『隣』という居場所
『ほら、おいでよ、桜花』
昔、あなたはそう言って私の手を引いてくれた。
私はいつもあなたと一緒にいた。
隣にいるのが私なのも当たり前だった。
強い霊力を持っていたために家族からも疎まれて、闇に飲み込まれそうになっていた私が、彼の許婚という立場でこの安倍家に迎え入れられたのは随分前。
なのに。
ずっと一緒にいた私じゃなくて、どうして『その子』なの…?
「それでね、今日市に行った時に……」
「そっかぁ、そんなことがあったんだ……」
隣の部屋から聞こえてくる話し声に、桜花は唇を噛み締めた。
彰子が来たのは少し前だ。半永久的にこの邸にいることになるからと、この邸の主である晴明からここに来る経緯を知らされた。
「……どうして…」
桜花は小さく呟いた。
彼女がきてから、昌浩と話をする時間がめっきり減って、一人で過ごすことが多くなった。
元服を済ませて出仕を始めたら、話す時間が減ることくらい分かっていたからそれは問題ない。
でも、帰ってきた彼が真っ先に向かうのは、自分のところではなく、彰子のところなのだ。
「どうして………?」
私は、あなたの許婚なのではないの?
私の存在は、ただのお飾りなの…?
「……いや………そんなの、いや……!」
私は、何のためにここにいるの?
あの子が来たら、わたしは構う必要のない人間だとでもいうの?
「……『そこ』は、私のものなのに……!」
私より恵まれた環境で生きてきたお姫様。
私と同じように見鬼なのに、両親から愛されて、幸せに暮らして――。
私が与えてほしかったものを持っていた、藤原のお姫様。
あとから来たくせに……。
取らないで。返して。
そこは私の居場所なんだから。
私の、たった一つの居場所なんだから。
「返して……」
昌浩を、私に返して!
胸の奥にどす黒い感情が広がっていく。
黒くてねっとりとしたその感情は、桜花の感覚を麻痺させる。
皆、彰子様の事ばかり。
ねえ、昌浩。
あなただけは、私の味方でいてくれる?
私の事、分かってくれる?
……ねえ、昌浩。
あなたはどうして、彼女の元にばかりいくの?
あなたはどうしたら、私のところに帰って来てくれるの?
『………殺せばいいわ』
唐突に、誰かがそう呟いた。
おぞましく恐ろしく、それでいて逃げたいとは思わなかった。
自分の中の黒いものがそれに反応する。
『殺してしまえばいいの………あの娘を』
「……ころ、す……?」
『あの忌ま忌ましい娘がいなくなれば、きっとあなたのところに戻ってきてくれる。だって、あなたの許婚なんだもの』
「いなく、なれば……」
そうなの……? と桜花は呟いた。
『あの娘さえいなくなれば、あなたの元にあの人は戻ってくるわ……』
その日の夜、桜花が安倍の邸から、姿を消した。