を見張ってそう口にした。
――キス? え? この状況で言うこと!?
「……もしかしてここで、とか言いませんよね…………?」
別にキスは付き合い始めてから幾度かしているので問題はない。
ない、が。
「そうだよ、って言ったら?」
「ここがどこか分かってますか……?」
カウンター式のテーブルの前には磨りガラス。しかしそれは一部にあるだけで、大部分が透明なガラス。しかも通行人はあちらこちらにいるし、時折こちらを見る人もいる。
しかも店内には多数の客。
見目顔立ちの良い彼らにちらちら視線を向ける人も少なくない。
「嫌です」
「えぇー。いいじゃない、別に。減るものじゃないんだし」
「嫌ったら嫌です!」
小声で反論すると、つまんないなぁとメロンソーダを飲み、店の外をじっと見る。特に何かがあるわけではないのだが、どこか淋しそうにも見える。
嫌なものは嫌なのだが、かといってこんな顔をさせるつもりもなかったと、桜花はケーキを口に運ぶ。
だが、考え事をしながら食べていたためか、唇の左側に少しクリームがついてしまった。
みっともないなぁと思いながら紙ナフキンを取ろうとした時、ふいに目の前に焦げ茶が広がった。
「……へ?」
突拍子もないその行為に、何とも可愛いげのない言葉が口から放たれた。
ざらりとした感触とともに、何かがはぜるような感覚が口の左側に広がる。
「ごちそうさま」
ぺろっと舌で己の唇を舐めながら、満足そうに沖田は笑った。
図ったかのようなその行為は、はからずも多数の通行人及び店内の客の目に留まることとなり、ケーキを食し終えたあと、真っ赤に顔を染めた桜花を、多数の人々が微笑ましそうに見送ったのだった。