甘い噂に尾ひれ
はぁ、と息をついて、少女は腕時計を見た。長針があと少し振れれば五時だ。
「『一緒に帰ろうね』なんて言った本人が遅刻って、なんなのよ、もう……」
かれこれ約束の時間から三十分が過ぎている。再び大きなため息をついた途端、不意に視界が暗くなった。まめだらけの手がまぶたに触れ、それが誰かを教えてくれる。
「……あれ、何の反応もないの? つまんないなぁ、もっと驚いてくれると思ったのに」
心底残念がっている風情の彼に、くるりと回れ右をして少女――桜花は彼を半ば睨むようにして見上げる。
「驚くもなにも、こんなことするの、沖田先輩しかいないじゃないですか!」
待たされたことへの苛々とともに沖田に感情をぶつけると、彼は楽しげに笑った。
「あはは、ごめんね、待たせちゃって」
「……気にしてませんから」
そう言うわりには感情がありありと顔に出ているので、不満そうなのは丸分かりだ。
放課後の今、まだ生徒はいくらか残っている。
門前で睨み合う二人を、帰って行く生徒たちがちらちら見ていく。
顔立ちの調った二人なので、二人が付き合い始めたという噂はすごい早さで学園じゅうに広まった。
そのこともあって、二人が揃っていると、噂の二人だ、と視線を向ける人が多い。
付き合い始めたのは事実なので否定する必要もないし、するつもりもない。……ものすごくうっとうしいが。
確か今日で付き合い始めて一ヶ月だった気がするのだが、彼は覚えているのだろうかと考えていた桜花は、にやにやと笑う沖田に再びむっと頬を膨らませた。
「なんですか、沖田先輩。人の顔見てニヤニヤするなんて、失礼ですよ」
「え? うん、分かってるよ。でもさ、そんな顔で睨まれても怖くも何ともないし。むしろかわいいよ、桜花ちゃん」
さりげなく放たれた最後の一言に、桜花の顔は真っ赤に染まった。夕暮れ時で辺りが赤いにもかかわらず、それがとてもよく分かる。
「か、からかわないで下さい!」
くるりと再び体を翻し、桜花はそのまますたすたと歩いて行く。
否、行こうとした。
――かばんを持つ右手をふいに取られて足を止められたのだ。
「ね、桜花ちゃん。一緒に帰るって約束したよね?」
「人を三十分待たせてよくそんなことが言えますね」
「仕方ないじゃない、しつこい古典教師が追い掛けてきたんだから」
まるでそれを証明するかのように、校舎の方から「総司いいぃぃぃ!」と怒鳴り声とも叫び声とも取れる声が聞こえてくる。
古典教師・土方の声だ。
恐ろしいものを見るような目でそちらを見た桜花の手から、かばんが離れた。
ふと見れば、沖田が桜花のかばんを手にしている。代わりと言わんばかりに、彼の左手が桜花の右手を取っていた。
「やっと撒いたんだからさ。早く帰ろうよ。見つかったら君も一緒に逃げるんだからね?」
全く関係ない事情で巻き込まれることが確定していることに、桜花は百万語が込み上げてきたがぐっと抑える。
夕暮れで伸びに伸びた影法師が、重なり離れを繰り返すのを見ながら、桜花は手を引かれるまま歩き出した。